ママと呼ばれたおじさん ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
病室の重苦しい空気は、当直の医師が再び顔を出したことによって一時的に破られた。
先ほどの騒ぎを聞きつけて駆けつけた初老の医師は、ベッドの上で頭を抱え込んでぶつぶつと呟いている「涼子」の姿と、それを複雑な表情で見つめる香代子、そして泣き疲れて香代子の腕の中でしゃくり上げている良亮を順番に見渡した。
「……越智さん、少しは落ち着かれましたかな。念のため、頭部CTや血液検査の結果をもう一度確認しましたが、身体的な異常はどこにも見当たりません。脳の血管にも異常はないし、薬物やアルコールの反応もない。ただ、極度の精神的ストレスによる一時的な解離症状、あるいはせん妄状態に陥っている可能性が高いと考えられます」
医師のその言葉に、香代子はハッとして立ち上がった。姉の体に別の男の魂が入り込んでいるなどというオカルトじみた事実を、医者に馬鹿正直に話したところで精神科病棟に隔離されるのがオチである。香代子は持ち前の頭の回転の速さを活かし、咄嗟に話を合わせた。
「先生、実は……姉は今日、行方不明だった夫の失踪宣告の手続きをして、市役所に死亡届を出してきたばかりなんです。七年間も待ち続けて、ようやく法的な区切りをつけたその日の夜に倒れてしまって……。きっと、これまでに溜まっていた心労が限界を超えて、心が少し壊れてしまったんだと思います。先ほど『自分は岩瀬だ』と言っていたのも、昔の同級生の名前なんです。きっと、過去の記憶が混乱してフラッシュバックしているだけで……」
香代子のその見事な作り話を、天井付近に浮かぶ涼子の魂は複雑な思いで聞いていた。
(香代子、上手く誤魔化してくれてありがとう。でも、私の心は壊れてなんかないわ! 私はちゃんとここにいるのに……!)
涼子は空中で地団駄を踏むように足を動かしたが、やはり虚無を蹴るだけであった。
一方、ベッドの上の岩瀬友之は、香代子の言葉の半分しか耳に入っていなかった。彼にとって衝撃的だったのは「夫の失踪宣告」「死亡届」という単語である。
(この女……いや、内海の姉貴は、旦那が七年も行方不明で、今日死んだことになったのか? じゃあ、あの泣いてる坊主は、父親がいないってことか……)
友之はチラリと良亮の方へ視線を向けた。良亮は香代子の服の裾をギュッと握りしめ、怯えた小動物のような目でこちらを窺っている。三十二歳独身、気ままな一人暮らしを謳歌していた友之の胸に、何とも言えない重苦しい感情がのしかかってきた。
「なるほど、そういうご事情がありましたか。それならば、この激しい混乱状態も無理はありません」
医師は深く頷き、カルテに何事かを書き込んだ。
「本日はこのまま入院していただき、精神安定剤を投与して様子を見るのが得策かと思いますが……ご本人がどうしても帰宅を希望される場合は、ご家族の付き添いと厳重な監視があるという条件で、退院を許可することも不可能ではありません。身体的な危険は今のところありませんので」
「帰る! 絶対に帰る! こんな病院のベッドで一晩中大人しく寝てるなんて冗談じゃない!」
友之がベッドの上から声を荒らげた。女性の甲高い声で乱暴な口調を使うため、医師はギョッとして一歩後ずさった。
香代子は慌てて友之を睨みつけ、「少し静かにしてて!」と小声で叱りつけると、医師に向かって深々と頭を下げた。
「先生、申し訳ありません。私が責任を持って姉の面倒を見ます。自宅の環境の方が、姉も……そして息子である良亮くんも安心できると思いますので、退院させてください」
こうして、世にも奇妙な三人――そして見えない一人の魂――の、病院からの退去が決定した。
問題は着替えであった。
看護師が持ってきた、倒れた時に涼子が着ていた紺色のポロシャツとチノパンをベッドの上に置かれた時、友之は露骨に顔をしかめた。
「おい……俺にこれを着ろって言うのか?」
「当たり前でしょ! 病院の寝巻きのまま帰る気? 早く着替えて!」
香代子が急かすが、友之は腕組みをしたまま断固として動こうとしなかった。
「ふざけんな! 俺は男だぞ! 他人の、しかも女の服を着るなんて、変態みたいな真似ができるか!」
「中身が男だろうがなんだろうが、今はあんたはその体なの! お姉ちゃんの体なのよ! わがまま言ってないでさっさと着替えなさい!」
二人の言い争いを、天井の涼子は顔から火が出るような恥ずかしさと絶望の中で見下ろしていた。
(いやあああっ! 見ないで! 私の体を勝手に脱がさないで! 香代子、なんとかして!)
涼子の声なき悲鳴が響く中、香代子もついにしびれを切らした。
「……分かったわ。じゃあ、私が着替えさせる。あんたは絶対に目を閉じてなさい。少しでも目を開けたら、お姉ちゃんの尊厳を守るためにその両目を指で突くからね!」
「お、おい! ちょっと待て、人に服を脱がされるなんてガキの頃以来――」
友之の抵抗も虚しく、香代子は有無を言わさずカーテンを閉め切り、良亮を外に待たせた状態で、半ば強制的に友之の着替えを完了させた。友之は香代子の殺気に満ちた脅迫に屈し、本当にずっと目を固く閉じ、されるがままになっていた。女性の下着の締め付けや、胸元の重みを支える布の感触が、友之の精神をゴリゴリと削っていく。
深夜の病院の裏口からタクシーに乗り込むと、車内には重く沈んだ空気が漂っていた。
窓の外には、河崎の工業地帯のオレンジ色の照明が流れていく。深夜にもかかわらず稼働し続ける工場の煙突から、白い煙が夜空に吐き出されている。友之が暮らしていた自然豊かな箱根の景色とは全く違う、無機質で油臭い街の風景だった。
友之は後部座席の窓に頭をもたせかけ、自分の置かれた絶望的な状況を整理しようと試みていた。
岩瀬友之、三十二歳。製薬会社の営業課長(事故当時は主任であったが、記憶の中では課長としての自負がある)。箱根のアパートで一人暮らし。最後にある記憶は、風邪をこじらせて高熱を出し、自分の部屋のベッドで苦しみながら横たわっていたこと。そして目を覚ますと、小学校の同級生であった内海香代子の姉の体の中にいた。
いくら考えても、論理的な繋がりが見出せない。オカルトや非科学的なものを一切信じてこなかった友之の脳は、このバグのような現実を処理しきれずにオーバーヒートを起こしかけていた。
ふと視線を横に向けると、良亮が香代子の腕にぴったりとしがみつき、友之の方を一切見ようとせずに俯いているのが見えた。
その小さな背中が、友之の胸をチクチクと刺す。
(俺のせいじゃない。俺だって被害者なんだ。だが……この坊主から母親を奪っちまった形になってるのは、事実なんだよな)
友之はため息をつき、女性特有の細い指をぎこちなく組んだ。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




