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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
序章 消えた背中とセピア色の日常

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欠けたパズルのピース ㈡

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

「行ってきます!」という元気のいい声とともに、少し大きめのランドセルを背負った良亮が玄関を飛び出していく。その小さな背中が階段を下りて見えなくなるまで見送り、ドアを閉めて一人きりになった部屋で、涼子は壁にもたれかかりながらゆっくりと、長く重い息を吐き出した。シンと静まり返った部屋の中には、冷蔵庫のモーター音だけが微かに響いている。

 ふと視線を上げると、壁に掛けられた地元信用金庫でもらったカレンダーが目に入った。そこには、涼子の几帳面な字で幾つかの予定が赤いボールペンで書き込まれている。「鈴木様宅訪問」「良亮授業参観」「家賃振り込み」といった日常の予定に混じって、数日後に迫ったある特定の日付にだけ、赤い二重丸がつけられていた。その印を見るたびに、涼子の胸の奥がチクリと痛む。それは、長い間先延ばしにしてきた、ある法的な手続きの期限を示すものだった。

 部屋の隅に置かれた小さな三段のカラーボックスの上には、仏壇の代わりとして、小さな写真立てとお線香立てがぽつんと飾られている。その写真立ての中で微笑んでいるのは、大きな登山用のバックパックを背負い、青々とした箱根の山を背景にして屈託のない無邪気な笑顔を向ける一人の男性だった。越智伸司(しんじ)。涼子が心から愛した夫であり、良亮のたった一人の父親である。年齢は四十歳。設計士として建築事務所に勤めていた彼は、家族思いで一途で、そして何よりも山を愛する穏やかな人だった。

 涼子は写真立ての前に崩れ落ちるように座り込み、そっと写真の冷たいガラス面を指先でなぞった。


「あなた……。とうとう、この日が来ちゃうね。私、どうしたらいいのかな」


 誰に聞かれるわけでもない独り言としてこぼれ落ちたその言葉は、誰の耳にも届くことなく、静寂に包まれた部屋の空気の中に虚しく溶けて消えていった。

 今からちょうど七年前、真夏の太陽が照りつける暑い季節のことだった。良亮が産まれてようやく一歳になり、よちよち歩きを始めようとしていた頃である。設計士として複数のプロジェクトを抱え、連日深夜まで図面を引き続ける多忙な日々を送っていた伸司は、珍しく取れた休日に、「産まれたばかりの良亮がこれからも健康に育ってくれるように、ちょっと祈願してくるよ」と言い残し、一人で日帰り登山の準備をして箱根の公時きんとき神社へと向かった。

 公時神社は、神奈川県の仙石原にあり、昔話の金太郎伝説で有名な坂田公時が(まつ)られている由緒ある神社だ。古くから登山者の安全と、子どもたちの健やかな成長を祈願する参拝者が数多く訪れるパワースポットとして知られている。家族を誰よりも大切にしていた伸司らしい、思いやりに満ちた優しい行動だった。涼子も「気をつけてね、早く帰ってきて良亮をお風呂に入れてあげてね」と笑顔で彼を送り出した。

 しかし、玄関で手を振ったその姿が、涼子が伸司を見た最後となってしまったのだ。

 夕方になっても、夜の帳が下りても、伸司はアパートに帰ってこなかった。最初は「登山道が混んでいるのかな」程度に思っていた涼子だったが、夜の九時を過ぎても連絡一つないことに強烈な胸騒ぎを覚え、警察に捜索願を出した。地元の警察や消防団が動員され、箱根の山中を数日間にわたって必死に捜索したが、彼が山に入った痕跡(こんせき)はおろか、遺留品の一つすら見つからなかった。遭難の可能性も考えられたが、公時神社周辺のルートは初心者でも歩ける整備された道であり、ベテランの伸司が迷うとは到底思えなかった。まるで、神隠しにでも遭って異次元に吸い込まれてしまったかのように、越智伸司という人間はこの世界からふっと煙のように姿を消してしまったのだ。

 当初、涼子は事実を受け入れることができず、半狂乱になって夫を探し回った。幼い良亮を背負い、休日ごとに箱根へ足を運んでは登山客に夫の写真を見せて情報提供を求めた。夜の暗闇の中で、良亮の寝顔を見ながら幾度となく涙を枯らし、「どうして私を置いていってしまったの」と声に出して泣き叫んだこともあった。だが、どれだけ待っても、どれだけ神様に祈っても、玄関のドアが開いて「ただいま、遅くなってごめん」と彼が帰ってくることはなかった。時間が経つにつれ、涼子の心の中にあった「いつか帰ってくるかもしれない」という希望の火は、冷たい風に吹かれる蝋燭のように少しずつ弱まっていき、やがて絶対的な諦念へと変わっていった。

 泣いてばかりはいられなかった。目の前には、お腹をすかせて泣く小さな命がある。生きるために、そして良亮を育てるために、涼子は働くしかなかったのだ。悲しみを心の最も深い奥底に重い蓋をして封じ込め、昼夜問わず働きながら猛勉強をして介護士の資格を取得した。良亮に不自由な思いをさせまいと、それこそ身を粉にしてがむしゃらに生きてきた。そんな気丈に振る舞う彼女を精神的にも物理的にも支えてくれたのは、二つ年下で活発で勝ち気な妹、内海香代子(かよこ)の存在だった。彼女が時折アパートを訪れ、他愛のない冗談を言って笑わせてくれたり、良亮の面倒を見てくれなければ、涼子はとうの昔に心が折れて、暗闇の底に沈んでしまっていたかもしれない。


「良亮はね、あんなに賢くて立派な男の子に育ってるよ。あなたが残してくれた、この世界で一番大切な宝物だけは、私が何に代えても、自分の命を削ってでも絶対に守り抜いてみせるから。だから、どうか空から見守っていてね」


 涼子は写真の伸司に向かって、涙を堪えながら(りん)とした声で語りかけた。

 七年という途方もなく長い歳月は、法律上、一人の人間の「不在」を「死」として扱うのに十分すぎる時間であった。民法が定める「普通失踪」。生死不明となってから七年が経過した日をもって、法的には死亡したものとみなされる冷酷な制度である。涼子はついに、役所に(おもむ)いて伸司の法的な死亡確認の手続きを行う決心をしたのだ。

 それは単なる事務手続きではない。過去の幻影にすがる自分に区切りをつけ、完全に前を向いて歩き出すための、血を吐くような悲しみを伴う儀式でもあった。良亮が小学校に入学し、周囲の家庭との違いや物事がはっきりと分かる年齢になってきた今、いつまでも「お父さんは行方不明」という曖昧で不安定な状態にしておくわけにはいかなかった。父親が不在の理由を、法的な事実として整理し、いつか良亮にきちんと説明しなければならない責任が親としてあるのだ。


「……そろそろ、仕事に行かなくちゃね。今日も一日、頑張ってくるよ」


 涼子は立ち上がり、膝の埃を払ってから、部屋着を脱いで仕事用の紺色のポロシャツと動きやすいチノパンに着替えた。洗面所の鏡の前に立ち、身だしなみを整える。少しだけ疲労の色が見え隠れする青白い頬を両手でパンパンと軽く叩き、気合いを入れる。

 小さな窓から外を見ると、河崎の空は少しどんよりと重い鉛色の雲に覆われていた。遠くに見える工場の煙突からは、白い煙が途切れることなく天に向かって昇り、風に流されていく。この街で、いつ帰るか分からない夫の帰りをただ待つだけの弱々しい妻はもう卒業しなければならない。私は、良亮の母親として強く生きていくのだ。

 涼子は玄関で履き慣れたスニーカーの紐をきつく結び、最後に部屋の中を振り返った。食卓の上に残された、綺麗に洗われて伏せられた二組の食器。その静かな風景を目に焼き付けると、彼女は静かにドアのノブを握った。


「行ってくるね、あなた」


 鍵をかけるカチャリという無機質な音が、古びたアパートの廊下に冷たく響いた。彼女は前を向き、急ぎ足で錆びた鉄階段を下りていった。これから数日のうちに、自分たち親子の平穏な日常を根底から覆し、想像を絶するような不可思議な事件が降りかかろうとしていることなど、この時の涼子は知る由もなかった。

 七年間止まっていた運命の時計の針が、ゆっくりと、しかし確実な音を立てて動き出そうとしていた。パズルの欠けたピースを埋めるための、長く険しい、そして哀しい真実へと続く歯車が、この河崎の街の地下深くで密かに回り始めていたのである。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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