見下ろす天井と見知らぬ私 ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
酸素マスクを乱暴にむしり取った「涼子」の右手が、空中で不自然にピタリと止まった。
ベッドの上に身を起こしたその人物は、自分の右手から垂れ下がっている何本もの点滴の管と、手の甲に刺さったままの注射針を、まるで自分のものではない異物でも見るかのように、ひどく怪訝な顔つきで見つめていた。その瞳には、先ほどまでの生死の境を彷徨っていた虚ろな色は微塵もなく、明確な困惑と苛立ちが色濃く浮かんでいた。
「……なんだこれ。点滴? 俺、倒れたのか?」
病室の空気が、文字通り完全に凍りついた。
三十四歳の清楚な女性の口から発せられたその言葉は、声帯こそ越智涼子の少し高めで柔らかな音色であったものの、言葉の選び方、イントネーション、そして何よりそのふてぶてしいまでの態度は、どう贔屓目に見ても成人男性のそれであった。
ベッドの傍らで涙を流していた香代子は、開いた口が塞がらないといった様子で、瞬きすら忘れて「涼子」の顔を凝視している。良亮もまた、大好きな母親が突然発した見知らぬ乱暴な言葉遣いに怯え、無意識のうちに香代子の背中へと小さな体を隠すように後ずさりをした。
天井付近に浮かぶ涼子の魂は、声にならない悲鳴を上げていた。
(ちょっと、あなた誰!? 私の体で、勝手に起き上がらないでよ! 良亮が怖がっているじゃない!)
しかし、その切実な魂の叫びは誰の耳にも届かない。
ベッドの上の「涼子」は、周囲の凍りついた反応などお構いなしに、ズキズキと痛むらしいこめかみを右手で押さえながら、低くくぐもった声で独り言を続けた。
「頭痛え……。それに、なんだか体がやけに軽いというか、力が入らねえな。昨日の夜、アパートで急に息苦しくなって……そこからの記憶が全くねえ。ここはどこだ? 病院の個室か?」
そこで初めて、「涼子」は自分の声の異常な高さに気がついたようだった。喉仏のあたりを左手で何度かさすり、信じられないものを見るような目で自分の両手を顔の前にかざした。
細く、白く、女性特有の滑らかな丸みを帯びた指先。毎日キーボードを叩き、営業の書類を持ち歩いていたはずの自分の少し無骨で節張った手とは、全く違う形状をしていた。
「……は? なんだこの手。俺の手じゃない……。それに、髪が……」
「涼子」は震える手で、肩まで伸びた自分の長い髪に触れた。そして、パジャマ代わりの病院の寝巻きの胸元に視線を落とし、明らかに女性としての膨らみがあることを確認すると、「ヒッ」と短く息を呑んでベッドの端まで後ずさった。
「お、お姉ちゃん……?」
ようやく我に返った香代子が、恐る恐るベッドに近づき、声をかけた。その声は微かに震えている。
「お姉ちゃん、大丈夫? 頭でも打ったの? 自分のこと、分かる?」
その声に反応して、「涼子」は香代子の方を鋭く振り向いた。その見開かれた瞳の中には、明らかな恐怖と混乱が渦巻いていた。
「お姉ちゃん? 誰がお姉ちゃんだ。あんた、誰だ? ここはどこの病院だ。俺は神奈川の箱根に住んでるんだが、もしかして小田原の総合病院にでも運ばれたのか?」
香代子は目を丸くした。
「何を言ってるの、お姉ちゃん。ここは河崎の病院よ! 箱根なんて、ずっと昔に引っ越したじゃない。それに『俺』って……どうしちゃったの? 私よ、妹の香代子よ!」
天井の涼子も激しく同意した。
(そうよ香代子、もっと言ってやって! その人は私じゃないの、得体の知れないおじさんが私の中に入り込んでいるのよ!)
しかし、良亮は母親の様子がおかしいことなどまだ十分に理解できず、ただ「ママが目を覚ました」という事実だけにすがりつくようにして、ベッドの柵にしがみついた。
「ママ……! よかった、ママ! 僕のこと置いていかないって約束したもんね!」
良亮は泣きじゃくりながら、「涼子」の腕に小さな両手を回して顔を埋めた。
その瞬間、「涼子」はビクッと肩を震わせ、まるで火にでも触れたかのように慌てて良亮の体を軽く突き飛ばしてしまった。
「うおっ!? ちょ、ちょっと待て坊主! 誰がママだ! 離れろ、俺は男だぞ!」
突き飛ばされた良亮は、床に尻餅をつき、信じられないものを見るような目で母親を見上げた。その目から、再びポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。
「ママ……? どうして……」
「お姉ちゃん!」
香代子が激怒して良亮を抱き起こし、ベッドの上の「涼子」を強烈な目つきで睨みつけた。
「ちょっと、いくら混乱してるからって良亮くんに何てことするの! この子は今日、お姉ちゃんが倒れてからずっと泣き通しで心配してたのよ! ふざけるのもいい加減にして!」
香代子の剣幕に押され、「涼子」はベッドの上で両手を小さく前に出し、必死に弁明しようとした。
「違う、ふざけてなんかない! 俺は本当にあんたたちのことなんか知らないんだ! 坊主のことも、あんたのことも、見たこともない! 頼む、鏡……鏡はないか!? スマホでもいい、俺の顔を見せてくれ!」
そのあまりにも切迫した狂気じみた様子に、香代子はただならぬ異常事態を感じ取ったのか、渋々といった様子で自分のハンドバッグからスマートフォンを取り出し、インカメラを起動して「涼子」の顔の前に突き出した。
「ほら、見てみなさいよ。自分の顔でしょうが!」
スマートフォンの液晶画面に映し出されたのは、血の気こそ引いているものの、端正な顔立ちをした三十四歳の女性の顔だった。
「涼子」は、その画面に映る自分の顔を食い入るように見つめ、大きく口を開けたり、目を瞬きさせたりした。画面の中の女性も、全く同じ動きをする。
「……嘘だろ」
「涼子」の口から、乾いた絶望の音色が漏れた。
「誰だ、この女……。俺じゃない。俺の顔じゃない! 俺はこんな女じゃない!」
「涼子」は頭を抱え、ベッドの上でパニックを起こしたように身悶えを始めた。繋がれていた点滴の管が引っ張られ、心電図のモニターが再びけたたましいアラーム音を鳴らし始める。
「落ち着いて、お姉ちゃん! 先生、誰か来てください!」
香代子がナースコールを連打しながら叫んだ。
天井付近に浮かぶ涼子の魂は、自分の肉体が全くの別人に乗っ取られ、醜く取り乱している姿を見下ろしながら、ただただ泣き叫ぶことしかできなかった。
(やめて! 私の体を傷つけないで! お願い、誰か助けて!)
病室の騒ぎを聞きつけ、当直の医師と数名の看護師が慌ただしく駆け込んできた。
「どうしました! 越智さん、意識が戻ったんですね。落ち着いてください、今脈を診ますから」
医師がなだめるように近づくが、「涼子」は獣のように威嚇してそれを払いのけた。
「触るな! 越智って誰だ! 俺は越智なんかじゃない!」
「越智涼子さん、あなたはご自宅で倒れて救急搬送されたんですよ。ご自分の名前が言えますか?」
医師の冷静な問いかけに対し、「涼子」は肩で荒く息をしながら、ベッドのシーツを強く握りしめ、血を吐くような声で叫んだ。
「違う! 俺の名前は越智なんかじゃない! 俺は岩瀬だ! 製薬会社で営業をやっている、岩瀬友之だ!」
その名前が病室に響き渡った瞬間。
香代子の動きが、まるでビデオの映像が一時停止したかのようにピタリと止まった。
ナースコールのボタンを握りしめていた彼女の手から力が抜け、カチャリと小さな音を立ててボタンが床に落ちる。
香代子は、幽鬼でも見るかのような信じられないものを見る目で、ベッドの上の「涼子」を凝視した。
「……え?」
香代子の口から、間抜けな音が漏れた。
「今……なんて言ったの? 岩瀬……友之?」
「そうだ! 岩瀬友之だ。今年で三十二歳になる。あんたたちみたいな家族はいないし、こんな女の体になった覚えもない!」
岩瀬友之を名乗るその人物は、半狂乱になりながら自分の素性を並べ立てた。
香代子の顔から、サッと血の気が引いていくのが天井の涼子にもはっきりと分かった。香代子の唇が微かに震え、信じがたい事実を反芻するようにゆっくりと動いた。
「嘘でしょ……。岩瀬、友之くん? 箱根の、昭和小学校で同じクラスだった……あの、岩瀬くん?」
今度は、ベッドの上の「涼子」――岩瀬友之の動きが止まる番だった。
友之は、驚愕に見開かれた目で、目の前に立つショートカットの女性の顔をまじまじと見つめ返した。その瞳の中に、遠い過去の記憶の断片を探し求めるような色が浮かぶ。
「……なんで、俺の出身小学校を知ってるんだ。あんた、まさか……」
「私よ。内海香代子よ! 小学校三年生の時に、親の転勤で河崎に引っ越すまで同じクラスだった……」
香代子の言葉に、友之は息を呑んだ。
三十四歳の姉の体と、三十二歳の妹。そして、妹の小学生時代の同級生である三十二歳の男性の魂。
全く交わるはずのなかった三つの運命の糸が、この河崎の総合病院の無機質な病室で、最悪の形で絡み合った瞬間だった。
天井付近に浮かぶ涼子の魂は、この信じがたい展開にただ呆然とするしかなかった。見知らぬおじさんだと思っていた男は、なんと妹の初恋の相手であり、かつての同級生だったのだ。
しかし、そんな感傷に浸っている余裕はない。現実に自分の肉体は彼に乗っ取られ、良亮は恐怖で泣きじゃくっているのだ。
(どうしてこんなことになったの……。ねえ、私の体から出ていってよ! 私を、良亮の元に返して!)
涼子の声なき絶叫は、再び空しく病室の冷たい空気に溶けて消えていった。肉体と魂の乖離という不可思議な事件は、まだその序章の扉を開けたばかりであった。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




