法という名の終止符 ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
河崎の街が、夕日に照らされて毒々しいほどの茜色に染まり始めていた。工業地帯に立ち並ぶ無数の煙突から吐き出される煙が、赤い夕日を遮るように長く伸び、街全体に巨大な影を落としている。昼間の熱気をたっぷりと吸い込んだアスファルトからは、蜃気楼のような揺らめきとともに重苦しい空気が立ち上っていた。
午後六時。コーポ昭和の二〇一号室には、玉ねぎを炒める甘い匂いと、肉が焼ける香ばしい匂いが充満していた。涼子はエプロンを身につけ、ガスコンロの前に立ってフライパンを振るっていた。今日の夕食は、良亮が一番好きな特大の煮込みハンバーグである。市役所での重い手続きを終え、一度アパートに戻ってから近くのスーパーへ買い出しに出かけたのだ。肉厚のハンバーグが、デミグラスソースの中でグツグツと音を立てて美味しそうに煮込まれている。
涼子は菜箸でハンバーグの煮え具合を確認しながら、ふと窓の外を見た。遠くでカラスが鳴いている。七年間の長きにわたる「待つ」という行為に法的な終止符を打った今日という日は、もっと劇的な感情の波が押し寄せてくるものだと想像していた。しかし、実際に彼女の心を支配しているのは、奇妙なほどの静寂と、手足の先から少しずつ熱が奪われていくような得体の知れない疲労感だった。
「お姉ちゃん、入るよー!」
玄関のドアが勢いよく開き、明るく快活な声が室内に響き渡った。バタバタという足音とともにダイニングキッチンに姿を現したのは、涼子の二つ年下の妹、内海香代子だった。活発で勝ち気な性格の彼女は、仕事着のスーツのジャケットを片手に持ち、ショートカットの髪を少し乱しながら笑顔を向けてきた。
「香代子、いらっしゃい。仕事終わりにわざわざごめんね。疲れてるでしょう」
涼子が火を止めて振り返ると、香代子は大きく首を横に振った。
「全然疲れてないよ!今日はお姉ちゃんが大変な日だって分かってたから、定時でダッシュで上がってきたんだから。……市役所の手続き、無事に終わった?」
香代子の声のトーンが、最後だけ少し低く、慎重なものになった。涼子はかすかに微笑み、静かに頷いた。
「ええ、終わったわ。これで、本当に全部終わったの。伸司さんは……法的に死亡したことになった」
その言葉を口にした瞬間、涼子の胸の奥がチクリと痛んだが、声が震えることはなかった。香代子は涼子の顔をじっと見つめ、それから優しく、しかし力強く涼子の肩を抱きしめた。
「そっか……。お疲れ様、お姉ちゃん。一人で、よく頑張ったね。本当に、よく耐えたよ。これからは良亮くんと三人で、もっといっぱい楽しいことしようね」
「ありがとう、香代子。あなたがいてくれて、本当に助かったわ」
姉妹が言葉を交わしていると、「ただいま!」という元気な声とともに、良亮が玄関から駆け込んできた。ランドセルを下ろすなり、台所から漂う匂いに鼻をヒクヒクさせている。
「うわあ、すっごくいい匂い!もしかして、今日の夜ご飯はハンバーグ?」
「ええ、そうよ。良亮の好きな特大ハンバーグ。香代子おばちゃんも一緒に食べるから、急いで手洗いとうがいをしてきなさい」
「やったー!すぐ洗ってくる!」
良亮の無邪気な笑顔を見ると、涼子の心にまとわりついていた重い疲労感が少しだけ軽くなるような気がした。この子の笑顔を守るためなら、どんな苦労でも乗り越えられる。そう強く自分に言い聞かせる。
三人で囲む食卓は、いつも以上に賑やかで温かいものとなった。香代子が職場で起きたおかしな失敗談を身振り手振りで大げさに語り、良亮がそれに大人びた的確なツッコミを入れる。そのやり取りがおかしくて、涼子も何度も声を上げて笑った。デミグラスソースがたっぷりとかかったハンバーグは絶品で、良亮は口の周りをソースで汚しながら「今までで一番美味しい!」とおかわりを要求した。
和やかな夕食の時間。しかし、涼子はその最中から、自分の体に微かな異変が起きているのを感じていた。
食べ物を飲み込むたびに、喉の奥がひどくつかえるような感覚がある。手足の指先が妙に冷たく、まるで血が通っていないかのように痺れていた。頭の芯がぼんやりと霞み、香代子と良亮の笑い声が、水の中に潜って聞いているかのように遠く、くぐもって聞こえるのだ。
(おかしいわね……。少し、疲れが出たのかしら。今日はいろいろなことがありすぎたから……)
涼子は自分の体調不良を悟られないよう、必死に平静を装いながら箸を進めた。良亮の父親の死が法的に確定したその日に、母親である自分が倒れるわけにはいかない。強い意志で体をつなぎ止めようとした。
やがて食事が終わり、良亮は居間でテレビのアニメ番組に夢中になり、香代子は「私が洗うよ」と申し出てくれたが、涼子はそれを制した。
「いいのよ、香代子は良亮の相手をしてあげて。お皿洗いなんてすぐ終わるから」
涼子は空になった食器を重ねてシンクに運び、水道の蛇口をひねった。勢いよく流れ出す水が、白い陶器の皿に当たって跳ね返る。スポンジに洗剤をつけ、無心で皿を洗い始めた。
その時だった。
突然、目の前がぐにゃりと歪んだ。
天井の蛍光灯の光が異常に眩しく感じられ、視界の端がチカチカと白く点滅を始める。同時に、キーンという金属を引っ掻いたような高い耳鳴りが頭蓋骨の内側で反響し、強烈な吐き気が胃の底から込み上げてきた。
(え……?何これ……)
涼子はシンクの縁を左手で強く掴み、体を支えようとした。しかし、手に全く力が入らない。自分の腕が、まるで他人の腕になってしまったかのように感覚がないのだ。呼吸が浅くなり、空気を吸い込んでも肺に酸素が届いていないような恐ろしい息苦しさが襲ってくる。
右手に持っていた平皿が、力なく指の間から滑り落ちた。
ガチャン!
陶器がシンクに叩きつけられ、粉々に砕け散る甲高い音が狭い台所に響き渡った。
「お姉ちゃん?どうしたの、お皿割った?」
背後から香代子の声が聞こえた。しかし、涼子はそれに答えることができなかった。声を出そうとしても、喉が痙攣してひゅーっというかすれた息が漏れるだけだ。
視界が急速に暗転していく。足の裏から床の感触が完全に消え去り、底なしの暗闇へと真っ逆さまに引きずり込まれるような感覚。
(良亮……)
最後に心の中で息子の名前を呼んだ瞬間、涼子の意識は完全に途絶え、その体は糸の切れた操り人形のように床に向かって崩れ落ちた。
ドスン、という鈍い音が響く。
「お姉ちゃん!?」
香代子の悲鳴のような声が上がった。居間から良亮が慌てて駆けつけてくる。
床に倒れ伏した涼子の顔は、蝋細工のように血の気が引き、唇は紫色に変色していた。目は半開きのままで、ピクリとも動かない。
「お姉ちゃん!しっかりして!ねえ、お姉ちゃん!」
香代子は床に這いつくばり、涼子の肩を激しく揺さぶった。しかし、何の反応もない。涼子の体は異様に冷たく、呼吸も微弱だった。
「ママ!ママ、どうしたの!?目を覚ましてよ!」
良亮が泣き叫びながら、涼子の冷たい手を両手で必死に握りしめた。八歳の少年の顔は恐怖で引き攣り、大粒の涙が次々と溢れ出ている。
「良亮くん、離れて!今すぐ救急車を呼ぶから!」
香代子は震える手でハンドバッグからスマートフォンを取り出し、パニックになりそうな心を必死に抑え込みながら一一九番をプッシュした。
『はい、一一九番です。火事ですか、救急ですか』
「きゅ、救急です!姉が突然倒れて、意識がありません!顔が真っ青で、呼吸もおかしいんです!」
『落ち着いてください。ご住所と、倒れた方の年齢を教えてください』
香代子は上擦った声でアパートの住所と涼子の年齢を伝え、指示に従って気道の確保を試みた。良亮はただ傍らで「ママ、死んじゃ嫌だ、ママ!」と泣きじゃくることしかできない。七年前、父親が突然姿を消したあの恐怖の記憶が、少年の心にフラッシュバックしていた。
数分後。
静まり返った河崎の夜の街に、サイレンのけたたましい音が鳴り響いた。赤色灯の強烈な光が、古びたアパートの窓枠を赤く染め上げながらぐるぐると回転している。
救急隊員たちがストレッチャーを押して階段を駆け上がってくる足音が響く。涼子の体は手際よくストレッチャーに乗せられ、酸素マスクを取り付けられた。
「ご家族の方、お一人同乗できます!」
「私が行きます!良亮くん、おばちゃんと一緒に救急車に乗るよ。大丈夫、ママは絶対に助かるから!」
香代子は泣き震える良亮を抱きかかえ、救急車の後部に乗り込んだ。重いドアが閉まり、再びサイレンが鳴り響く。
夫の死を法的に確定させたその日の夜。越智涼子は、生死の境を彷徨いながら救急車で河崎の総合病院へと搬送されていった。この後、彼女の肉体と魂が引き裂かれ、決して交わるはずのなかった別人の魂が入り込むことなど、今は誰も知る由もない。
赤い回転灯が、夜の工業地帯の闇を切り裂くように走り去っていく。不可思議な運命の歯車が、ついに大きな音を立てて回り始めていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




