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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
序章 消えた背中とセピア色の日常

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3/52

法という名の終止符 ㈠

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

 灰色の雲が低く垂れ込め、肌にまとわりつくような湿気が街全体を覆っていた。本格的な夏の到来を予感させる蒸し暑い風が、河崎市特有の排気ガスと工場の油の匂いを運んでくる。

 平日の午前十時。普段であれば、涼子は訪問介護の電動アシスト自転車を立ち漕ぎし、汗だくになりながら利用者宅から利用者宅へと走り回っている時間帯である。しかし、今日ばかりは特別だった。彼女は職場に無理を言って有給休暇を取得し、いつも着ている動きやすいポロシャツとチノパンの代わりに、クローゼットの奥から引っ張り出した地味な紺色のスーツに身を包んでいた。化粧も最低限に留め、髪も後ろで固く結び上げている。その出で立ちは、まるで喪服のようにも見えた。

 涼子の右手には、少し古びた革のハンドバッグがしっかりと握りしめられている。その中には、茶色い角形二号の封筒が入っていた。封筒の中身は、数週間前に家庭裁判所から特別送達で郵送されてきた「失踪宣告の審判書」の謄本と確定証明書、そして、涼子自身が震える手で記入した夫・越智伸司の「死亡届」である。

 普通失踪。

 それは、生死不明の状態が七年間継続した場合に、家庭裁判所の審判によって法的にその人物を死亡したものとみなす制度である。七年前の夏、箱根の公時神社へと向かったきり帰ってこなかった伸司は、警察の懸命な捜索にもかかわらず、ついに見つかることはなかった。年月が流れ、良亮が成長していく一方で、伸司の時間は七年前のあの日のまま完全に凍りついていた。

 涼子が家庭裁判所に失踪宣告の申し立てを行ったのは、伸司が行方不明になってからちょうど七年が経過した直後のことだった。手続きは決して簡単なものではなかった。家庭裁判所の調査官による面談が行われ、当時の状況やこれまでの生活について事細かに聴取された。その後、官報や裁判所の掲示板で「行方不明者に関する情報提供」を呼びかける公示催告が六ヶ月間行われた。その間、涼子は心のどこかで「誰かが伸司の居場所を知っているかもしれない」「本人が名乗り出てくるかもしれない」という、わずかな希望と恐れが入り混じったような感情を抱き続けていた。

 しかし、奇跡は起きなかった。六ヶ月の期間が満了しても、伸司の消息に関する情報は一切寄せられなかった。そしてついに、家庭裁判所は伸司に対する失踪宣告を下したのである。

 今日、涼子が向かっているのは河崎市役所の戸籍住民課だった。家庭裁判所の審判が確定したからといって、自動的に戸籍が書き換えられるわけではない。申立人である涼子が、審判確定から十日以内に市区町村の役場へ赴き、死亡届とともに必要書類を提出して初めて、伸司は戸籍の上でも正式に「死亡した者」として扱われることになるのだ。

 市役所へ向かうバスの窓から、見慣れた河崎の街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。

 シャッターの閉まった商店街、ひび割れたアスファルト、無機質な鉄筋コンクリートのマンション群。この街の景色は、七年前と大きく変わっていないようでいて、少しずつ確実に古びていっている。涼子自身の心も同じだった。七年間、一人で良亮を育て上げるために必死に働き、泣く暇すら惜しんで前だけを見て進んできた。だが、その足元には常に伸司という巨大な「空洞」がぽっかりと口を開けていた。

 良亮が保育園に通っていた頃、周りの友達が父親とお遊戯会で遊ぶ姿を見て、「僕のパパはどこにいるの?」と無邪気に尋ねてきたことがあった。その時、涼子は言葉に詰まり、ただ良亮をきつく抱きしめることしかできなかった。「パパはお仕事で遠くに行っているのよ」という苦し紛れの嘘は、良亮が成長するにつれて通用しなくなっていった。賢い良亮は、いつしか父親について自分から尋ねることをしなくなった。母親を悲しませまいとする、その幼い気遣いが、涼子にとっては刃物のように鋭く胸に突き刺さった。

 だからこそ、区切りをつけなければならなかったのだ。いつまでも「行方不明」という宙ぶらりんの状態で、良亮の未来に影を落とすわけにはいかない。伸司の死を法的に確定させることで、初めて自分たちは本当の意味で「過去」を乗り越え、「未来」へと歩き出すことができるのだと、涼子は自分自身に何度も言い聞かせてきた。

 バスが市役所前の停留所に到着し、涼子は重い腰を上げて降車口へと向かった。

 河崎市役所の庁舎は、昭和の時代に建てられた古く巨大な建造物である。くすんだ灰色の外壁と、威圧感のある正面玄関。自動ドアを抜けると、冷房の効きすぎた冷たい空気が全身を包み込んだ。フロアには大勢の市民が溢れ、番号を呼び出す機械的な電子音や、プリンターの稼働音、人々のざわめきが巨大なドームの中で反響しているように聞こえた。

 涼子は案内板に従って戸籍住民課の窓口へと進み、発券機から番号札を受け取った。待合席の硬いプラスチックの椅子に腰を下ろし、自分の番号が呼ばれるのを待つ。隣に座っている老夫婦は和やかに談笑しており、向かいの席では若い母親がぐずる赤ん坊をあやしている。ここには、出生、婚姻、離婚、死亡といった、人々の人生のあらゆる節目が紙切れ一枚の手続きとして集約されている。その日常的で事務的な空間の中で、涼子だけが目に見えない重い十字架を背負わされているような孤立感を覚えていた。

 バッグの中の封筒が、まるで焼けた鉄のように熱を帯びている錯覚に陥る。

 本当に、これでいいのだろうか。

 これを提出してしまえば、伸司は本当にこの世から消え去ってしまう。もしも、万が一、伸司がどこかで生きていて、ひょっこりと帰ってきたらどうなるのだろう。戸籍上「死者」となっている彼を、自分はどのような顔で迎え入れればいいのか。そんなあり得ない妄想が、涼子の脳裏を幾度もよぎっては消えた。


「番号札、二五六番でお待ちのお客様。五番窓口までお越しください」


 無機質な自動音声が、涼子を現実に引き戻した。自分の手元の番号札を確認する。間違いない、二五六番だ。

 涼子は深く息を吸い込み、立ち上がった。足が震えているのを感じたが、奥歯を強く噛み締めて一歩を踏み出す。五番窓口には、真面目そうな銀縁眼鏡をかけた中年の男性職員が座っていた。


「お待たせいたしました。本日はどのようなお手続きでしょうか」


 職員の事務的な問いかけに対し、涼子はバッグから茶色い封筒を取り出し、中身の書類一式をカウンターの上に丁寧に置いた。


「……失踪宣告の審判が確定しましたので、死亡届の提出に参りました」


 涼子の声は、自分でも驚くほど低く、かすれていた。

 職員は表情を変えることなく書類を受け取り、「失踪宣告ですね。確認いたします」とだけ言い、書類の束に素早く目を通し始めた。戸籍謄本、審判書の謄本、確定証明書、そして死亡届。涼子が夜を徹して書き上げ、何度も確認した書類たちだ。

 職員のボールペンが書類の上を滑り、チェックマークがつけられていく。その一つ一つの動きが、涼子にとっては永遠にも等しい時間に感じられた。時計の秒針の音が、耳の奥で異様に大きく響き渡る。

 やがて、職員は書類の確認を終え、顔を上げた。


「書類に不備はございません。こちらで受理いたします。手続きが完了し、戸籍に反映されるまでには数日ほどかかりますが、本日の日付で死亡という形になります。……長期間にわたり、大変なご心労であったことと存じます。お疲れ様でございました」


 職員のその言葉は、マニュアル通りの定型文であったかもしれない。しかし、その声には確かな労りの響きが含まれていた。涼子は、込み上げてくる熱いものを必死にこらえながら、深く頭を下げた。


「……ありがとうございました。よろしくお願いいたします」


 ガチャン、という重く鈍い音が窓口に響いた。職員が死亡届に「受理」の赤いスタンプを押した音だった。

 その瞬間、涼子の体からふっと力が抜けた。七年間、彼女の肩に重くのしかかっていた見えない鎖が、そのスタンプの音とともに断ち切られたような感覚だった。

 終わったのだ。これで本当に、すべてが終わった。

 越智伸司という人間は、法律上、完全にこの世を去った。自分は未亡人となり、良亮は正式に父親を亡くした子供となった。それは残酷な事実であったが、同時に、これ以上「待つ」という苦しみから解放された証しでもあった。

 涼子は空になった茶色い封筒をバッグにしまい、窓口を後にした。足取りは、庁舎に入ってきた時よりもわずかに軽く感じられた。しかし、心の中の空洞が埋まったわけではない。喪失感という名の冷たい風が、その空洞の中を吹き抜けている。

 市役所の自動ドアを抜け、外に出ると、どんよりと曇っていた空の切れ間から、眩しい夏の日差しがアスファルトに照りつけていた。ジリジリと肌を焼くようなその暑さは、七年前のあの日、伸司を見送った日の情景を否応なしに思い起こさせた。


「あなた……。これでよかったのよね。私たち、ちゃんと前を向いて生きていくから。良亮のことは、絶対に立派に育て上げてみせるから……」


 涼子は空を見上げ、誰にともなく小さく呟いた。頬を伝う一筋の涙を、手で乱暴に拭い去る。

 時計を見ると、時刻はまだ十一時を過ぎたばかりだった。良亮が小学校から帰ってくるまでには、まだ十分に時間がある。夕食は、良亮の好きなハンバーグにしよう。そして、妹の香代子も呼んで、三人で少しだけ豪華な食卓を囲もう。それが、新しい人生の第一歩を踏み出すための、ささやかなお祝いであり、伸司への別れの儀式になるはずだった。

 涼子は、眩しい日差しに向かって、しっかりと前を見据えて歩き出した。この日を境に、涼子の身に想像を絶する不可思議な出来事が降りかかり、その肉体と魂が引き裂かれることになるとは、当然のことながら知る由もなかった。

 河崎の街は、何事もなかったかのように、今日もまた無機質な機械音を響かせながら呼吸を続けていた。地下深くで眠る「青き龍の設計図」の封印が、ゆっくりと解かれようとしていることも知らずに。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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