転調
真夜中――私は、この森閑とした薄暗い部屋に身を沈めていた。夜の空気は、昼間とは違ってどこか重たく、押さえつけられているみたいに、身体が動かない。
あの時見た、あの子の瞳が忘れられない。
何度も、繰り返し考えてしまう。ぐるぐるとあの瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
勘違いなはずがない。確かにあの瞳は、ルルを捉えていた。
ふと、時計に目をやる。針はすでに一周していた。
ルルもすっかり眠りについている。
この夜に、私しかいないみたいで――なんとも言えない、不思議な感覚に包まれていた。
深く眠っていたはずのルルが、まるで悪夢でも見たかのように、はっと飛び起きた。
その赤い瞳が、大きく見開かれる。重たい身体を起こしどうしたのかと、思わず問いかける。
ルルは答えない。ただ、じっと一点を見つめたまま――。
「あいつが……来るわ」
次の瞬間――何かが叩きつけられるような重い音が響いた。その音は、静寂だった夜を無理やり引き裂くように広がっていく。
思わず身構える。音のした方へ視線を向けると――ベランダの扉が何度も叩きつけられるように揺れていた。
風もなく、雨も降ってない静かな夜だった。――そのはずだった。この違和感は刹那にして、現実になった。
扉が、時計回りにゆっくりと歪み始める。液体のように境界を失い、先の見えない暗闇へと変わっていく。
その歪みから、何かがガラスをすり抜けるように侵入してきた。
「……っ」
――声が出ない。
目の前で起きていることが理解できず、足がすくんで動けない。真っ黒な影は、輪郭も曖昧なまま、こちらへ滲むように近づいてくる。
頭が真っ白になり、何も考えられない。影を見るのは、初めてではなかった。それなのに、足が縫い付けられたみたいに動かない。
影はねっとりとした質感を伴いながら、うねるように人の形を真似るように歪み続けていた。不完全だが、すらっとした人の姿に腕の先は鋭く尖り、まるで刃のように細く伸びていた。
――次の瞬間、それが振り下ろされる。
咄嗟に身体を逸らす。けれど、完全には避けきれない。鋭い痛みが肩を裂き、呼吸が一瞬止まる。
遅れて熱が走った。服が裂け、じわりと血が滲む。滲み出た血が、重たく床へと落ちた。
そのまま床に体勢を崩し、息が浅くなる。
影は、動きを止めず再び腕を振り上げる。手に力を込めて、その拳を握りしめる。同時に、まぶたを深く閉じた。
「歌恋!」
張り上げた声とともに、紫に煌めく光が視界全体に広がっていった。
投げられたアルセリウムを振える手で確かに掴む。
触れた瞬間――淡い光が一気に弾けた。
胸の奥から、何かが溢れ出して、暖かい温もりが脈を打つ。一瞬にして、眩い光が視界を覆い尽くす。
――この恐怖が、力へと変わっていく気がした。
光が収まる。気がつけば、鋭く尖っている腕が目の前に迫っていた。鍵は空中で回転し、音もなく形を変える。
それは細く伸び、美しいマイクスタンドへと変貌した。
迷うことなく掴み、振り下ろされた影の一撃を受け止める。その衝撃が、腕から全身へと突き抜けた。
影の一撃は、想像以上に重かった。受け止めたはずの腕が、わずかに沈む。
抑えきれず、少しずつ押し込まれて。
このままじゃ押し切られる――その時。
「……諦めるのは早いんじゃないかしら。」
呆れたように、ルルが赤い瞳を閉ざし、静かに手を合わせる。――途切れかけていたはずの力が、胸の奥で溢れ出していく。
湧き上がる力を振り絞り、前へと振り払う。影は僅かに揺らぎ、後ろへとよろめいた。
勢いよく立ち上がったせいか、身体がわずかにふらつく。視界が一瞬、暗く揺らいだ。
それでも、影の隙を逃さない。
ロッドを振り抜き、その一撃で影を切り裂く。
影は形を保てず、霧のように崩れて消えていった。
「やるじゃない。」
照れ臭そうに笑いかける。額の宝石が微かに煌めき、ルルの表情が曇った。
「……まだいるわね。」
ルルはそうつぶやき、ゆっくりと視線を外へ向けた。ベランダの先、暗闇が不気味に蠢いている。さっきよりも、ずっと強い気配が外から流れ込んでくる。
さっきよりも、ずっと濃い気配が外から流れ込んでくる。瞼を閉じて心に決め、そのまま、躊躇いもなく踏み出した。ベランダへ駆け寄り、柵を蹴る。
暗闇に身体が溶け込んで、落下していく。まるで、闇に飲み込まれるようだった。
今宵、星空は輝きを失っていた。闇に沈む真っ黒なアスファルトが視界全体に広がり、全身に衝撃が走った。けれどロッドを握り直し、すぐに構え直した。
揺らぐように形を保ちながら、影が次々と現れる。進路を遮るように立ちはだかるそれらを、ロッドで切り払う。立ち止まることもなく、最も濃度の高い場所へと導きのままに駆け抜けて行く。
奥へと進むにつれ、空気が重くなる。
さっきまでとは比べ物にならないほど、濃い気配が満ちていた。行く手を阻むように現れる影は、先ほどの影よりも圧倒的に強い。振り払っても、また湧き出てくる。影は1つの場所に集まり、形を歪ませていく。
やがてそれは、建物さえ越える巨大な影へと姿を変えた。振り下ろされた一撃を躱す。次も――躱す。だが、三度目は間に合わなかった。
咄嗟に受け止める。――重い。
今までの影とは、明らかに違う。押し返せない。受け止めきれず、身体が弾き飛ばされる。肩の傷口が開き、視界が揺れる。熱を帯びた痛みが、一気に広がった。立ち上がろうとしても、力が入らない。視界の端から、ゆっくりと暗闇が滲んでいく。
それでも――手を伸ばす。まだ、終われない。
憧れのままじゃ、駄目なんだ。大好きだった、あのヒーローになる。そう、心に決めた。
押し返せない。踏み潰される、その瞬間――視界の端を、閃光が走る。
「勝手に死なないで下さい……!」
硬質な音が弾け、踏み潰そうとしていた足が弾き返される。
朦朧としながらも、その姿を目で追う。
大きなロザリオのような形をしたハンマーを手にしていた。しなやかで大人びた体躯に、白い衣装を纏っている。
長い髪が静かに揺れ、その後ろ姿はどこか神聖で――それでいて、目を離せないほど艶やかだった。
真っ白な衣装が、視界の中で揺れていた。涙を浮かべたその人は、必死に私を抱き抱えている。
その腕の中で、今にも泣き出しそうな顔を見上げる。それを最後に、意識はゆっくりと闇に沈んでいった。




