第三章:若さゆえの悩みは、悪いものじゃない
シャワーを浴びて、二階へ続く階段を登る。
一人暮らしもだいぶ慣れた。
最初は寂しいと思うこともあったが、快適さの方が勝っている。
「課題をすませるかー」
米だけは炊いてあるから、おかずは後で考えよう。
そう思い、自分の部屋に入る。
「やっほー」
その刹那、誰もいないはずの部屋から声が聞こえ、思考が止まる。
視線の先に立っているのは、キャミソールにショートデニムという、私服姿の優音。
「な、なんでお前が部屋にいるんだよ!?」
「てへっ。合鍵作っちゃった」
こわいこわいこわいこわいこわい。
優音は舌を出し、指先でくるくると鍵を回す。
それはもう、小悪魔というか悪魔の所業だぞ……。
「って言うのは冗談で、操くんのお母さんに鍵預かってたんだ」
「あー……そうだったっけ」
『何かあったら、お隣さんが助けてくれる』と言っていたのを思い出す。
「かわいいぼくが居て、嬉しい?」
言いながら、こちらを見上げてくる。
右肩のキャミソールの肩ひもが僅かにずれ、胸の間に隙間ができる。
みえっ!? と思うが、こいつにおっぺーは無い。
だが、びーちくはある!!
白い鎖骨、艶のある肌。見えそうで見えない、胸の先端。
「操くんみすぎだよ~。そんなに見たいの?」
蠱惑的な表情を浮かべて、襟を指に引っかけ、見せつけるように下に引っ張る。
お腹まで見えそうになったのを確認して、慌てて目を逸らす。
なんでこいつの肌、こんなに綺麗なんだよ……。
顔が上気するが、風呂上がりで誤魔化せているはずだ。
「つか、何しに来たんだよ」
「あ、そうだった。操くん、今日何食べたい?」
胸の前でパンと手を叩いて、背伸びして顔を近づけてくる。
ふわりと揺れる髪先から、シャンプーの匂いがする。
「好きなもの作ってあげる」
にこりと微笑み、口の端から覗く八重歯。
「え? まじで? いいの?」
「うん、今日お父さんもお母さんも帰ってこないから、ついでに作るよ」
「あー、じゃあ……肉が食いたい」
「おっけー、台所借りるね?」
優音はそう言って、床に置いていた買い物袋を持ち上げる。
「勉強するんでしょ? 待ってて」
一度部屋から出て、再び入口から顔を覗かせ、そのまま階段を下っていく。
正直、とてもありがたい。
俺は料理が苦手で、普段はスーパーの惣菜ばかり食べている
優音はたまに料理を作ってくれるが、とても美味しい。
「やるか」
椅子に座って机に向かう。
面倒な課題も、美味しいご飯が待っていると思うと、少しは気分が上がる。
部屋の中に残る、優音の残り香。
少しだけ頬がむずむずとするが、机の上に置いたテキストに向かう。
心なしか、今日は手に持ったペンが進む。
「できたよー!!」
しばらくして、聞こえた声に顔をあげる。
手元に置いたスマホに目を向けると、一時間ほどが経とうとしていた。
すっかり集中していたみたいだ。
「操くん、聞こえてるー?」
いつもは静かな家から聞こえる、自分以外の声。
自然と頬が緩んだ。
「今行く」
テキストを鞄に戻し、部屋を出る。
その途端、肉が焼ける香ばしい匂いが、鼻孔をくすぐった。
「もー、遅くなると冷めちゃうよ~」
「わりぃわりぃ」
居間に降りると、エプロンをつけた優音が不満そうに頬を膨らませている。
テーブルの上を見ると、キャベツが添えられた生姜焼きと、味噌汁とご飯が並んでいる。
ふわふわと漂う湯気が、普段は寂しい食卓を彩っていた。
お互いに手を洗ってから、席に着く。
「美味しく出来てるかな~」
エプロンを外して、優音はテーブルの上に並んだ夕食をじっと見つめる。
表面が程よく焼けた豚肉から香る、醤油とおろし生姜の匂い。
うまそうに見えるが、問題でもあるのだろうか。
「食べていいか?」
「う、うん」
確認すると、おずおずと頷く。
反応が少し引っ掛かるが、手を合わせて食事前の挨拶をする。
「いただきます」
そう言ってから、目の前に置かれた豚肉を箸で掴んだ。
口に放り込むと、肉の味がしっかりと広がっていく。
味付けは濃すぎず、俺好みだ。刻まれたキャベツとの食べ合わせも良い。
「おお……」
思ったより、ちゃんとした味だった。いや、普通にうまい。
両手で味噌汁が入ったお椀を傾け、口の中に流し込む。
こちらは薄めの味付け。だが、それがいい。
揚げとわかめという具材も、食べ応えがあって味噌汁に合う。
俺が作った味噌汁なんて、ただしょっぱいだけなのに……やっぱり、こいつはすごい。
夢中で食事をしていると、ふと対面に座った優音が見える。
箸を持つことなく、こちらを静かに見つめている。
「なんだ、食わねえのか?」
不思議に思い、口の中の物を咀嚼してから聞いてみる。
優音は一瞬だけ目を丸くした。
「えへへ~」
しかし、すぐに口元を緩め……
「嬉しそうにご飯を食べる操くんがかわいくて、魅入っちゃった」
笑顔で、そう答えた。
とくんと、胸の中で心臓が跳ねる――
「ごめんね。ちょっとだけ自信なかったから。でも、口にあったのならよかった」
普段は得意げに挑発してくるくせに、しおらしく笑う。
心に引っかかる思い。
馬鹿みたいにばくばく食ってたけど、俺のために作ってくれたんだよな……。
よく見ると、俺の皿に乗っている肉は綺麗だが、優音の皿の肉は少しだけ焦げている。
「あー……」
恥ずかしくはあるが、相手の厚意には礼を尽くさなきゃいけない。
とはいえ、なんと言うのが正解か……。
いや、一生懸命作ってくれたのだから、素直な気持ちを伝えるのが礼儀だ。
高鳴る心臓を鎮めるために息を深く吸い、顔をあげる。
「優音、ありがとう。お前の料理は、本当にさいっこうだな!!」
そう言って、微笑む。
相手の良い所は必ず褒める。まぁ、モブ男の受け売りだけど。
俺の言葉を聞いて、優音は驚いたように目をぱちくりとさせる。
手に持った箸を茶碗の上に置いて……
「えへへ~、やったー」
小首を傾げて、目を細め、口から八重歯を覗かせる。
その笑顔は、いつもの小悪魔じゃなくて、普通の女の子みたいだった――
「な……!!」
なにそれ、かわいい……!!
大げさじゃない反応が、なんだか胸に来る。
調子に乗ってくれれば、突っ込みの一つでも返せるが、これじゃ何も言えない。
舌打ちをして、目を逸らす。
こっそりと横目で優音を見ると、鼻歌交じりにご飯を口に運んでいた。
胸の中に渦巻く、もやもや。
だけどこの気持ちは、本物だ。
片付けを済ませ、居間に戻る。
優音にはソファでくつろいでもらっていた。
「はぁ……」
胸に渦巻く思いを、ため息と一緒に吐き捨てる。
それでも、ふわふわするような気持ちは収まらない。
「あ?」
テレビの前のソファを見ると、優音が身体を丸めて眠っている。
「すー……すー……」
かわいらしい吐息と共に上下する胸。
安らかな表情を見ていると、自然と口元が緩む。
「あーあ、風邪ひくぞ」
暑いとはいえ薄着のまま寝ると身体が冷える。
俺はソファの背もたれに掛けていたブランケットを、静かに掛けてやる。
そのまま、起こさないようにゆっくりと優音の隣に腰かけた。
つけっぱなしのテレビは、遠くの国で起こったニュースを告げている。
ふと、手元に優音の髪が触れる。
「綺麗だな」
艶のある、さらりとした栗毛色の髪。
俺の髪は太くて硬いから、少し羨ましい。
「うみゅ……」
身体を揺らし、小さく呻く。
それでも、疲れているのか起きる気配はない。
柔らかそうな頬に、つい視線が落ちる。
こうやって静かにしていれば、かわいいのにな。
口に出すのは憚られるので、胸にとどめておく。
テレビから流れる、他国の同性婚のニュース。
「あー……」
なんだか、むず痒い。
今の時代、男女の意味合いが変わってきているのは、理解している。
でも、自認が崩れれば戸惑ってしまうのは、誰しもがそうだ。
「お前は、どんな気持ちで男の娘やってんだ……」
普段は口にしない疑問を口にする。
「すぅ……」
優音は短く息を吐くだけで、答えはしない。
俺は天井を見上げる。
少なくとも、こいつと一緒にいるのは嫌いじゃない。
今は、それだけでいいのだろうか。
「若さゆえの悩みは、悪いものじゃない。モブ山モブ男、談」
モブ男の格言を引用しながら、目を閉じる。
考えても答えが出ないのなら仕方がない。
こいつと一緒にいれば、見えてくるものもあるのだろう。
意識はだんだんと闇に飲まれていく。
隣から聞こえる寝息は、心地よく耳に響いた。




