欠けたパズルのピース ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
神奈川県河崎市昭和町五丁目。東京湾から吹き付ける潮風と、沿岸部に立ち並ぶ巨大な工業地帯から漂ってくる微かな鉄の匂いが混ざり合うこの街は、まるで昭和という時代にそのまま取り残されてしまったかのような、独特のノスタルジックな空気を纏っている。
見上げるほど高い近代的なタワーマンションが隣町に建設されていく一方で、この昭和町五丁目周辺だけは時間が止まったかのようだった。赤茶色に錆びついたトタン屋根の小さな町工場が軒を連ね、ひび割れたアスファルトの隙間からは雑草が逞しく顔を出している。商店街には色褪せたプラスチックの看板を掲げる八百屋や鮮魚店が並び、迷路のように入り組んだ細い路地には、人々の生活の息遣いが濃密に染み付いていた。高度経済成長期の熱気と喧騒をそのまま真空パックにして保存したかのようなこの街の片隅に建つ、築四十年を超える古びた木造アパート「コーポ昭和」。その二階の角部屋、201号室が、越智涼子と息子である良亮の、二人だけのささやかな城だった。
朝六時。薄い水色のカーテン越しに、まだ少し白みかけたばかりの朝の光が四畳半のダイニングキッチンに差し込んでくる。天井の隅には小さな雨漏りの染みがあり、歩くたびに床板が微かに軋むような古い部屋だが、涼子の手によって隅々まで清潔に保たれていた。
二口しかない旧式のガスコンロの上では、使い込まれた雪平鍋がコトコトと心地よい音を立てており、昆布と鰹節から丁寧に取られた出汁の香りが部屋全体に優しく広がっていく。部屋の中央に置かれた木製のちゃぶ台の上には、こんがりと焼き色のついた塩鮭、少し甘めに味付けされた卵焼き、そして胡麻和えにされたほうれん草のお浸しが、小気味よく並べられていた。どれも決して高価な食材ではないが、育ち盛りの息子のために栄養バランスを考えて作られた愛情たっぷりの朝食である。
「良亮、朝ごはんできてるよ。早く顔を洗って席についてね」
使い古されたエプロンを身につけた涼子が、キッチンから六畳の和室に向かって優しい微笑みを浮かべて声をかけた。今年で三十四歳になる涼子は、日中の訪問介護士という非常に過酷な体力勝負の仕事をしている。高齢者の入浴介助や車椅子への移乗など、腰や腕に負担のかかる重労働の連続であり、彼女の細い腕には常に湿布の匂いが染み付いていた。
それでも、彼女の物腰の柔らかさと落ち着いた雰囲気は、慌ただしい朝の空気をも穏やかに和ませてくれる不思議な力を持っていた。化粧っ気はほとんどなく、長い髪を後ろで一つに束ねただけの質素な出で立ちだが、丁寧に整えられた目鼻立ちと凛とした佇まいは、彼女が元来持っている芯の強さと気品を静かに物語っている。
「うん、今行くよ。ママ、今日はお味噌汁の匂い、すごくいいね。お腹空いちゃった」
襖の隙間からひょっこりと顔を出したのは、今年で八歳になり、地元の昭和小学校に通う二年生の良亮である。年齢の割にどこか大人びた、落ち着いた目つきをした彼は、寝癖のついた頭を小さな手で掻きながら、洗面所へ向かい、すぐに冷たい水で顔を洗ってちゃぶ台の前にちょこんと座った。良亮は非常に賢く、そして機転が利く少年だった。シングルマザーとして毎日身を粉にして懸命に働く涼子を幼いながらに深く気遣い、自分のことは極力自分でこなすように心がけている。部屋の隅に置かれたランドセルの中身も、昨夜のうちに時間割通りにしっかりと揃えられており、鉛筆もすべて綺麗に削られていた。そのあまりにもませた態度は、時に涼子の胸を「子供らしい我慢をさせてしまっているのではないか」と締め付けることもあったが、同時に彼女がこの過酷な日常を生き抜くための最大の救いであり、心の支えでもあった。
「ふふっ、ありがとう。今日は良亮の好きな、お豆腐とワカメのおみそ汁にしておいたよ。おネギも少しだけ入ってるからね。しっかり食べて、今日も一日学校でお勉強とお友達との遊びを頑張ってね」
涼子は手際よくお椀に湯気を立てるお味噌汁を注ぎ、良亮の前にそっと置いた。二人だけの食卓は、決して裕福とは言えない質素なものだが、そこには何にも代えがたい温かな空気が満ちている。壁際に置かれた小さなブラウン管のテレビからは、朝のニュース番組の女性アナウンサーの無機質な声が流れているが、親子の間にはそれを遮るような、言葉を必要としない穏やかな沈黙が横たわっていた。
良亮は「いただきます」と小さく手を合わせてから、自分専用の少し短めのお箸を器用に使いこなし、まずは卵焼きを口に運んだ。そして、時折ふと顔を上げ、涼子の横顔をじっと見つめた。母の顔には、連日の訪問介護の疲労がうっすらと目の下のクマとなって影を落としていることがある。日中の強い日差しの中を電動アシスト自転車で走り回り、各家庭を訪問して回る苦労は、八歳の子供の想像力を以てしても十分に理解できるものだった。しかし、涼子は決して良亮の前で「疲れた」とか「しんどい」といった弱音を吐くことはなかった。いつも太陽のように明るく、そして力強く彼を包み込んでくれるのだ。
「ママ、今日のお仕事は遅くなるの? 雨が降るかもしれないって、昨日の天気予報で言ってたよ」
良亮が塩鮭を器用にほぐして一口食べ終えてから、不意に思い出したように尋ねた。
「うん、今日はね、少し遠くの利用者さんのお宅まで自転車で行かないといけないから、帰りがいつもより少しだけ遅くなっちゃうかもしれないの。でも、夕食の時間には必ず戻って一緒にご飯を食べるからね。冷蔵庫の二段目に、昨日買ったプリンをおやつに入れてあるから、学校から帰ったら手を洗って食べてね」
「わかった。戸締まりはちゃんとしとくし、宿題も先に終わらせておくから心配しないで。お風呂のスイッチも入れておくね」
八歳の子供とは思えない、あまりにもしっかりとした頼もしい返事に、涼子は嬉しさと、そしてやはり申し訳なさが入り混じったような複雑な笑みを浮かべた。
この河崎という街は、昼間は活気があり人情味に溢れている反面、どこか得体の知れない暗い影が潜んでいるような場所でもあった。日が暮れると、細い路地裏には野良猫が身を潜め、怪しげなネオンが灯り始める。夜になれば遠くから工業地帯の重低音のような機械音が地鳴りのように響いてきて、街全体が巨大な生き物のように呼吸をしているような錯覚を覚える。涼子は、この街の独特の泥臭い雰囲気が決して嫌いではなかったが、まだ幼い我が子を一人で鍵っ子として留守番させることには、常に拭い去ることのできない一抹の不安と罪悪感を抱き続けていた。
「うん、頼りにしてるよ、良亮。……本当に、お父さんに似てすごくしっかりしてるね」
涼子の口から、何の気なしに自然とこぼれ出た「お父さん」という単語。その瞬間、温かかった食卓の空気が、ほんのわずかに、しかし確実にピクリと揺らいだ。良亮は動かしていたお箸をピタリと止め、じっとお味噌汁の水面を見つめたまま押し黙ってしまった。彼にとって父親という存在は、部屋の隅にある写真立ての中でしか見たことのない、実体を伴わないぼんやりとした概念でしかなかった。物心ついた時から、彼の小さな世界には涼子という母親しかいなかったのだ。父親とキャッチボールをした記憶も、肩車をしてもらった記憶もない。
涼子は自分の失言にハッとして息を呑み、血の気が引くのを感じたが、すぐに無理をしてでも優しい微笑みを作り直し、良亮の小さな頭をそっと撫でた。
「ごめんね、朝からなんだか変なこと言っちゃって、しんみりしちゃったね。さあ、お味噌汁が冷めないうちに全部食べちゃおうか。鮭の皮も残さず食べるんだよ」
「うん。……美味しいよ、ママのご飯」
外では、自転車に乗った豆腐屋のプーパーというラッパの音が遠くから響いてきた。昭和町五丁目の朝は、いつもと変わらぬ穏やかで単調なリズムで始まろうとしていた。たった一つ、家族というパズルの欠けたピースがあることを除けば、それはどこにでもある、ごくありふれた幸せな母と子の風景だった。
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