第一章 1 『像の足音』
なんだかおかしい。この男がそう思うのも無理はない。なぜならこの男、黒木龍星〈クロキ・リュウセイ〉は昨夜、溜めに溜めていた夏休みの課題を一晩掛けて終えて、登校の時間までしばし仮眠をとっていたのだが、目覚めてみるとそこは慣れ親しんだ少し小汚ない自分の部屋のベッドの上ではなく、シワの一つもない白く綺麗なベッドの上であった。
そして極めつけは隣で気持ち良さそうに寝ているこの毛むくじゃらな半獣、半人の生物だ。息をしている。人形などではない。そして彼が住んでいた世界にこのような人間もとい生物は存在しない。なんだかではない。いまこの男のおかれている状況はおかしい。
「おい、おーい。すみませーーーん!!」
毛むくじゃらな生物の耳元で叫んでみると、鋭い瞳がパッと開き、不機嫌そうに彼を見つめる。それは黒木龍星〈クロキ・リュウセイ〉が知る知識の中では狼に近いだろうか、なんにしろ彼が前にいた世界にはこんな生き物は存在しない。
「なんや、兄ちゃん起きたんか。そやったらさっさと治癒魔導師のねぇちゃんのところにでも行きや。」
いや、そこは治癒魔導師じゃなくて、お医者さんだろ。そんな突っ込みを心の中で飲み込んで、いや言ったとしても理解などしてもらえないだろう。混乱、悲観、疑問、決して今の状況を理解することなどはできない。夏休みの宿題を終え、寝て起きたら違う世界に来てしまいましたなどということをどうして信じられる。夢かという可能性もこのはっきりした意識と覚醒された感覚からまずないだろう。
偏差値63を誇る彼はその自慢の脳をフルに回転させ考えた、考えたが、答えなど考えずともわかっている。自分の置かれた状況を理解出来ずに現実から目をそらしてるだけなのだということをかれは理解している。頭でいくら考えようと、変わらぬ状況があると、そして彼はどんなに考えようとも出なかった答えを昨夜視聴したテレビアニメから導きだした。。どうやら自分は、
―――異世界転移してしまったらしい。と
「いやいや!おかしいだろう!俺は、俺はただのありふれた青春を送っていたはずだろう!?異世界転移ってのはそう、そうだよ!もっと不登校だったり、人生に絶望してたり、ある日トラックに弾かれたりしてするものだろう!?なぁ!?」
名も知らぬ獣人の肩を思い切り掴んで、揺らして、彼は悲壮な顔で朝っぱらから宿屋で叫び散らした。それはもう大きな声で。
「な、なんやいきなり!?どうしたんや!兄ちゃん!?」
自分の肩を絶望の縁で今にも泣き出しそうな顔で揺らす青年を見て、獣人は何かを察したようで、自分の肩から優しく彼の手を外して、ほっと一つ溜め息をついて。
「まぁ、兄ちゃん少し話をしようや。」
獣人は無言で首を縦にふった彼の肩を支えて、椅子まで案内をし、茶のようなものを彼に差し出した。そして彼の息が落ち着いて、冷静を取り戻したように見えると。
「俺はウルガートラ。見ての通り狼系の獣人や。ほなよろしく。」
「なぁ兄ちゃんそんで、あんた何者なんや。いったいどこから来たんや。それに、その膨大な…魔力。戦場からしばらく離れている俺ですら分かる。こんな魔力、感じたことないで。そ、そうや!天力!あんたの天力はなんや!?」
彼には言ってる意味が分からかった。魔力?戦場?天力?まず、ここはどこか。彼が聞きたいのはそこだ。
「悪い、俺はお前の言っていることが理解できない。わからない。知らないんだ。この世界のことを、俺は。だから教えてくれないか。」
目が点と、言ったところだろうか。獣人は驚きの表情をとって固まった後、また話始めた。
「あんた、本当に何も知らないんか、それだけの魔力を持っていて自分の天力すら。」
知るわけがない。リュウセイは今、何も知らない世界にただ一人放り出されたのだから。
「あぁ、すまないが。」
彼があまりにも嘘偽りのない真っ直ぐ悲壮な目をして、そう言うので獣人はそれ以上の質問を留めた。
「なら、この町の教会に行くと良い。そこでなら天力も分かるやろうし、きっと何かが見つかるはずや。俺も話せることは話してやりたいが、今日はあいにく仕事なんや。すまんな。」
「いや、いいんだ。あ、でも最後に一つ良いか。なんで俺はお前の家に寝てたんだ。」
「それは、あんたが町のど真ん中で倒れてたからや。昨夜、仕事の帰りに見つけてな。教会に行くにしても、教会は危険な獣がでる森の奥やから。暫くは家に居候してもいいんやで。」
「いや、すぐに出発するよ。いろいろとありがとな。あと最後に、俺はクロキ・リュウセイだ。どこかでまた会ったらその時は宜しくな。」
「クロキ・リュウセイ…か。あぁ、あんたも何か見つかると良いな。」
身支度を整え、ウルガートラに分けてもらった、少しの食料とこの世界の通貨だという数枚の銀貨のようなもの、そしてご信用の短剣を持って、ウルガートラの宿を出発しリュウセイは森へ向かうことにした。
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それにしてもこの森は気味が悪い。黄色の幹に紫色の葉をした巨大な大木、空気は冷たく、夜のように暗い。先ほどまで朝だったはずなのに。いやそんな常識もいまとなってはあてにならない。もとの世界とこの世界じゃあ、日光サイクルから何から何までリュウセイの世界の常識なんてものは通用しない。
「今のところ解っているこの世界と元の世界との共通点は言語が同じだということぐらいか。」
そんな事を言っていた矢先のことだ。鳥たちが一斉に騒ぎだし、地響きのようなものが近づいてくるのを感じた。しかしそれが近づいてくるたびにただの地響きなどではないことは概ね察しがついた。
しかし、ここまでの怪物がこの地響きの主だったとは。
―――――――パォォォーーン!!
それは「象」というには体が大きすぎるし眼の数も多いし、牙が多いし鋭すぎる。それに角も生えてるし足が六本だ。象ですらこんな近くで現れれば声を挙げずにはいられないだろう。それに、現れたのはこんな怪物。決断を迷う余裕はリュウセイには無かった。
リュウセイは一目散に逃げ出した。こんな怪物に短剣一つで叶うわけがない。
「あの半分獣野郎!今度あったら、ただじゃおかねー!!」
リュウセイは出来るだけ木の多い道を選び走り続けたが怪物象はその木すら全く意に介さず、なぎ倒して追いかけてくる。走ってくるわけではなかったが、このサイズだ。一歩が相当大きい。500メートルなど10歩で事足りてしまうだろう。
―――――――死ぬっ!これまじで死ぬ!!
リュウセイは無我夢中で走った。息が切れるとかそういうレベルの話ではない。体感ではななく、本能のまま体が動いているという表現が正しいだろう。走るのをやめれば死ぬという人間的な本能が直接脳に信号を送り体が動いているというところだ。走る、走る。疲れなど気にしている暇がない。走るのをやめれば待つのは生物的な(死)のみだ。その時、体がフワッと浮くような感覚に見舞われた。リュウセイは踏み出した一歩の先に地面が無いことに気付くことができなかった。必死に崖にてを伸ばそうとするがそれはもう届かない。
―――――――――パォォォーーン!!パォォォーーン!!!
崖から転げ落ちたリュウセイの意識はだんだん薄れていき、体には力が入らなくなっていった。ただ、微かに移る視界から光が暗闇に落ちていくだけであった。




