ぎくしゃくした食卓と禁煙宣言 ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
河崎の空に、夏の刺すような日差しが照りつけ始めた七月下旬。コーポ昭和の二〇一号室では、世にも奇妙な共同生活が本格的に幕を開けていた。
涼子が倒れて退院してから数日が経過し、宣言通り香代子が自分のアパートを引き払って越智家に転がり込んできたのだ。涼子の寝室であった奥の六畳間に香代子が寝泊まりし、岩瀬友之――中身がおじさんになってしまった涼子の肉体――は、居間のちゃぶ台を片付けて布団を敷き、そこで寝起きすることになった。良亮はこれまで通り、六畳間の片隅で小さな布団に包まって眠っている。
朝七時。
友之は、顔にバサリと掛かった鬱陶しい感覚で目を覚ました。
(……っつ。なんだこれ、邪魔くせえ)
寝ぼけ眼で顔に掛かったものを払いのけようとして、それが自分の頭から生えている長い髪の毛であることに気づき、友之は朝から深いため息を吐いた。三日経っても、毎朝目が覚めるたびにこの絶望的な現実に直面させられる。自分の胸元にある見慣れぬ柔らかな重み、細く白い腕、そして何より、体を動かすたびに感じる決定的な筋力の不足。三十二歳の健康的な男性の感覚からすると、三十四歳の女性の体はあまりにも軽く、そして頼りなかった。
「おい、いつまで寝てるのよ。さっさと起きて布団畳みなさい!」
台所から、エプロン姿の香代子が容赦のない怒声とともに飛んできた。彼女の手にはフライ返しが握られており、すっかりこの家の司令塔として君臨している。姉の体を気遣うどころか、中身が小学生時代の同級生の男だと分かった途端、香代子の態度は完全に「居候の駄目男」を扱うそれへと変わっていた。
「うるせえな、今起きようと思ってたところだろ。……あー、腰が痛え。この体、明らかに筋肉が足りてねえぞ。毎日こんな細い腕で自転車漕いでたのか、あんたの姉貴は」
友之はのそりのそりと起き上がると、パジャマ代わりの大きなTシャツの裾を無造作にめくり上げ、無防備に腹をボリボリと掻いた。
「ちょっと! お姉ちゃんの体でだらしない格好しないで! 腹を掻くな、おっさん!」
香代子がすかさず駆け寄り、友之の手の甲をピシャリと強く叩いた。
「痛えっ! 仕方ねえだろ、長年の親父の血から来る無意識の癖なんだから!」
「今日からその癖は完全に封印しなさい! 良亮くんの教育に悪いし、何よりお姉ちゃんの尊厳に関わる重大な問題よ!」
二人の朝から騒がしいやり取りを、良亮はすでに着替えを済ませ、ランドセルを背負う準備を整えた状態で、ちゃぶ台の前に座って冷静に眺めていた。八歳の少年は、この異常事態に誰よりも早く適応しようとしているようだった。
「香代子おばちゃん、おじさん、おはよう。朝から元気だね」
良亮の落ち着き払った声に、友之はバツが悪そうに涼子の細い指で頭を掻いた。
「おう、坊主。おはようさん。……というか、俺はお前より二十四歳も年上なんだから、そんな保護者みたいな生温かい目で見ないでくれ」
友之は洗面所へ向かい、鏡に映る端正な涼子の顔に向かって豪快にうがいをした。ガラガラ、ペッという中年男性特有の大きな音を立てるたびに、天井付近に浮かんでいる涼子の魂が声なき悲鳴を上げている。
(いやああああっ! やめて岩瀬くん! 私の顔でそんな下品な音を出さないで! うがいはお上品にっていつも良亮にも教えてるのに!)
涼子は空中で両手で顔を覆い、自分の肉体が急速におじさん化していく悲惨な光景に絶望していた。手を出して止めることができない霊体の無力さが、これほど恨めしい朝はなかった。
朝食の席につくと、香代子が用意した目玉焼きとトースト、そして市販のドレッシングがかけられただけの簡易的なサラダが並べられていた。涼子が毎朝出汁から取って作っていた和食中心の健康的な朝食に比べると少し手抜き感は否めないが、働きながら急遽家事を引き受けた香代子なりに必死に頑張っている証拠だった。
「いただきます」
良亮が小さく手を合わせて上品に食べ始める隣で、友之はちゃぶ台の前で胡座をかき、食パンを片手で乱暴に千切り、口に放り込んだ。
「……なあ、内海。朝から文句言うつもりはねえけどよ、俺は朝はご飯と納豆と、できれば塩気の強い鮭が食いたいんだよ。こういう小洒落たパンは腹の足しにならねえ」
友之がぼやくと、香代子は自分の目玉焼きをフォークで刺しながらピシャリと言い放った。
「文句があるなら自分で作りなさいよ! 私は仕事に行く準備と良亮くんの世話で手一杯なの! それに、お姉ちゃんは朝はいつもパン派だったのよ。体はお姉ちゃんなんだから、お姉ちゃんの胃袋に合わせて大人しくパンを食べなさい!」
「胃袋はそうかもしれないが、味覚は完全に俺のままなんだよ! ……あー、タバコ吸いてえ。食後のコーヒーとタバコがないと一日が始まらねえ」
友之が食卓で伸びをしながら無意識に呟いたその言葉に、香代子と良亮の動きが同時にピタリと止まった。
良亮が、信じられないものを見るような冷ややかな目で友之をじっと見つめる。
「……おじさん、まさかママの体でタバコ吸うつもり?」
その静かだが強烈な非難の響きに、友之は思わずたじろいだ。
「いや、その……俺はヘビースモーカーでさ。病院に運ばれてからもう何日も吸ってないから、そろそろ禁断症状が……」
「絶対にダメ!」
香代子が立ち上がり、机をバンと強く叩いた。
「お姉ちゃんはタバコなんて一度も吸ったことないわよ! 綺麗な肺が真っ黒になったらどうするの! もし一本でも吸ったら、その瞬間にあんたの口にガムテープを何重にも貼り付けてやるからね!」
「ママの体から煙の匂いがしたら、僕、おじさんのこと嫌いになるかもしれない」
良亮の決定的な最後通告に、友之は完全に白旗を揚げた。女性二人の怒りならまだしも、八歳の少年にここまで冷たく言い放たれると、大の大人の男でも反論の余地はなかった。
「わ、分かったよ! 吸わねえよ! 禁煙してやるよ! ……くそっ、なんで俺が他人の健康管理までしなきゃならねえんだ」
友之は項垂れながら、残りのトーストを無言で口に押し込んだ。
ぎくしゃくとした、まるで出来の悪いホームコメディのような親子の風景。だが、そこには確かな悲しみと喪失感が根底に流れている。良亮は「ママ」という言葉を使わず、友之のことを「おじさん」と呼ぶようになっていた。それは、病室で二人で交わした男同士の約束を守るための、幼いなりの防衛本能であり、同時に本当の母親の帰還を信じているからこその区別でもあった。
(良亮……)
天井の涼子は、無理をして大人びた態度をとっている息子の姿を見て、愛おしさと不甲斐なさで胸を締め付けられていた。自分が母親として何もしてやれないもどかしさが、魂の状態でただひたすらに蓄積していく。
「ごちそうさまでした。おばちゃん、僕、学校に行ってくるね」
良亮が食器を流し台に運び、ランドセルを背負って玄関に向かった。香代子が仕事用のスーツのジャケットを羽織りながら「気をつけてね」と見送る。
友之も立ち上がり、女性の重心にまだ慣れないぎこちない足取りで玄関までついていった。
「おう、坊主。……気をつけて行けよ。車とか、変な奴には気をつけるんだぞ」
友之なりの精一杯の気遣いの言葉だったが、良亮は玄関のドアノブに手を掛けたまま、振り返って不思議そうに首を傾げた。
「おじさん。そういう時は『気をつけて』じゃなくて、『いってらっしゃい』って言うんだよ。ママはいつも、笑顔でそう言ってくれたよ」
友之はハッとして、うまく言葉を返せなかった。
女性の体に入り込んだだけで、自分は母親の役割など微塵も果たせていない。良亮が本当に求めているのは、毎朝自分の背中を押してくれる温かい「いってらっしゃい」の言葉なのだ。
「……い、いってらっしゃい」
友之が不格好に絞り出した言葉に、良亮は少しだけ口角を上げ、「いってきます」と短く答えてドアの向こうへと駆け出していった。
閉まったドアを見つめながら、友之は重い溜め息をついた。三十二歳の独身男が、八歳の少年の母親の代わりを務める。そんな不可能に近いミッションが、この河崎の古びたアパートで静かに進行していた。
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