ママと呼ばれたおじさん ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
病室は、まるで真空状態に置かれたかのような重苦しい沈黙に包まれていた。
けたたましく鳴り響いていたナースコールと、心電図の不規則なアラーム音はすでに収まっている。駆けつけてきた医師や看護師たちは、ベッドの上で点滴の管を乱暴に引き抜きそうになりながら「自分は岩瀬友之だ」と叫び暴れる涼子の姿を見て、極度のストレスによる一時的なせん妄状態、あるいは解離性同一性障害の疑いがあると判断したようだった。夫である越智伸司の法的な死亡手続き――失踪宣告による死亡届――を市役所で提出したその日の夜に倒れたという香代子からの説明が、医師たちのその医学的な見立てを裏付ける結果となったのだ。
無理やり鎮静剤を打とうとする医療スタッフを、香代子が「どうか、少しだけ家族だけで落ち着かせてください。私が責任を持って見ていますから」と必死に懇願したことで、病室には再び奇妙な三人──いや、天井付近に浮かんで声なき悲鳴を上げ続けている涼子の魂を含めれば四人──だけが取り残されることになった。
ベッドの上に不格好な胡座をかいて座っている岩瀬友之は、両手で自分の顔を覆い、腹の底から絞り出すような深い溜め息を漏らしていた。
(なんだってんだ、一体……。夢だ。これは間違いなく、タチの悪い悪夢だ。一晩寝て起きれば、また自分のアパートのベッドで目が覚めるに決まってる)
友之は心の中で何度もそう反芻し、自分自身に言い聞かせた。しかし、顔を覆った手のひらから直接伝わってくる頬の滑らかな感触や、首を少し動かすたびに肩や背中に垂れかかってくる長い髪の鬱陶しさは、これが紛れもない現実であることを残酷なまでに突きつけていた。
物理的な違和感が、全身のあらゆる場所から警報のように脳へと送られてくる。
まず、視線の高さが決定的に違った。身長一七五センチメートルあった友之の視点からすると、今のこの体はあまりにも華奢で小さく、世界が少しだけ上ずって見えた。さらに、体の重心が全く異なる。男性特有の肩幅や骨格のガッチリとした感覚が完全に消え失せ、代わりに胸元には見慣れぬ柔らかな重みがあり、骨盤の広がりが座った時の姿勢に妙な不安定さをもたらしている。病院の薄い寝巻き越しに感じる肌の質感すら、これまでの三十余年の人生で馴染んできた自分のものとは異なっていた。
そして何より友之をひどく苦しめていたのは、自分の喉から発せられる声だった。
「……くそっ。何度声を出しても、全然俺の声じゃねえ」
苛立ち紛れに吐き捨てた低い呟きも、涼子の少し高めで澄んだ声帯というフィルターを通すことで、まるで機嫌の悪い舞台女優が低音で不貞腐れているような、奇妙でアンバランスな響きとなって耳に届く。その声を聞く度に、友之の背筋にはゾワゾワとした悪寒が走り、強烈な自己嫌悪に似た感情が湧き上がってきた。
三十四歳の、見知らぬ子持ちの女性。
その肉体の中に、三十二歳の独身男性である岩瀬友之の魂が、すっぽりと収まってしまっているのだ。どれだけ論理的に考えようとしても、理解が追いつかない。
そんな友之の様子を、部屋の隅に置かれたパイプ椅子に座る香代子が、信じられないものを見るような、それでいて深い警戒心を抱いた目でじっと観察していた。その隣では、八歳の良亮が香代子の腕にすがりつくようにして、しゃくり上げながら母親の顔を食い入るように見つめている。
耐えきれない沈黙が数分続いた後、良亮が香代子の腕をそっと離れ、恐る恐るベッドへと近づいてきた。
「ママ……。もう、怒ってない……? 僕、ママのそばに行ってもいい?」
涙でぐしょぐしょに濡れた小さな顔。不安で押し潰されそうな、怯えきった子犬のような瞳。
その「ママ」という単語が耳に飛び込んでくるたびに、友之の心臓はチクリと奇妙な痛みを覚えた。三十年以上、一人の男として生きてきた友之にとって、「ママ」と呼ばれることなど天地がひっくり返ってもあり得ない経験だったからだ。結婚すらしていない彼には、子供とどう接していいのかという基礎知識すら皆無だった。
友之は顔を上げ、ベッドの脇に立つ小さな少年を見下ろした。
母親が突然豹変してしまったことで、この子がどれほどのショックを受けているかは、友之にも容易に想像がついた。しかし、どう対応していいのかが全く分からない。気の利いた慰めの言葉や、子供を安心させるような温かい抱擁など、三十二歳の独身営業マンの引き出しには一つも入っていなかった。
「……あー、悪いな、坊主。俺は、お前のママじゃないんだ」
友之は努めて冷静に、しかし自分自身の精神を保つために事実を曲げることなくそう告げた。
その無機質な言葉を聞いた瞬間、良亮の大きな瞳から再びポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「嘘だ! ママの顔だもん! ママの声だもん! なんでそんな怖いこと言うの! パパみたいに、僕のこと置いてどっかに行っちゃうつもりなんでしょ!」
良亮はベッドの柵に身を乗り出し、友之が膝に掛けている白いシーツの端を小さな手で強く握りしめた。その手はガタガタと小刻みに震えていた。
「ちょ、待てって! 泣くな、男だろ! 俺は本当に岩瀬友之って言う、その辺にいる普通のおじさんなんだよ! なんでこんなことになってるのか、俺が一番教えてほしいくらいなんだから!」
友之が慌てて両手を振って弁明すればするほど、その女性らしいしなやかな指先の動きと、乱暴な男性の言葉遣いのギャップが、良亮の混乱と恐怖をさらに煽る結果となった。
「うわああああん! ママぁっ! ママぁっ!」
ついに良亮は、病室中に響き渡るような大きな声を上げて泣き出してしまった。
天井付近に浮かんでいた涼子の魂は、その光景を見下ろしながら、半狂乱になって叫んでいた。
(ちょっと、やめてよ! 良亮を泣かせないで! あなた、さっき岩瀬くんって言ったわね! いい大人が、八歳の子供に向かってなんて大人気ない態度をとるの! 私なら、良亮が泣いていたらすぐに抱きしめてあげるのに! 良亮、泣かないで! ママはここにいるから!)
涼子は空中で必死にもがきながら、良亮の小さな背中をさすろうと見えない手を伸ばした。しかし、涼子の霊的な指先は良亮の体をすり抜けるだけで、何の温もりも伝えることはできない。肉体を持たない魂の圧倒的な無力さが、涼子の心を黒い絶望で塗りつぶしていく。
見かねた香代子が立ち上がり、良亮を後ろから抱きしめてベッドから引き離した。
「良亮くん、大丈夫よ。おばちゃんがいるからね。ママはね、今日すごく疲れて、頭の中が少し混乱しちゃってるだけなの。だから、少し休ませてあげようね。ね?」
香代子は良亮の背中を優しく撫でながらなだめると、今度はベッドの上の友之に向かって、射抜くような鋭い視線を向けた。その目は、姉を心配する妹のそれから、見知らぬ侵入者を尋問するような冷たく硬いものへと変化していた。
「……で? あなたは本当に、あの岩瀬友之くんだって言うのね」
友之はベッドの上で胡座をかいたまま、面倒くさそうに頭を掻き、深く頷いた。
「ああ、間違いない。神奈川県の箱根町出身、昭和小学校で三年生まであんたと同じクラスだった。よく放課後に校庭の裏のジャングルジムで遊んだよな。あんた、昔から男勝りで、俺がドッジボールで泣かされたこともあった」
そのあまりにも具体的なエピソードを聞いて、香代子の表情がわずかに強張った。しかし、彼女はまだ完全に信じたわけではなかった。
「……私がお姉ちゃんの大切にしていた香水瓶を割って怒られた時、岩瀬くんが『俺が割った』って先生に嘘をついて庇ってくれたこと、覚えてる?」
香代子が、探りを入れるように静かな声でカマをかけた。
友之はそれを聞いて、鼻でふっと笑った。
「は? 何言ってんだ。香水瓶なんか割ってねえだろ。あんたが割ったのは、理科室のビーカーだ。しかも俺は庇うどころか、真っ先に先生に言いつけに行って、後であんたにボコボコにされたんだぞ。あの時は本気で痛かったんだからな」
香代子は大きく息を呑んだ。
それは、当事者である二人にしか絶対に知り得ない、些細で、しかし確固たる過去の記憶だった。姉である涼子が知るはずもない情報だ。涼子は当時すでに中学生であり、小学生の香代子の学校でのトラブルなどいちいち把握していなかったのだから。
「……嘘。じゃあ、本当に中身は岩瀬くんなの……?」
香代子の足からすっと力が抜け、再びパイプ椅子にへたり込んだ。目の前で起きているオカルトじみた現象を、彼女の論理的な思考回路が全力で拒絶していたが、突きつけられた事実はあまりにも明白だった。姉の肉体から、間違いなく初恋の相手であった少年の記憶を持った男の声が発せられているのだ。
「だから最初からそう言ってんだろ。信じられない気持ちは分かるが、俺だってパニックになりそうなんだよ。……なあ、内海。一つ教えてくれ。今日は何年の何月何日だ? 俺は、どうしてこんな河崎の病院のベッドで、しかもあんたの姉貴の体の中で目を覚ましてるんだ?」
友之の真剣で切迫した問いかけに、香代子は戸惑いながらも答えた。
「今日は……七月の、二十日よ。お姉ちゃんがアパートの台所で夕食の片付けをしている時に急に倒れて、救急車で運ばれたの。ついさっきのことよ」
「七月の二十日……? 待て、おかしいぞ。俺の記憶の最後は、自分のアパートのベッドで寝ていたはずだ。風邪気味で、ひどい熱があって……」
友之は眉間に深い皺を寄せ、涼子の細い指で自分のこめかみを強く押さえた。途切れた記憶の糸を必死に手繰り寄せようとしているようだったが、その表情は次第に険しいものになっていった。
「それからどうなった? 俺は、なんで自分の記憶が途切れてるんだ……?」
友之のくぐもった呟きは、病室の冷たい空気に重く沈み込んだ。
天井付近からそのやり取りを見下ろしていた涼子は、自分自身の肉体が、全くの別人の意思によって動かされ、過去の記憶を探っているという異様な光景に、ただただ戦慄するしかなかった。
良亮は香代子の腕の中でしゃくり上げながら、依然として「ママ」を求めて泣き続けている。
肉体と魂が複雑に絡み合う、不可思議で残酷な日常が、ここから静かに、そして確実に始まろうとしていた。それは、三人の運命を根底から覆す、長い長い謎解きの始まりでもあったのだ。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




