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第八章:思いは止まる

 急いでスーパーで買い物をして、戻ってくる。

 空は少しずつオレンジ色に染まろうとしていた。


「よ、よーし……」


 両手でエコバッグを抱えて、操くんの家の前に立つ。

 手の込んだ料理を作ろうかと思ったけど、操くんが好きなのは肉料理。

 だから、ちょっと高めのお肉を買ってきた。どこかでアルバイトしないと……。


「は、入ってもいいよね」


 呼び出しベルを押そうとして、指が震える。

 おじさんとおばさんには、いつでも入っていいと鍵を渡されてはいるけど……。

 もしこの中でアバンチュール(死語) が行われているとしたら……。


「あー、もう!!」


 頭の中に浮かんでくるピンク色の妄想を、首を振って掻き消す。

 操くんにやましい気持ちがないのなら、入っても問題ないはず。

 短く息を吐いて、預かった家の鍵を差し込む。

 鍵を外して、ドアノブを引いて扉を開ける。

 その瞬間、頭の中で演技するためのスイッチを切り替えた。


「おっじゃましまーす!!」


 大きな声をあえて出して、玄関に入っていく。

 中から反応はない。

 一瞬怯むが、一歩前に出て靴を脱ごうとする。

 操くんと桜屋敷さんは、どこにいるんだろう。

 そう考えた刹那――


「操、タオルってどこですのー?」


 と、女の子の声が廊下に響いた。

 視線をあげる。

 廊下の先に見えるのは、お風呂に続く脱衣場。

 その扉から顔を覗かせたのは、下着姿の桜屋敷さん。


「え……?」


 と、ぼくは驚愕の声を漏らす。


「え……?」


 それは、相手も一緒だった。

 手に持ったエコバッグが滑り落ち、どさりと音を立てる。

 ライトブルーのブラジャーとショーツだけを着けた桜屋敷さんは、口を開けてただじっとこちらを見つめている。

 廊下はしんと静まり返り、二人の間に緊張感が走った。

 人は予想以上の衝撃を受ければ、硬直してしまうらしい。

 それを自覚した瞬間、急に体が熱を帯びる。


「し……」

「し?」


 ぼくが漏らした言葉を、小さく首を傾げて桜屋敷さんが繰り返す。


「失礼しましたぁああああああああああ!!」


 そして、そう叫んでからきびすを返す。

 そのまま慌てて扉を開け、転げ出るようにして外に出て……。

 倒れるように背中で扉を閉める。

 ばたんと大きな音がして、訪れる静寂。

 それから、いろいろな考えが交差する。

 脱衣所。下着。タオル。二人きり――


「ヤってる!!」


 顔を赤くしながら口から出た言葉が、閑静な住宅街をつんざく。

 道行くスーツ姿の会社員や、犬を散歩中のおじいちゃんが、驚いてこちらを向く。


「ヤってる!?」

「ヤってるって!?」


 辺りは騒然とするが、気にしている余裕はない。

 ぼくは湧き上がる衝動のまま、走り出した。

 顔を赤くし、目をぐるぐると回しながら、行く当てもなくまっすぐ走る。

 家に帰ればよかったのだろうが、そう考える余裕もない。

 とにかく、次々に感情が浮かんできて、頭の中の整理がつかない。


「え!? あれって!? どういうこと!?」


 桜屋敷さんが下着姿で家に!?

 タオルを探してたみたいだから、お風呂に入ろうとしてたってこと!?

 なんで操くんの家で!?

 理由を考えてみるが、そんなのは一つしか浮かばない。


「やっぱり、アッチッチ(死語) してたんだー!!」


 顔を両手で押さえて、商店街に続く道を走る。

 決定的な現場を見てしまい、心の中がぐちゃぐちゃになる。

 意図せずして女の子の下着姿を見てしまったという驚きと、嫌な予感が確信に変わった悲しさ。


「操くんが、桜屋敷さんと……」


 そう口にすると、急に心の中のもやもやは強くなる。

 今まではぼくの被害妄想でしかなかったけど、あれは現実だ。

 いや、そういう行為をしてるのを見たわけじゃないけど……。

 家でお風呂に入っているくらいだから、親密な関係なのは間違いない。


「二人は、恋人同士……なんだよね?」


 初めて二人が話しているのを見た時から、親密そうだったから、きっと学校に入る前からの関係。

 迂闊にも、ぼくは操くんに恋人がいないと思い込み、肝心なことを聞いていなかった。


「そっか、恋人……いたんだ……」


 心の底でうごめくもやもやが強くなる。


「ぼくの……独りよがりだったんだ……」


 悲しみが、押し寄せてくる。


「どんなに頑張っても、意味なかったんだ……」


 逃げるように動かしていた足が、少しずつ遅くなっていく。


「ぼく……」


 やがて、誰もいない交差点で足を止めて。


「馬鹿じゃん……」


 俯いて、泣いた――


「うっ……あ……」


 とめどなく、涙があふれてくる。

 目から頬を伝って流れる涙は、道路に落ちてシミを作っていく。


「ひ……ぐ……」


 膝に手を当てて、背を丸めて嗚咽おえつする。

 失恋という言葉が、胸に深く突き刺さった。

 実を言えば、これがぼくの初恋――

 陰キャで人と接するのが苦手だったぼくは、いつもクラスの端っこにいた。

 友達もおらず、クラスで起こっていることを、影から見つめるだけのモブ。

 虐められていたわけじゃない。ただ、だれもぼくと関わろうとしなかっただけ。

 ぼくも気を遣って、人と接触することを避けた。

 目が隠れるくらい長い前髪で視界を覆って、授業中以外はずっと机に伏せて、世界を遮断する。

 何にも興味を持たず、闇の中にいるのが心地よかった。

 高校も、そうやって閉じこもって生きていくつもりだった。

 だけど……


「う……うぅ……」


 そんなぼくを照らしてくれたのが、操くんだ。

 どんくさいぼくは、移動教室の途中でよく物を落とすし、体育の時はすぐに転ぶ。

 地味で存在感もないぼくに、誰も気付くことはない。

 だけど……


『大丈夫か?』


 そう言って、最初に手を差し伸べてくれたのは、操くんだった。

 ばらまいた教科書と筆記用具を、一緒に集めてくれる。

 そして「気をつけろよ」と、あの少年のような笑顔で笑うのだ。

 体育で転んだ時は、ぼくの手を取って、体を起こしてくれる。

 操くんの手は、とても温かくて、柔らかかった。

 人に対して、どきりと胸が高鳴ったのは、それが初めてだ。

 男の子が好きという趣味はない。

 ない……はずだったけど、ぼくは操くんに惹かれていた。

 決定的になったのは、操くんが女の子と楽しそうに話していた時だ。

 なぜだか、もやっとした。

 操くんを取られてしまいそうで、それが嫌だった。

 だから、ぼくは……


「たくさん頑張って、かわいくなったのに……」


 かわいくなれば、操くんの気を惹けるんじゃないかっていう、幼稚な考え。

 どうすればうまく人と話せるかなんて、分からなかったから……。

 自分を変えることだけを、ひたむきに頑張った。


「でも結局、全部無駄だった……」


 初めて女装して、外に出た時、どれだけどきどきしただろう。

 そんなぼくを見て、みんながかわいいと言ってくれた時、どれだけ嬉しかっただろう。

 確かにぼくは、自分を変えることはできたのかもしれない。

 なのに……


「操くんに『かわいい』って言ってもらえなきゃ、意味ない……」


 そう、それは全部、好きな人に振り向いてもらうためにやったんだ。


「なのに、なんでだよぉ……」


 目をいくら拭っても、涙は止まらない。

 ぼくの思いは、もう届くことはないんだ……。

 あてもなく、再び歩を進める。

 このままとどまっていたら、悲しみに飲まれてしまいそうな気がして……

 辛い気持ちをごまかすために、足を動かす。

 好きな人から遠ざかるように、一歩……

 また一歩――

 そんな時だ、


「え……?」


 身体が、光によってパッと照らされた。

 同時に、甲高いクラクションの音が聞こえる。

 そちらに目を向けると、猛スピードで近づいてくる、ワゴンタイプの車が見えた。


「うそ……」


 声を漏らすが、車のスピードは落ちず、その距離は一瞬で縮まる。

 ヘッドライトが視界を奪い、眩しさに目を閉じる。

 身体は、動かない――

 その時だ。


「あぶねぇ!!」


 そんな声と共に、身体が引っ張られる。

 後方に身体が傾く感覚と、誰かがそれを受け止める衝撃。

 その直前に風が吹いて、車が通りすぎたのが分かった。

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