ママと呼ばれたおじさん ㈢
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
やがてタクシーは、昭和町五丁目の古びたアパート「コーポ昭和」の前に到着した。
香代子が鍵を開けて二〇一号室のドアを押し開けると、そこには数時間前に涼子が倒れた惨状がそのまま残されていた。
台所のシンクの前に散乱する、粉々に割れた白い陶器の皿。ガスコンロの上に置かれたまま冷めきった、特大の煮込みハンバーグの入ったフライパン。
その光景を見た瞬間、良亮が再び「ひっ」と短い悲鳴を上げて香代子の背中に隠れた。母親が倒れた瞬間の恐ろしい記憶が蘇ったのだ。
天井付近にふわふわとついてきた涼子の魂は、割れた皿を見てひどく落ち込んだ。
(ああ……せっかく良亮のために作ったハンバーグも、冷たくなっちゃった。私、本当にどうなっちゃったの。このまま一生、自分の体に戻れないの?)
友之は靴を脱いで部屋に上がり、狭いダイニングキッチンを見渡した。古いながらも塵一つなく掃除された部屋。壁に貼られた良亮の描いた家族の絵。そして、部屋の隅に置かれた小さな写真立て。そこには、良亮によく似た面影を持つ優しそうな男が、バックパックを背負って笑っている写真が飾られていた。これが、今日死亡宣告を受けたという旦那なのだろう。
女手一つで、この狭いアパートで必死に子供を育ててきた涼子という女性の生活の匂いが、そこかしこに染み付いていた。
友之は、他人のプライベートな領域に土足で踏み込んでしまったような、強い罪悪感と居心地の悪さを感じた。
「……とりあえず、座って」
香代子が割れた皿の破片を手際よく片付けながら、ちゃぶ台の前に座るよう友之に促した。良亮は香代子の隣に座り、友之とは目を合わせようとしない。
友之がぎこちなく正座をすると、香代子は真剣な、しかしどこか腹を括ったような強い眼差しで友之を見据えた。
「岩瀬くん。状況が全く飲み込めないのは私も同じよ。でも、現実問題として、あなたはお姉ちゃんの体の中に入っている。そしてお姉ちゃんの意識はどこにもない。この事実を前にして、私たちはどうするかを決めなきゃいけないわ」
友之は腕を組み、渋い顔をした。
「どうするって言ってもな……俺だって自分の体に戻りたいんだ。明日にでも箱根の俺のアパートに行って、俺の体がどうなってるか確認しねえと。もしかしたら、俺の体にあんたの姉貴が入ってるかもしれないだろ」
「それはそうね。でも、今日はもう遅い。明日以降、必ず確認に行きましょう。……それと、もう一つ重大な問題があるわ」
香代子は言葉を切ると、隣で俯いている良亮の頭を優しく撫でた。
「良亮くんのことよ。お姉ちゃんの体をした見知らぬおじさんと、八歳の子供を二人きりでこのアパートに住まわせるわけにはいかないわ。良亮くんが精神的に耐えられないし、岩瀬くんにお姉ちゃんの生活や仕事をこなせるとも思えない」
「そりゃそうだ。俺は介護の仕事なんてやったことないし、女の化粧の仕方も分からねえ。……じゃあ、どうするんだ?」
香代子は大きく息を吸い込み、きっぱりと宣言した。
「私が、明日からここに住み込むわ。自分のアパートは引き払って、仕事にも少し融通を利かせてもらう。お姉ちゃんが……いや、岩瀬くんがその体に入っている間、私が良亮くんの母親代わりとしてこの家を回す。岩瀬くんには、お姉ちゃんの体を傷つけないように、そして周囲にこの異常事態がバレないように、大人しくここで生活してもらうわ」
友之は目を見開いた。
「あんたが、ここに一緒に住むって……? いや、いくらなんでもそれは……」
「他に方法がある!? あんたがその体で外をうろついて、お姉ちゃんの評判を落とすような真似をされたら困るの! それに、良亮くんを守れるのは私しかいないじゃない!」
香代子の激しい剣幕に、友之は口を噤んだ。確かに彼女の言う通りだった。自分がこの体で元の職場(製薬会社)に行けるはずもないし、涼子の職場で働くことも不可能だ。事実上、このアパートに軟禁される以外に道はない。
その時だった。
ずっと黙って香代子の隣で俯いていた良亮が、ゆっくりと顔を上げた。
その大きな瞳にはまだ涙の跡が残っていたが、怯えて泣きじゃくっていた先ほどの子供らしい弱さは消え去り、驚くほど冷静で大人びた光が宿っていた。
良亮は立ち上がり、友之の目の前まで歩み寄った。
「……ねえ、おじさん」
涼子の体を見上げながら、良亮は静かな声で問いかけた。
「おじさんは、本当に僕のママじゃないの? ママのフリをしてる悪い人じゃなくて、本当に中身が別の人になっちゃったの?」
そのまっすぐな問いかけに、友之は誤魔化すことをやめた。子供扱いせず、一人の男として向き合うべきだと直感したのだ。
友之は正座を崩し、良亮の目線に合わせて体を少し屈めた。
「……ああ。信じられないだろうが、俺は岩瀬友之っていうおじさんだ。どうしてこうなったのかは分からない。でも、俺がお前のママから体を奪ったわけじゃない。それだけは信じてくれ」
良亮はじっと友之の瞳の奥を見つめていた。母親の顔をしているのに、そこから発せられる気配や瞳の動きは、確かに自分の知っている「ママ」のものではなかった。賢い良亮の頭脳は、必死にこの非現実的な状況を処理し、一つの結論を導き出そうとしていた。
やがて、良亮はパジャマの袖で自分の両目をゴシゴシと乱暴に擦り、残っていた涙を完全に拭い去った。
「分かった。おじさんがママじゃないなら、僕、もう泣かない。泣いてもママは戻ってこないもんね」
良亮の声は震えていたが、そこにははっきりとした決意が込められていた。
「その代わり、約束して。絶対に、僕のママの体を大切にして。そして、一緒にママがどこに行っちゃったのか、探して。僕も、ママを取り戻すために手伝うから」
八歳の少年が突きつけてきた、あまりにも気丈で切実な取り引き。
その言葉の重みに、友之は思わず息を呑んだ。父親がいないこの家で、母親を支えようと背伸びをして生きてきたこの少年の芯の強さが、痛いほど伝わってきた。
友之の胸の奥で、何かが熱く燃え上がるのを感じた。
「……ああ、約束する。俺の体を取り戻すためにも、絶対にお前のママを元の場所に帰してやる。男と男の約束だ」
友之は不格好な笑顔を作り、良亮に向かって右手の拳を差し出した。
良亮は一瞬ためらった後、小さな拳を握りしめ、コツンと友之の拳に合わせた。
その一部始終を天井付近から見下ろしていた涼子は、涙を流すことができない魂の状態で、しかし心が激しく嗚咽しているのを感じていた。
(良亮……。なんて強い子なの。ママがいなくても、ちゃんと前を向いて……。香代子、良亮をよろしくお願いします。そして岩瀬くん、どうか、どうか私の体を……そして良亮のことを、傷つけないで)
安堵と、絶望的な寂しさが入り混じった複雑な感情。
自分の居場所を他人に奪われながらも、愛する家族の強さに救われる。そんな奇妙な構図のまま、河崎の夜は深く静かに更けていった。
肉体と魂が入れ替わった三十二歳の男と、勝ち気な叔母、そしてませた八歳の少年の、奇妙で不可思議な共同生活が、今ここに幕を開けたのである。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




