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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
第一章 肉体と魂の乖離(かいり)

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見下ろす天井と見知らぬ私 ㈠

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

 深い水底から、ゆっくりと水面に向かって浮上していくような、奇妙で緩やかな感覚だった。

 冷たくて暗い無意識の底から引き上げられるにつれ、等間隔で繰り返される無機質な電子音が、次第に鮮明な輪郭を持って耳に届き始めた。

 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。

 それは、心臓の鼓動を規則正しく刻む心電図モニターの音に似ていた。そして微かに鼻を突いてきたのは、ツンとするアルコール消毒液と、何種類もの薬品が混ざり合ったような、病院特有の無機質で冷たい匂いだった。

 涼子は、自分が深い眠りから覚めようとしていることを自覚した。

 しかし、何かが決定的に違っていた。いつもなら、朝目覚める時には、連日の過酷な訪問介護の肉体労働による肩や腰のひどい重だるさや、掛け布団の温もり、そして自分の体重が敷き布団に沈み込む確かな重力の感覚があるはずだった。だが今の涼子には、そういった「肉体」を感じさせる物理的な重さが一切存在しなかった。まるで、水風船の中に閉じ込められた空気が、ふわりと上へ上へと際限なく昇っていくような、圧倒的な軽さと浮遊感だけがそこにあった。


「ここは……どこ?」


 声に出して尋ねたつもりだったが、自分の耳には何の音も届かなかった。声帯が振動する感覚も、唇が動く感覚もない。

 涼子はゆっくりと目を開けた。

 最初に視界に飛び込んできたのは、無数の小さな穴が規則正しく並んだ、真っ白な天井の吸音ボードだった。等間隔に配置された長方形の蛍光灯が、チカチカと眩しいほどの白い光を放っている。

 ただ、その天井との距離が異常だった。

 手を伸ばせば、いや、手を伸ばさなくても鼻先が触れてしまいそうなほど、天井が目の前に迫っているのだ。逆に、床はずっと下の方にある。空調の吹き出し口から流れてくる冷気が、すぐ隣を通り過ぎていくのが分かった。


「どういうこと……? 私、宙に浮いてるの?」


 涼子は混乱する思考を必死に落ち着かせながら、ゆっくりと視線を下へと向けた。

 そこには、信じがたい光景が広がっていた。

 白を基調とした殺風景な個室の病室。部屋の中央には、転落防止用の金属製の柵が取り付けられたパイプベッドが置かれている。ベッドの脇には、透明な液体の入った点滴のパックが吊された金属製のスタンドや、緑色の波形を映し出す心電図モニターなどの医療機器がひしめき合っていた。

 そして、そのベッドの上には、真っ白なシーツに胸まで包まれた一人の女性が、死んだように静かに横たわっていた。

 顔には透明な酸素マスクがぴったりと取り付けられ、細い腕には何本もの点滴の管が医療用のテープで痛々しく固定されている。顔面は(ろう)細工のように血の気が引いて蒼白であり、目は固く閉ざされたままだ。

 涼子は、その女性の顔を見て息を呑んだ。

 見間違えるはずがなかった。丁寧に結い上げられていたはずの髪は乱れ、酸素マスクの下から覗く少し高めの鼻梁(びりょう)、そして日々の疲労が色濃く刻まれた目元の形。

 それは、他でもない越智涼子自身だった。


「うそ……。あれが、私? じゃあ、今あそこから自分を見下ろしている私は、一体何なの?」


 涼子はパニックになりかけながら、自分自身の姿を確認しようとした。しかし、視線を自分の手足に向けようとしても、そこには確固たる実体が存在しなかった。まるですりガラス越しに見る景色のようにもやもやと透き通った、淡い光の輪郭のようなものが漂っているだけだった。

 幽体離脱。

 テレビのオカルト番組や、雑誌の体験談などで聞いたことのあるその非現実的な言葉が、涼子の脳裏に閃光(せんこう)のように走った。

 自宅のアパートの台所で、夕食の片付けをしている最中に突然激しいめまいと吐き気に襲われ、意識を失って倒れた。そこまでの記憶は確かにある。つまり、自分は救急車でこの病院に運ばれ、そして今、魂だけが肉体から完全に分離してしまっている状態なのだ。

 涼子が極度の恐怖と混乱に打ち震えていると、病室のドアが静かに開き、二人の人物が足早に入ってきた。

 妹の内海香代子と、息子の良亮だった。

 香代子の顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れており、いつもは勝ち気で力強い彼女の面影はどこにもなかった。彼女はよろめくような足取りでベッドに駆け寄ると、パイプ椅子に崩れ落ちるように座り込み、横たわる「涼子」の冷たい右手を両手で包み込むようにして固く握りしめた。


「お姉ちゃん……! お願い、目を覚ましてよ。急に倒れたりして、嘘でしょ……?」


 香代子の悲痛な叫び声が、静まり返った病室に響き渡った。

 その後ろから、良亮が小さな体をガタガタと震わせながらベッドの柵にしがみついた。彼の顔は恐怖で真っ青に引き()っており、大きな瞳からは大粒の涙が次から次へと溢れ落ちて、真っ白なシーツにいくつもの黒い染みを作っている。


「ママ……! 僕、いい子にするから……。お片付けもちゃんとするし、宿題も言われる前にやるから……! だから、死んじゃ嫌だ! パパみたいに、僕を置いてどこかに行かないでよぉっ!」


 良亮のしゃくり上げるような、魂を絞り出すような泣き声が、涼子の心を激しく揺さぶった。

 父親の失踪という深い心の傷を抱えた八歳の少年に、さらにたった一人の肉親である母親まで失うかもしれないという絶望を味わわせている。その冷酷な事実が、涼子の胸を鋭利なナイフで何度も抉るように痛めつけた。


「香代子! 良亮! 私はここよ! 死んでなんかない、ここにいるわ!」


 涼子は宙から必死に叫んだ。しかし、彼女の声は空気の振動を生み出すことはなく、完全な無音のまま病室の空間に吸い込まれて消えた。誰も、天井付近に浮かぶ涼子の存在に気づく気配はない。香代子も良亮も、ただ横たわる抜け殻のような肉体に向かって泣き叫んでいるだけだ。

 涼子は居ても立っても居られず、見えない手足をばたつかせるようにして、良亮のもとへと向かって空中を泳いだ。


「良亮、泣かないで! ママはここにいるから!」


 そう叫びながら、良亮の震える小さな肩を強く抱きしめようと腕を回した。

 しかし、涼子の腕は良亮の体をすり抜け、空を切るだけだった。何の温もりも、何の感触もない。実体のない魂は、物理的な世界に干渉することが一切できないのだ。


「どうして……! どうして触れないの!」


 涼子は深い絶望感に苛まれながら、今度はベッドに横たわる自分自身の肉体に向かって一直線に飛び込んだ。

 肉体に戻ればいい。あの体の中に戻って、重いまぶたを開ければ、また良亮を抱きしめることができる。香代子に感謝を伝えることができる。

 しかし、魂が肉体に触れようとした瞬間、目に見えない強靭(きょうじん)なゴムの壁のようなものに激しく弾き返されてしまった。何度も何度も、肉体に重なろうと突撃を繰り返すが、まるで強力な磁石の同極同士が反発し合うように、魂はどうしても肉体の中へ入り込むことができない。

 拒絶されている。自分の体であり、三十四年もの間共に生きてきたはずの器なのに、中に入ることができないのだ。


「嘘でしょ……? 私、本当に死んでしまったの? 伸司さんの死亡届を出したその日に、私もこの世から消えてしまうというの!?」


 そんな残酷な運命を、涼子は到底受け入れることができなかった。

 良亮を一人残して()くことなど、絶対にできない。この子はまだ八歳なのだ。これからたくさんのことを学び、友達を作り、恋をして、大人になっていく。その成長を一番近くで見守り、喜びを分かち合うことが、母親である自分のたった一つの生きがいだったのだ。

 涼子が涙を流すことすらできない魂の状態で絶望の淵に沈んでいた、その時だった。

 等間隔で鳴り続けていた心電図のモニターの音が、突如として不規則なリズムを刻み始めた。

 ピッ、ピッ、ピピッ、ピピピピッ!

 モニターの緑色の波形が激しく上下に揺れ動く。

 それに呼応するように、ベッドの上で死んだように横たわっていた涼子の肉体が、ビクッと大きく跳ねた。


「先生! お姉ちゃんの指が……お姉ちゃんが動きました!」


 香代子が弾かれたように立ち上がり、病室の外のナースステーションに向かって叫んだ。

 良亮も、涙で顔を濡らしたまま、息を呑んでベッドの上の母親を食い入るように見つめている。

 天井付近に浮かんだままの涼子は、その光景を見て心から安堵の息を漏らした。


「ああ、よかった……! 私、目を覚ますのね。きっと、この魂もすぐに体の中に引っ張られて……」


 肉体が覚醒すれば、一時的に離れ離れになっていた魂も自然と元のあるべき場所へと収束していくはずだ。涼子はそう信じて、自分の肉体がゆっくりと目を開く瞬間を、祈るような気持ちで見下ろしていた。

 酸素マスクの下で、微かに唇が動いた。

 そして、固く閉ざされていたまぶたが、ゆっくりと、本当にゆっくりと持ち上がったのだ。

 しかし、その目を見開いた自分の顔を見た瞬間、涼子は言葉を失った。

 何か、決定的な違和感があった。

 焦点の合っていない虚ろな瞳は、次第に明確な意志を持って光を宿し始めたが、その視線の動かし方が、明らかに涼子自身の癖とは異なっていたのだ。

 ベッドの上の「涼子」は、自分が置かれている状況を瞬時に把握しようとするかのように、鋭く、そして油断のない目つきでギョロギョロと病室内を見回した。その瞳の奥にあるのは、息子の無事を確認しようとする母親としての温もりや、死の淵から生還した安堵ではない。もっと男性的で、警戒心に満ちた強い光だった。

 さらに、「涼子」は口元を覆う酸素マスクを鬱陶(うっとう)しそうに眉間に深い(しわ)を寄せて(にら)みつけると、まだ点滴の管が何本も繋がっている右手を乱暴に持ち上げたのだ。

 それは、三十四歳の清楚で物静かな母親の所作とは到底思えない、粗野で乱暴な動きだった。


「待って……。あれは、誰?」


 天井付近に浮かぶ涼子の魂は、自分が目を覚ましたのではないという恐ろしい事実に直面し、全身が凍りつくような戦慄(せんりつ)を覚えた。

 自分の肉体の中で目を覚ましたあの存在は、一体何者なのか。

 信じがたいボディスワップの不可思議な現象が、今まさに、この静かな病室の中で完全な形となって幕を開けようとしていた。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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