真実
陽平が去った後、俺は自分の「本」を握りしめたまま、白い天井を見上げていた。ギプスで固定された左腕に鈍い痛みが走るが、それよりも心の中の混乱の方がはるかに大きかった。
小学五年生のページが滲んでいる。俺の記憶が欠落している部分と、この本の破損が完全に一致する。そして、陽平がこの本を読んで、俺の危険を何度も回避させていたという事実。美咲の事故を阻止した代償として、俺が事故に遭った「代償」の法則。考えるべきことが多い。
あの藍色の瞳の司書が、なぜ俺に対してあれほど冷たいのか。なぜ俺の本が延滞していたのか。そして、なぜ小学五年生の記憶だけが失われているのか。すべての謎が、一本の線で繋がろうとしている。
俺には今、一つの仮説がある。もしそれが正しければ、すべての謎が解ける。
そして、俺がしなければならないことも明確になる。それを証明するために、夢図書館に行くのだ。この仮説が正しければ、俺は彼女——月原さくらに言わなければいけないことがある。
俺は、意識が朦朧とする中で、再びあの四葉のクローバーの栞を握りしめた。この栞は入院に必要な物として、母親に持ってきてもらったものだった。しかし、今思えば、この栞にも何か意味があるのかもしれない。四葉のクローバー。幸運の象徴。誰かの願いが込められた、小さな緑の欠片。
次に目覚めた時、俺はいつもの夢図書館の入り口に立っていた。
病院のベッドに横たわっていたはずの体が、今はしっかりと地面を踏みしめている。
俺は迷わず司書のいるカウンターへと向かった。心臓が早鐘を打っている。これから明かされるであろう真実に対する恐れと期待が入り混じって、胸の奥で渦巻いている。
そこには、あの藍色の瞳の司書がいた。いつものように、受付でパソコンとにらめっこしている。その横顔は美しく、だが同時に深い悲しみを湛えているように見えた。
「あの……」
俺が声をかけると、司書はゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつもと変わらず冷たい。しかし、今度は注意深く観察すると、その冷たさの奥に隠された感情を読み取ることができた。諦めとも、諦めきれない何かとも取れる、複雑な感情。
「……本日はどのようなご用件で?」
司書は事務的に話す。しかし、俺にはもうわかっていた。この司書が誰なのか、そして俺との関係がどのようなものなのか。
俺は、陽平から受け取ったばかりの、表紙に「水瀬悠馬」と書かれた古びた本をカウンターに置いた。その瞬間、司書の空気が変わったのを感じた。
「!?」
司書は、その本を見た瞬間、驚きの表情を浮かべ、声にもならない声を上げた。普段の冷静さを完全に失い、その藍色の瞳が大きく見開かれる。手が微かに震えているのが見えた。
「この本を、返却しに来ました」
俺の言葉に、司書は涙を流し始めた。透明な雫が頬を伝って落ちていく。やはり、そうなのか。俺の仮説は正しかった。
「承知いたしました……手続きをするので少々お待ちください」
司書はそう言って、俺の本を大切そうに手に取り、奥の書架へと戻っていった。その後ろ姿は、長年の重荷がようやく取れたかのように、少し軽やかに見えた。
しばらくして戻ってくると、彼女はカウンターの奥から、一冊の藍色の表紙の本を取り出した。その表紙は、司書の瞳と同じ美しい藍色をしている。
「本日は、月原さくらの本もございます。いかがなさいますか?」
司書は、その本を俺の目の前に置いた。表紙には、はっきりと「月原さくら」と書かれている。俺は、驚きと戸惑いを覚えながらも、その本を手に取った。予想していたとはいえ、実際にその名前を目にすると、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
さて、答え合わせだ。俺の仮説が正しいかどうか、これで証明ができる。
「では、読ませていただきます」
「はい。どうぞ」
司書は静かに答えた。その声には、これまで聞いたことがないほどの優しさが込められていた。俺は、その場で恐る恐るページをめくった。
そこには、月原さくらの人生が詳細に記されていた。彼女の子供時代、転校の経験、家族との思い出。そして、俺の記憶が曖昧になっている小学五年生のページに差し掛かった時、俺の視線は釘付けになった。
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**2016年4月7日(木)**
転校初日。とても緊張した。新しい学校、新しいクラス、新しい友達。全部が不安だった。
だけど、隣の席の男の子が話しかけてくれて嬉しかった。「よろしくね」って笑顔で言ってくれた時、この学校でもきっと大丈夫だって思えた。名前は確か水瀬くんといったかな?とても優しそうな男の子だった。
クラスのみんなも優しそうで安心した。転校するときは悲しかったけど、これからの学校生活が楽しみになってきた。
早くみんなと仲良くなりたいな。特に水瀬くんとは、もっとお話ししてみたい。
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本当に自分は**月原さくら**と出会っていたのだ。転校生だった彼女と、隣の席になった俺。失われた記憶の中に、確かにそんな出会いがあったのだ。
俺は心を落ち着けようとしながら、さらに読み進めた。日々の学校生活、友達との会話、俺との何気ない交流。そのすべてが俺の記憶から消え去っていた。そして、問題の事故の日へとページを飛ばす。
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**2016年7月11日(月)**
今日の夢図書館で読んだ内容が本当であれば、明日、水瀬悠馬くんが交通事故で死んでしまう。
そんなことがあってはならない。水瀬くんは優しくて、いつも私を気にかけてくれる。転校してきて友達ができるか不安だった私に、最初に声をかけてくれたのも水瀬くんだった。
今日も夢図書館に行って、もう一度詳しく読もう。そして、絶対に水瀬くんを助けるんだ。何としても。
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やはり、俺に死ぬ可能性があったということなのか。月原さくらは、俺の命を救うために行動していたのだ。
俺は震える手で、さらに次のページをめくった。
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**2016年7月12日(火)**
なんとか、ギリギリゆうまを助けることができた。
あの時、ゆうまが危険な場所に向かおうとしているのを見て、必死に呼び止めた。ゆうまは振り返ったけど、もたもたしてたから、その手を引っ張った。次の瞬間に車が通り過ぎた。もしゆうまがあと一歩でも進んでいたら……。
でも、その時にゆうまの本を落としてしまった。大切な本なのに……。ゆうまも他のクラスの子も一緒に探してくれたけど、全然見つからなかった。みんなが必死に探してくれて、本当にありがたかった。でも、結局見つからなくて……。
今日が返却日だ。私はペナルティで、夢図書館から出られなくなる。でも、ゆうまが無事だったからそれでいい。本のこともゆうまに任せた。きっと助けてくれる。
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それ以降のページは長い間空白になっている。そこからは夢図書館の司書として働いているということなのかもしれない。
月原さくらの本には、俺の想像した通りの内容が書かれていた。俺を救うために自分を犠牲にした彼女。その事実が、俺の胸に重くのしかかる。
「月原さん……いや、さくら。ごめん。本を返却するのが遅くなっちゃって」
俺は目の前の司書、月原さくらに心からの謝罪をした。彼女は俺の命を救うために、自らの自由と人生を犠牲にして、夢図書館の司書になっていたのだ。9年間もの長い間。
そして、おそらく四葉のクローバーの栞はさくらから預かったものであり、俺に本を探して返却してもらうことを密かに望んでいたのだろう。
この時の事故で、俺の「本」の該当ページが雨に濡れて破損し、記憶を失っていたので、彼女は9年間も夢図書館で過ごすことになってしまったのだ。
それは、最初に夢図書館で会った時の態度もうなずける。いくら記憶を失っていたとはいえ、そのことは彼女には分からない。怒るのも、冷たくするのも当然である。
俺は、目の前の司書、つまり月原さくらを見た。彼女は、静かに俺を見つめていた。その藍色の瞳には、これまで隠されていた感情が溢れている。
「ありがとう、悠馬。これで私も、やっとこの図書館から解放される」
さくらは、これまで見たことのない穏やかな表情でそう言った。その言葉は、俺の胸に重く響いた。彼女は、俺の本が返却されたことで、長年の務めから解放されるのだ。9年間という長い時間を、たった一人で。
「さくら……改めて確認したいんだけど、なぜ、俺の本を借りていたの?俺を事故から助けるため……?」
俺は、彼女の本に書かれていた内容を確認するように尋ねた。月原さくらは、悲しげに目を伏せ、静かに答えた。
「そう……。あなたの未来を知るため。あなたの命を救いたかった。転校してきて友達がいなかった私に、最初に優しくしてくれたあなたを……」
さくらはそう言い、笑いながら涙を流した。
俺も自然と笑みと涙があふれる。
9年越しの再会。失われた記憶の向こう側にあった、大切な友情。
これで、さくらは現実に戻って普通の生活に戻れるはずだ。
俺はその未来を確認するために、再び月原さくらの本に目を落とした。
すると、先ほどまで空白だったページに、新たな未来が記されているのに気づいた。
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**2025年3月21日**
午後3時15分 病院にて、死ぬ
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「まさか……」
月原さくらが、死んでしまう未来がそこには記されていた。
今日から2週間後に彼女は死んでしまう。
俺は、本を握りしめ、月原さくらを見た。彼女もその文を目にしたようで、静かに俺を見つめ返している。
「この未来を……変えることは、できるのか?」
俺の問いに、月原さくらは何も答えなかった。ただ、その藍色の瞳が微かに揺れているだけだった。しかし、その沈黙が答えだった。変えることは可能だが、それには代償が伴う。
俺は、何としても彼女を救わなくてはいけない。小学校5年生の時に命を救ってもらい、それから9年間夢図書館で働いていた彼女を救わなくては。絶対に恩を返す。
「さくら、俺は君を助ける。9年前に君が俺を救ってくれたように、今度は俺が君を助ける番だ」
俺は固く決意をした。




