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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
第一章 肉体と魂の乖離(かいり)

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ぎくしゃくした食卓と禁煙宣言 ㈡

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

 午前八時過ぎ。良亮が小学校へ向かった後、香代子も慌ただしく仕事用のスーツに着替え、玄関でパンプスに足を入れていた。


「いい、岩瀬くん。私は夕方まで帰れないから、その間は絶対に外に出ないでよ。お姉ちゃんの顔で変なところをうろつかれたら、ご近所の噂になるんだから!」


 香代子は、肩からバッグを提げながら鋭い目で釘を刺した。


「分かってるって。俺だって、こんな女の姿で外を歩き回る趣味はねえよ」


 友之が居間の真ん中に立ち尽くしたまま気怠げに答えると、香代子は大きなため息をついた。


「それから、家事は最低限やっておいてね。洗濯機を回して干すこと。それと、夕食のカレーの仕込み。冷蔵庫に野菜とお肉が入ってるから、切って炒めて煮込むところまでやっておいて。ルウを入れるのは私が帰ってきてからやるから」


「はあ!? 俺が料理なんかできるわけねえだろ! 男の一人暮らしだぞ、普段はコンビニ弁当かスーパーの惣菜しか食ってねえんだ!」


「甘えないで! お姉ちゃんは毎日夜勤明けでも全部一人でやってたの! 体はお姉ちゃんなんだから、少しは気合いで動かしなさい! じゃあね!」


 香代子は有無を言わさずに玄関のドアをバタンと閉め、足早に階段を下りていってしまった。

 静まり返ったアパートの一室に、一人取り残された岩瀬友之。そして、天井付近にふわりと浮かんだまま、彼の一挙手一投足をハラハラしながら見下ろしている越智涼子の魂。奇妙な密室劇の第二幕が、こうして強制的に開始されたのである。


「……くそっ、内海のやつ、完全に俺を顎で使いやがって。昔からあの強引な性格は変わってねえな」


 友之はぼやきながら、まずは脱衣所へと向かった。プラスチック製の洗濯かごの中には、良亮の脱ぎ捨てたパジャマや体操着、タオルなどが山積みになっている。

 友之はそれを無造作に掴み上げ、全自動洗濯機の層の中へ放り込もうとした。しかし、その手の中に、明らかに良亮のものではない、レースのあしらわれた女性物の下着が混ざっていることに気がついた。


「うおっ!?」


 友之は弾かれたようにそれを放り投げた。顔から火が出るほど熱くなるのを感じる。三十四歳の女性の体に入っているとはいえ、精神は三十二歳の健全な独身男性なのだ。他人の、しかもかつての同級生の姉の生々しい下着を直に触らされるなど、拷問に近い羞恥心(しゅうちしん)であった。


「ムリだムリだ! こんなもん洗えるか! ……いや、でも洗わねえと内海に殺されるしな……」


 友之は目を細め、指先だけでつまむようにして洗濯機の中に放り込んだ。そして、洗剤のボトルを手に取ると、キャップで計量することもなく、ボトルの腹を強く押して適当な量の液体洗剤をドバドバと流し込んだ。さらに、色落ちしやすい赤いタオルと、良亮の真っ白な体操着を全く分別せずに一緒に詰め込み、乱暴にスタートボタンを押した。

 ウィーン、という低いモーター音が鳴り始める。

 その一部始終を天井から見下ろしていた涼子の魂は、絶望のあまり両手で顔を覆っていた。

(ああああっ! 洗剤の量が多すぎるわ! それに、赤いタオルと一緒に洗ったら、良亮の体操着がピンク色に染まっちゃうじゃない! お願い、誰か洗濯機を止めて!)

 涼子の声なき悲鳴は、当然ながら友之の耳には届かない。

 四十分後。

 洗濯機から取り出した衣類を狭いベランダに干しながら、友之は額に滲む汗を手の甲で拭った。七月下旬の太陽は容赦なく照りつけ、照り返しの熱気で息が詰まりそうになる。

 干し上がった良亮の体操着は、涼子の危惧した通り、見事なまでにうっすらとした桜色に染まり上がっていた。しかし、家事の経験が皆無の友之は、その異常事態に全く気がついていなかった。シャツのシワを伸ばすこともせず、ただハンガーに引っ掛けて物干し竿に並べていく。

 それだけの作業で、友之はゼェゼェと肩で息をしていた。


「……はあ、はあ……。なんだこれ、たかが洗濯物を干すだけで、どうしてこんなに疲れるんだ。この体、体力なさすぎだろ」


 友之はベランダのサッシにもたれかかり、自分の細い腕を見つめた。三十四歳の女性の基礎体力は、彼が想像していた以上に乏しかった。この体で毎日自転車を立ち漕ぎし、介護という重労働をこなし、家に帰ってからは家事と育児をこなしていたのだという事実に、友之は背筋が寒くなるような思いがした。


「……信じられねえ。こんな華奢な体で、あんなハードな生活を回してたのかよ」


 少しだけ涼子に対する見方が変わった瞬間だったが、感傷に浸っている暇はなかった。香代子から命じられた最大の難関、「夕食のカレーの仕込み」が待ち受けていたからだ。

 台所に立ち、冷蔵庫からジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、そして豚の細切れ肉を取り出す。使い込まれた木製のまな板と、少し刃こぼれした包丁を前にして、友之は腕を組んで仁王立ちになった。


「野菜の皮を剥く……んだよな。ピーラーってやつはどこにあるんだ?」


 引き出しを漁ってもピーラーが見つからず、友之は仕方なく包丁でジャガイモの皮を()き始めた。しかし、その手つきは見ていて恐怖を覚えるほどおぼつかない。分厚く皮を削り取ってしまい、元の大きさの半分以下になった歪なジャガイモが、ゴロンとまな板の上に転がった。ニンジンに至っては、皮を剥くのを諦めて乱切りという名の「破壊」を行い、拳ほどの大きさがある巨大な塊のまま鍋に放り込んだ。

 玉ねぎを切る時には涙で視界が滲み、「痛え! 目が痛え!」と一人で台所で喚き散らした。

(指! 指を切らないで! ああ、もう見てられないわ……!)

 涼子の魂は、自分の肉体が包丁で大怪我をするのではないかと気が気ではなく、天井の隅で縮こまって震えていた。

 午後三時。

 凄惨な戦いの跡のような台所で、不揃(ふぞろ)いすぎる野菜と肉が水の中でブクブクと煮立っていた。友之はすっかり疲労困憊(こんぱい)し、居間の座布団の上に大の字になって倒れ込んでいた。女性の体で無理をしたせいで、腰と肩が悲鳴を上げている。


「ただいまー」


 玄関から、元気な声が聞こえてきた。小学校から帰ってきた良亮である。


「おう、坊主。おかえり……」


 友之が寝転がったまま力なく手を上げると、良亮はランドセルを下ろすのもそこそこに、眉間にシワを寄せて鼻をヒクヒクさせた。


「おじさん、なんか焦げ臭い匂いがするよ?」


「焦げ臭い? 馬鹿言え、ちゃんと弱火で煮込んで……うおっ!?」


 友之が飛び起きて台所へ向かうと、鍋の水が完全に蒸発し、底に張り付いた巨大なニンジンの塊と肉が黒焦げになって煙を上げていた。


「うわあああっ! 火事になる!」


 友之はパニックになりながらガスの元栓を閉め、焦げた鍋をシンクに放り込んで水をかけた。ジュウウウッという激しい音とともに、大量の水蒸気と焦げ臭い匂いが部屋中に充満する。

 良亮は、その惨状を冷ややかな、それでいて呆れ果てたような目で見つめていた。


「……おじさん、カレー作るのにずっと火にかけっぱなしにしてたの? お水が少なすぎるよ。それに、このニンジンとジャガイモ、大きすぎて中まで火が通らないよ」


 八歳の少年の冷静で的確すぎるツッコミに、友之はぐうの音も出なかった。


「悪かったよ……。料理なんて、家庭科の授業以来やったことなかったんだ。俺の家には包丁すらないんだからな」


「それだけじゃないよ。ベランダに干してある僕の体操着、なんでピンク色になってるの? 明日、体育の授業があるのに」


 良亮に指摘され、友之はハッとしてベランダを見た。風に揺れるうっすらとピンク色に染まった白シャツを見て、自分のやらかした失敗の大きさをようやく理解した。


「あっ……。すまん、赤いタオルと一緒に洗っちまったかもしれない……」


 友之がうなだれると、良亮は八歳とは思えない深いため息をついた。その仕草は、どこか仕事に疲れた中年サラリーマンのような哀愁を漂わせていた。


「ママはね、白い服と色のついた服はいつも分けて洗ってたよ。洗剤の量も、ちゃんとキャップで測ってた。料理だって、僕が食べやすいように野菜は小さく切ってくれてたし、お鍋の火のそばから絶対に離れなかったよ」


 良亮の言葉は、決して感情的に怒っているわけではなかった。ただ淡々と、自分の母親がどれほど丁寧に、そして愛情深く日々の生活を紡いでいたかを語っているだけだった。

 だからこそ、その言葉は友之の胸に深く、重く突き刺さった。

 友之は、濡れた自分の手――涼子の手――を見つめた。

 細くしなやかな指先だが、よく見ると水仕事でわずかに荒れており、小さなささくれがいくつもできている。毎日毎日、誰の目に触れることもなく、褒められることもなく、ただ息子のためにこの手で膨大な量の家事をこなしてきたのだ。シングルマザーとして働きながら、この日常を維持することがどれほど過酷で、どれほどの愛情を必要とするものか。家事の一つも満足にこなせなかった三十二歳の男は、その圧倒的な重みを肌で感じて打ちのめされていた。


「……ごめんな、良亮。俺が甘かった。お前のママは、本当にすげえ人なんだな」


 友之が素直に謝罪すると、良亮は少しだけ驚いたように目を丸くし、それから小さく頷いた。


「うん。僕のママは、世界で一番すごい人だよ。……お鍋、貸して。焦げたところを削り落とせば、まだ食べられるかもしれないから。僕、お手伝いするよ」


 良亮は台所の踏み台に乗り、小さな手で器用にスポンジを握って焦げた鍋を洗い始めた。その小さな背中を見つめながら、友之は静かに決意を固めていた。

 自分の不甲斐なさで、この親子の日常をこれ以上壊すわけにはいかない。元の体に戻る方法を見つけるまでは、泥臭くてもなんでもいい、越智涼子という一人の女性の人生を死に物狂いで守り抜いてみせる。

 ぎくしゃくとした食卓の風景の中に、少しずつではあるが、奇妙な連帯感と理解が芽生え始めていた。天井から見下ろす涼子の魂も、焦げた鍋を一緒に洗う二人の姿を見て、ふっと安堵の微笑みを浮かべていた。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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