第六章:意味深な微笑み
「疲れた……」
家に入った瞬間、膝から崩れ落ちる。
いろいろなことがありすぎて、午後の授業の内容はさっぱり覚えていない。
「操くん……」
頭に置かれた手の感触を思い出すと、まだポーっとする。
胸に手を当てると、心臓は早鐘を打っていた。
無理をしているのは分かっているけど、全て自分で決めたこと。
手を握って、シャツを強くつかむ。
ぼくの思いを、何とか伝えたい。
「今日も、ご飯作りに行こうかな……」
そうしたいけど、本当のぼくはすごく臆病だ。
本番は演技で何とかできても、舞台に立つまでの勇気が出ない。
「はぁ……」
ため息を吐いて立ち上がる。
今日もお父さんとお母さんは帰ってこない。弁当箱を洗わなきゃ。
靴を脱いで家に上がり、右手にある居間を抜けて台所に行く。
鞄から空になった弁当箱を出して、ランチクロスを解く。
「あ……」
蓋を取った弁当箱の中身は、米粒一つ残ってないほど綺麗だった。
「嬉しい……」
ぽうっと、ローソクが灯ったかのように温かくなる胸。
料理はたまにやっていたけど、まだ覚えたてだ。
それを操くんは嬉しそうに食べてくれる。その優しさが愛おしい。
ケースの蓋を取って、箸を取り出す。
「操くんが使った、お箸……」
その先をじっと見つめる。
操くんの唇がこれを咥えていたと思うと、なんだかドキドキしてくる。
胸に湧き上がってくる、妙な衝動。
「はぁ……」
なぜだか、息が上がってくる。
もやもやとした艶めかしい感情に押されるように、そのまま小さく舌を出して……
「んっ……」
ぺろりと、その先をなめた。
舌先から唾液が線を引いて、薄い弧を描く。
「操くんの味がする……」
目を閉じて、太股をぎゅっと閉じる。
全身に走る震え。そこで、冷静になる。
「って……変態じゃん!! 何やってるんだよ、ぼくー!!」
慌てて蛇口のレバーを押して、手に持った箸を水で洗い流す。
あまりの情けなさに、目じりに浮かんでくる涙。
でも、ふわふわする気持ちはわずかに残っている。
そんな気持ちを吹き飛ばすように首を振って、弁当箱を洗う。
「着替えよ……」
弁当箱は水切りラックに、手洗いしたランチクロスは、布巾かけに掛けておく。
とぼとぼと二階に続く階段を登り、自室に入る。
ぬいぐるみが置かれたベッドに、鏡とメイク用品が置かれた机。
クローゼットを開けると、女の子の服がいっぱい入っている。
日常的に女装を始めてから、部屋はすっかりかわいらしくなった。
「お父さんもお母さんも、よく許してくれてるよね……」
操くんと出会ったのは高校に入ってから。
すぐに恋に落ちて、一ヶ月間悩みに悩んで、六月に出した決断が今の姿だ。
操くんが何気なく言った言葉――
『優音ってかわいいな』
子供みたいな笑顔でそう言って、悪い意味じゃないぞと慌てて否定する。
それが、ぼくの心を完全に女の子にした。
「よくここまで出来たよね……」
制服を脱いでハンガーにかけ、姿見で自分を確認する。
顔はかわいいと思う。メイクも肌に合わせたナチュラルメイクで、盛ってるわけじゃない。
胸は……さすがにない。ブラジャーをつけるのは恥ずかしいから、女性用のタンクトップかキャミソールを着けている。
パンツは……女の子のだけど……。
「朝になったらまた走らなきゃ」
最近は体脂肪を抑える努力や、豆乳を飲んだりサプリを摂ったりもしている。
喉仏は少しだけ膨らんでいるけど、声は高いまま。
体つきは元々華奢だし、男の娘になれるポテンシャルはあったんだと思う。
「胸があれば喜んでくれるのかな……」
どんなに頑張っても、完全な女の子にはなれない。
それを辛いと思ったことは一度もなかったけど、操くんに出会ってからは、男として生まれてきたことを悲しく思った。
「でも、諦めたくはない」
鏡の中の自分に言い聞かせるように言い放つ。
操くんが誰かと付き合っている姿を想像してるだけで、胸は痛くなる。
「やらないで後悔するくらいなら、やってから後悔しなきゃ」
モブ男くんの受け売りだけど……。
お母さんはなぜか喜んでいるし、お父さんは戸惑っているけど、優しいから否定はしない。
学校も、指定のものであれば女子用でよいと言ってくれている。
女の子用のスラックスもあるし、今では珍しくないのかな。
「よし、今日も操くんの家に行って、ご飯を作ろう」
机に置いたスマホを見ると、午後五時になろうとしている。
急がないと夕飯の準備を始めちゃうかも。
「な、なるべくかわいい格好で……」
急いで着替えて、財布とエコバッグをもって階段を降りる。
本当はシャワーも浴びたかったけど、操くんに声を掛けてからだ。
ドアの鍵を閉めて、門の外に出る。
日差しは落ち着いたけど、キャミソール姿なのにまだ暑い。
操くんの家は隣なので、すぐにたどり着き、呼び出しベルを押す。
一回。二回――
「あれ?」
中から反応はない。
よく見ると、二階のベランダにはまだ洗濯物が干してある。
そう言えば、今日は用があるから先に帰ってと言われた。
「買い物に行ってこようかな」
鍵は持っているけど、スーパーは近いし、そうしているうちに帰ってくるかもしれない。
そう考えて、家の前の道に出る。
「あ!!」
すると、遠くの方に操くんの姿が見える。どうやら、今帰りらしい。
自然と綻ぶ口元。駆け寄ろうと、足を踏み出そうとする。
だけど……
「あ、あれは……」
操くんの隣に並ぶ女子生徒。歩きながら、楽しそうに話している。
こちらには気付いていないようだ。
見てはいけないものを見た気がして、ぼくは自分の家の門に身を隠した。
「桜屋敷さん……」
操くんの横に並んで歩いていたのは、学園のアイドル的存在。
モブ男くんと同じでお金持ちの家で育ち、陸上部のエースでもある。
艶のある黒髪のロングで、いつも背を伸ばして凛と立っている。
ぼくから見ても美人で、目を引かれてしまう。
門の裏で屈んでいるぼくの後ろを、そんな二人が通り過ぎていく。
「そうじゃないですわ。大体、操は本当に分かってない……」
「そんなこと言われてもよ……」
口元に両手を当てて息を押し殺す。
いや、なんでぼく隠れているんだろう。
ちょっと驚いたけど、別に悪いことしてるわけじゃないし……。
そう思い立ち上がると、二人の後ろ姿が見えた。
声を掛けようと口を開こうとして……
チクリと胸が痛む――
綺麗な顔をした操くんに、美人な桜屋敷さん。
夕日に照らされて、何気なく会話している二人の姿、それがお似合いに見えてしまった。
呼び止めようとして伸びた手が、落ちる。
なにより……
「え……?」
桜屋敷さんは、操くんと一緒に家の門をくぐる。
訳が分からず、呆然と見つめる。
操くんが鍵を開けて中に入り、桜屋敷さんはその後ろで背を伸ばして待っていた。
そして……
「あ……」
次の瞬間、目が合い――
「ふふ……」
桜屋敷さんは口元を吊り上げて微笑み、こちらに頭を下げて、家の中に入っていく。
閉まる扉。
辺りから、音が消えた。
「え……ええええええええええええ!?」
思わず叫んでから、口元を抑えて、慌ててその場に屈む。
どどどどどどどどどど、どういう……こと?
桜屋敷さんが操くんの家に!? なんでなんでなんで!?
た、確かに操くんと桜屋敷さんは、たまに話しているのを見るけど……。
操くんが桜屋敷さんのことを見ていて、もやもやすることもあるけど……。
「え? え? え? いや……え?」
頭を抱えて、震える。まとまらない思考。
「どういうことぉおおおおおおおおおおお!?」




