家
3月10日(日) 10時15分
太陽の光が病室の窓から差し込む中、俺は最後の診察を受けていた。担当医が俺のカルテを見ながら、穏やかな声で告げた。
「水瀬君、体調も問題ないね。自宅で安静にして、無理はしないように。何かあったらすぐに連絡してください」
医師の言葉を聞きながら、俺の心は複雑だった。退院できる喜びと、これから待ち受ける運命への不安が入り交じっていた。腕のギプスが、まだ完全には治っていない現実を物語っている。
「ありがとうございました。お世話になりました」
俺は深く頭を下げた。退院手続きを終え、病院の玄関を出た時、久しぶりの外の空気が俺の肺を満たした。
3月の風は、ひどく冷たく頬を刺したが、月原さくらを救うという決意に満ちた俺の心を奮い立たせた。
母親が車を回してくれて、俺はそれに乗り込んだ。車内では、母親が心配そうに何度も俺の様子を確認してくる。
「悠馬、本当に大丈夫?顔色がまだ少し悪いような気がするけど」
「大丈夫だよ、お母さん。もう心配しないで」
俺はできるだけ普通を装って答えた。しかし、内心では母親への申し訳なさでいっぱいだった。これから俺が取ろうとしている行動は、家族を深く悲しませることになるだろう。でも、月原さくらを救うためには、他に方法がない。
自宅に到着すると、数日ぶりの我が家の温かさが俺を包んだ。玄関の匂い、廊下の軋む音、すべてが懐かしく感じられた。今日で見納めになるのかと思うと、寂しさがこみ上げてくる。
自室に戻った俺は、机の上に置かれたものを見て思わず苦笑いを浮かべた。カップアイスと「退院おめでと~( ´∀` )美咲」と書かれたメモ。アイスはもうすっかり溶けて、机の上に水滴を作っていた。
「アイスを常温の場所に置くなよ」
いつもなら美咲を叱りそうになるところだが、もう最後となると、これもまたなんだか泣けてくる。美咲なりに俺の退院を祝ってくれたのだろう。この小さな気遣いが、今の俺には何よりも愛おしく感じられた。
俺はスマホを取り出し、陽平に電話をかけた。コール音が数回鳴った後、陽平の声が聞こえた。
「おお、悠馬!退院したのか?」
「ああ、今さっき家に帰ってきた。昨日の夢図書館での出来事、詳しく話したいことがあるんだ」
俺は司書から得た重要な情報を陽平に伝えた。管理者の存在、ペナルティの内容、他人による返却の可能性、代償について。陽平は真剣に聞いてくれて、時々「なるほど」と相槌を打った。
「栞と本を机の上に置いておくから、明日以降に回収してくれ。計画通り、俺が延滞する」
「分かった。でも悠馬、本当に大丈夫なのか?」
陽平の声に心配が滲んでいた。
「本当は会って話したかったけど、今日が最後になるから、色々とやりたいことがあるので、一人にしてほしい」
「……分かった。」
陽平は俺の気持ちを理解してくれた。彼もまた、俺がこれから背負う重荷の大きさを感じ取っているのだろう。
電話を切った後、俺は月原さくらの本を自分の机の上にそっと置いた。表紙の藍色が、夕日に照らされて、どこか切なく見えた。この本が、彼女の運命を、そして俺の運命を左右する。重みのある、運命の書だった。
本を開いて内容を再度確認したが、まだ何も変わっていない。「3月21日、月原さくら 死ぬ」と冷酷に書かれたままだ。活字で印刷されたその文字は、まるで動かしがたい運命を示しているかのようだった。
俺は、明日からのことを考えた。月原さくらの本を延滞し続ける。そうすることで、俺が司書になる。彼女を救うために。この計画には多くの不確定要素があるが、今の俺にできることはこれしかない。
「今日は、現実を精一杯満喫しよう」
俺は決めた。そして、両親と妹にも、言葉には出さなくても、心からの感謝を伝えることにしよう。きっと彼らは、俺が突然長い眠りについてしまうことを理解できないだろう。困惑するに違いない。でも、これは俺が選んだ道だ。
どう感謝を伝えたものか。直接的な言葉では怪しまれてしまうかもしれない。とりあえず、ガラにもないが、美味しいケーキでも買って帰ろうかな。家族みんなで食べられるような、特別なケーキを。
俺はそう思い、まだ少し痛む身体に鞭打って、ケーキを買いに出かけることにした。
玄関で靴を履きながら、俺は家の中を見回した。リビングからは両親の話し声が聞こえ、美咲の部屋からは音楽が流れている。この何気ない日常が、俺にとってはかけがえのない宝物だった。
「行ってきます」
夕暮れが近づく街並みを歩きながら、俺は今夜が現実世界で過ごす最後の夜になるかもしれないことを改めて実感していた。
この決意に、迷いはない。月原さくらを救うために、俺は司書になる。




