↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
20/26

第十七話 金槌と輿

 セルネの丘のガラスが掘り尽くされた、という話は、ダンも聞いてはいた。


 聞いてはいたが、商売柄の実感が湧いたのは、竜の涙の値である。小指の先で銅貨五枚だったものが、十枚になり、十五枚になった。丘の頂のガラスの原は、縁から齧られ続けて一年、今や真ん中に犬小屋ほどの島が残るきりで、その島は学芸院の札と番人の爺様が(昼間は)守っている。売り物の出が細れば、値は上がる。値が上がれば、人はどうするか。


 答えは、雨上がりの晩に、金槌の音でやってきた。


 カン、カン、と。夜半の東稜堡の下、例の溶けた砲座のあたりから、遠慮のない音がしたのである。最初に気づいたのは、荷車の下で寝ていた飴売りだった(あの男は店の場所を守るために半分あそこに住んでいる)。飴売りはダンの長屋まで走り、ダンは寝惚け眼で「音がしてから起こしに来るやつがあるか、番兵を起こせ番兵を」と怒鳴り、飴売りと二人で衛所の戸を叩いた。


 捕り物は、捕り物と呼ぶのも大袈裟な代物だった。番兵二人が灯りを持って下りていくと、砲座の縁に男が二人、鏨と金槌を持ったまま突っ立っていて、逃げもせずに捕まった。逃げなかった理由は後で分かった。悪いことをしている自覚が、二人には薄かったのである。曰く——丘のガラスは拾っていいのに、こっちのガラスは何で駄目なんです?


 理屈としては、聞けなくもない。丘は入会地で、稜堡は軍の管理地である、という線引きは、確かに石には書いていない。書いていないが、駄目なものは駄目である。二人は丘の土産卸に日銭で雇われた人足で、卸の親方は「拾ってこいとは言ったが場所までは言っとらん」と白を切り、結局、人足二人が数日の留め置きで済んだ。石を欠いた咎で牢に入れるほど、王都の牢も暇ではない。


 済まなかったのは、後始末のほうである。


 軍務局は面目を潰された。獣害の記念碑的な痕を、夜中に土産物にされかけたのだ。翌週には砲座の周りに杭と縄が張られ、番兵の夜回りが定められ、さらにその翌週には、こともあろうに、木戸が付いた。日中は開いている。開いているが、木戸は木戸である。


 こうしてダンの営業所の背景——誰でも寄れて、触れて、指を差せた、あの黒光りする石は、縄の向こうの「管理された痕跡」になった。見物は減らなかった。減らなかったが、質が変わった。縄の外から眺めるだけの見物は、財布の紐も、縄の内側にいる。


 ダンは石段の三段目で、縄と木戸を眺めながら、飴売りに言った。


「……なあ。俺たちが番兵を呼んだんだよな、あの晩」


「呼んだねえ」


「呼ばなきゃ、砲座が欠けてた。呼んだら、商売が欠けた」


「世の中、そういうふうに出来てるんだよ」飴売りは達観していた。「うちなんか丘とここの二本柱だよ。丘は品切れ、ここは縄付き。……次はどこが流行るかねえ」


 次。ダンは、その言葉を、聞き流さなかった。聞き流さなかったことを、後で少し、後悔することになる。


---


 同じ週、尚書局では、東便の荷が開かれていた。


 調査報告、学術報告、星図の写し——ここまでは、写字生たちの慣れた仕事である。手が止まったのは、油紙の包みだった。板に挟まれた八葉。但し書きに曰く、画、八葉。原画ニ非ズ、画工自身ノ手ニ成ル写シナリ。


 立ち会いの役人が、一枚目を、灯りに向けた。


 その部屋にいた七人が、後々まで、その晩のことをそれぞれの言い方で語っている。写字生の一人は「手が寒くなった」と言い、別の一人は「部屋の灯りが急に貧乏くさく見えた」と言った。役人本人の言い方が、一番事務的で、一番正確だったかもしれない。曰く——「八枚目まで検めるのに、半刻かかった。検めるだけなら、四半刻の仕事である」。


 月。傘。星の下の船。木炭と限られた顔料の、急いた筆致の写し。それが、これである。写しですら、これなのである。では、画工の手元にあるという原画は。描かれているという本画は。


 部屋の七人が全員、同じことを考え、全員、口に出さなかった。口に出したのは、翌日から始まった争奪戦のほうである。


 学芸院は「観測記録の一部」として八葉の移管を求めた。大灯座は「教えに関わる光景の描出」として検分の権利を求めた。そして宮廷からは、どこで話が漏れたものか、「陛下の御覧に供したし」という、誰も逆らえない筋の声が掛かった。八葉は一組しかない。声は三つある。老尚書の裁定は、例によって身も蓋もなかった——「順に貸す。順は、こちらで決める。……それと、写しの写しを作らせろ。喧嘩の種は、株分けするに限る」。


 写しの写しは、画工ギルドに発注された。ギルドの工房で、八葉は三日間、彫り師と画工たちの手元に置かれ——そして、ここから漏れた。三日、間近で見た彫り師の一人が、記憶を頼りに下絵を起こし、瓦版屋に持ち込んだのである。持ち込まれた先は、獣害このかた竜の勇み絵で当ててきた摺り物屋である。十日後には、王都の辻で、定番の竜ものの隣に「東方の湖上に現れたる奇瑞の月」なる新作が、一枚銅貨二枚で並んでいた。


 粗悪だった。月は白丸で、傘は襞のついた饅頭で、星は判で押した点々である。本物の八葉を見た七人が見れば笑止の代物で、実際、役人の一人は買って、笑った。笑ったが——売れた。摺り師が三度、版を彫り直すほど売れた。王都の民は、本物を知らない。知らないから、饅頭の傘で、十分に月の夢を見た。


 本物への渇望は、こうして、粗悪版が耕した。順番が逆のようだが、噂と絵の世界では、これが正しい順番である。


---


 私記十二枚は、教会の便で、大灯座の書庫方に着いた。


 受け付けたのは、イーヴォである。教会目付の公式報告(半頁)に、私記添付、とある。目録に載せるには中身を検めねばならず、検めるのは審査室の職掌で、つまり、読むのはイーヴォの仕事だった。


 師の筆跡だった。


 イーヴォは、十二枚を、二度読んだ。一度目は職務として。二度目は——二度目が何だったのかは、本人にもうまく言えない。四つの説。星の仮の名。人の形の光の記録。書いてある場所しか読めんもんじゃ、という、どこかの老人の言葉。そして最後の頁の、結びの一文。


 ——本記は、いずれの書式にも載らぬ事柄の、覚えである。載らぬ事柄は、無かった事柄ではない。


 前に、イーヴォは黙った。写しを送り、報告をせず、東便の噂に耳を立てる司書になった。あの時の文書は、二百年前の異端の写しだった。黙る理屈が、あった。


 今度のこれは、現役の審査官が、読まれることを見越して書いた紙である。載らぬ事柄は、無かった事柄ではない——これは、上げろ、という意味だ。師の書式を十年読んできた者には、そう読める。


 イーヴォは十二枚を抱えて、階段を上がった。老審査長は在室で、十二枚を、白湯が冷めるまで読み、読み終えて、一言だけ言った。


「……会議じゃな」


 会議は、三日続いた。大灯座の上層で何が話されたか、書庫方の若い司書に詳細の知りようはない。ないが、階段を上り下りする顔ぶれと、その顔色くらいは見える。審問方の頭は、日ごとに顔が険しくなり、三日目には険しさが空回りしていた(検めるべき異端が、報告のどこにもいないのである。東の民は献灯を倍にし、司祭は職務に忠実で、学者は測っているだけだ。審問とは槌である。釘のないところで、槌は振れない)。学僧方の頭は、逆に日ごとに顔が明るくなった(未踏の神学の沃野である。行きたい者の名簿が、一晩で埋まったという)。そして三日目の夕、膠着した会議の空気を変えたのは、階の上から降りてきた、一つの伝言だった。


 ——灯守様が、東の絵を、ご覧になりたいとの仰せである。


 イーヴォは、その伝言が廊下を通る瞬間に、たまたま居合わせた。伝えて回る侍祭の声は事務的で、聞いた側の顔は、事務的ではなかった。灯守の乙女は、会議に出ない。神学を論じない。裁定を下す位階に、そもそもいない。いないからこそ、あの方の「見たい」に、反対の立てようがないのである。審問の是非なら三日議論できる。使節の人選なら三月議論できる。だが、火を守る御方が絵を見たいと言う——これに、どの派閥の、どの理屈をぶつけるのか。


 絵は尚書局の管理で、貸し出しの順番待ちには宮廷も学芸院も並んでいる。その列に、大灯座は翌朝、一通の書状で加わった。書状の要件は一行である。灯守の希望により。列の順番が、その一行でどう動いたかは、老尚書の胸三寸のうちだが——動いたらしい、ということだけは、ほどなく市中の噂になった。曰く、東の月の絵は、御所より先に、大灯座の奥へ行くらしいぞ。


 噂の裏付けは、誰も取れない。取れないまま、噂は摺り物の売れ行きを、また一段、押し上げた。


---


 さて、王都の東もの熱がそこまで煮えたところへ、かねて日取りを待っていた行事が重なった。鱗の遷座である。


 武具廠の三枚のうち、一番の別嬪を聖別して大灯座へ移す——あの分割保管の取り決めの、いよいよ実施の日が、その月の晦日と決まったのだ。武具廠から大灯座まで、目抜き通りを半里。担ぎ輿に「別嬪」——公式には聖別鱗——を載せ、灯りを持った司祭衆が先導し、沿道に市民が並ぶ。王都で公式の行列というものが出るのは、先の王女の婚儀以来、六年ぶりである。


 ダンは、オットマー教授の助言通り、武具廠の門近くに場所を取った。行列というのは出発点が一番押す。押すところに、人が溜まる。溜まるところで、袖をまくる。理屈は単純で、実入りは理屈通りだった。朝のうちから人垣は三重になり、ダンの語りは口開けから三席満員、飴売りの荷車は昼前に品切れの札を出した。


 人垣の中身を、ダンは商売柄、観察する癖がある。信心の顔が三割。祭りの顔が三割。残りが物売りと掏摸と、子供を肩車する親父どもである。信心の顔、と言ったが、それも灯堂の朝の祈りのような、形の定まったものではない。もっと曖昧で、もっと欲の混ざった、祭りの熱気と地続きの何かだ。曰く、拝んどきゃ何かいいことがある。曰く、あやかっとけ。曰く、せっかく出てきたんだ、一番ありがたいところを見て帰ろう——。


 その曖昧な熱の扱いにかけて、教会は、ダンの見たところ、玄人だった。


 沿道には朝から司祭衆が触れて回っていた。輿には触れるな、押すな、灯りのある者は掲げよ。触れたい者、何かしたい者のためには、道筋の三箇所に献灯の台が出ていて、小さな灯り皿が(布施と引き換えに)いくらでも受け取れる。手持ち無沙汰な熱意というものが一番厄介なのだと、あの連中はよく知っているのである。何かしたい者には、する事を渡してしまえばいい。渡された群衆は行儀よく灯りを掲げ、灯り皿の布施は、たぶん今日一日で、そこそこの灯堂の年間の実入りになる。玄人である。


 それでも、熱は所々で縁から零れた。輿が門を出た直後、人垣から抜け出して、行列の通った後の敷石に膝をつき、石の面を撫でて袂に何かを仕舞い込もうとした男がいた——通り道の砂を持ち帰ると御利益がある、という与太が、朝の人垣で早くも生まれていたのである。捕り方が二人、すっと寄って、男の両脇に立ち、男は連れ出されるでもなく、ただ「石はお前さんの来る前からそこにある」とだけ言われて人垣に戻された。捕り方の配置は、明らかに、この手の御仁を見越した配置だった。教会と役所は、鱗を一年かけて特別に育てた側である。育てた特別に民がどう群がるかも、育てた側が一番よく分かっている。


 ダンの高座のすぐ下では、待ちくたびれた見物同士の、こんなやりとりも聞こえた。


「なあ、あれ、拝んでいいのか。災いの獣の鱗だぞ」


「教会様が輿に載せてんだ。いいんだろ」


「聖別された、って触れだったな」


「聖別ってなあ、何をどうするんだ」


「知らん。……知らんが、まあ、灯りは掲げとけ。掲げとけば間違いはねえ」


 間違いはねえ、で袖の中の勘定が済むのが、王都の民の信心である。形は曖昧なまま、熱だけがあり、熱の出口は教会が渡した灯り皿に納まっている。うまく回っている、と言っていいのだろう。回している側の司祭衆の顔に、余裕とも疲労ともつかぬものが浮かんでいたのを別にすれば。


 摺り物売りは、その雑踏のそこかしこに出ていた。連中は今日が本命の書き入れ時である。竿の先に吊るした品揃えは、火を吹く獣の勇み絵、鱗の宝物絵、遷座の祝い刷り——獣害このかた一年、刷っては売ってきた定番の竜ものだ。その竿の端に、この十日ほどで、新顔が加わっていた。饅頭の傘の、例の月の絵である。定番の客が、ついでに新顔も買っていく。売り子に言わせれば「竜で足を止めさせて、月で二枚目を売る」のだそうで、商いの仕組みとしては、月は竜の客の上に載っていた。


 新顔も、売れてはいた。祭りの日の紙物は、何であれ売れる。客の反応は「東にゃ、こんなもんが出るんだと」「嘘くせえ絵だな」「嘘くせえのがいいんだろ、こういうのは」——で、買った紙は筒に丸められ、脇に挟まれて、持ち主と一緒に輿のほうへ向き直る。今日の主役は、あくまで、あの見えない一枚なのだった。


 ダンは三席目の口上を終えた高座(酒樽である)の上から、雑踏の全部を眺めて、袖の結び目を締め直した。


 商売人の目に映った今日の勝敗は、こうである。勝ったのは教会(あの群衆捌きは金が取れる)と飴売りと自分。摺り物屋は日銭の勝ち。負けたのは掏摸(捕り方が多すぎた)。そして御本尊は——櫃の中で誰にも見えないまま、王都中の熱を吸い上げた。見えないことが、格である。ダンの商売は見せる商売で、見せられる本物を持っているのが強みだが、今日の櫃を見た後では、一つ認めざるを得なかった。見せる本物は強い。だが、どうやら世の中には、それより強い商売が二つある。見せない本物と、いくらでも刷れる写しだ。自分の腕は、そのどちらにもなれない。


「……ま、いいさ」


 ダンは誰にともなく言って、四席目の客を入れた。なれないものの勘定をしても、日銭にはならない。


---


 その晩の酒場で、飴売りが上機嫌に言った。


「なあダンよ。次に流行るのが分かったよ」


「ほう」


「東だよ。東もの。鱗も竜も、もう古い。これからは月と、湖と、霧だ。摺り物のあの売れ方を見たろう。……なあ、お前の口上にもよ、ひとつ東の話を——」


「やなこった」ダンは麦酒を舐めた。「俺の商売は、この腕で見た話しかやらねえ。東は、見てねえ」


「固いねえ、お前も」


「固いのが、格ってもんだ」


 言ってから、ダンは、ふと考えた。見た話しかやらない。なら、見に行けば、やれるのか。東へ。片腕の傷痍兵が、東くんだりまで。……馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいが、その晩ダンは、寝床の中で、東までの旅程を、指を折って数えてみた。街道が直って、便が速くなったという。三週間かかったものが、今は——。


 数えているうちに、寝た。無い方の拳は、その晩は、痛まなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。