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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
第一章 肉体と魂の乖離(かいり)

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おーほっほっほっ! と笑う少女 ㈠

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

 翌朝、良亮はいつもより少しだけ重い足取りで、昭和小学校へと続く通学路を歩いていた。

 河崎の街は、今日も朝からうだるような暑さに包まれている。蝉のけたたましい鳴き声と、遠くの工場から響いてくる重低音が混ざり合い、この街特有の騒々しい夏のBGMを作り出していた。アスファルトからの照り返しが容赦なく体力を奪っていくが、良亮の心を重くしているのは暑さのせいだけではなかった。

 彼の手提げ袋の中には、昨日の友之の盛大な洗濯の失敗によって、うっすらと見事な桜色に染め上げられてしまった体操着が入っていた。今日は二時間目に体育の授業がある。ピンク色の体操着を着てみんなの前に出ることを想像するだけで、八歳の少年のプライドはズタズタに引き裂かれそうだった。

 しかし、良亮が抱えている最大の憂鬱(ゆううつ)は、そんな些細なことではない。

 家にいる、「ママの顔をしたおじさん」の存在だ。

 岩瀬友之と名乗るあの男は、決して悪い人間ではないようだった。昨日の焦げた鍋の一件でも、自分が悪いと素直に認め、良亮の母親である涼子のことを「すごい人だ」と心から尊敬してくれた。男同士の約束も、今のところは破る気配はない。

 それでも、家に帰れば大好きなママが優しく出迎えてくれるという、当たり前だった日常が根底から崩れ去ってしまった事実に変わりはない。父親が法的に死亡した日、母親の心がどこかへ消えてしまった。この過酷すぎる現実を、良亮は子供ながらに必死に受け止め、飲み込もうと戦っていた。

(僕がしっかりしなきゃ。香代子おばちゃんも、おじさんも、ママの体を取り戻すために頑張ってくれてるんだから。僕が学校で泣いたりしたら、みんなが困っちゃう)

 良亮はギュッとランドセルの肩紐を握りしめ、自分自身に気合いを入れるように小さく頷いた。

 昭和小学校は、創立から六十年以上が経過している歴史ある公立校だった。鉄筋コンクリート造りの校舎はあちこちが黒ずみ、廊下の板張りは歩くたびにミシミシと軋む音がする。しかし、良亮はこの古びた校舎の匂いが嫌いではなかった。教室に入れば、家庭の異常な状況を少しだけ忘れ、ただの「小学二年生の男の子」に戻ることができるからだ。

 二年三組の教室に入ると、すでに半分以上の児童が登校しており、ランドセルを放り出して鬼ごっこをしたり、昨日見たテレビ番組の話で盛り上がったりしていた。良亮は自分の席窓側から二列目一番後ろの席に座り、静かに教科書やノートを机の引き出しにしまった。

 良亮は普段からあまり騒ぐタイプではなく、休み時間も本を読んだり絵を描いたりして過ごすことが多かった。賢く落ち着いた性格のため、同級生たちからは少しだけ「大人びている」と思われていたが、決して孤立しているわけではない。

 やがてチャイムが鳴り、担任の小林先生が教室に入ってきた。二十代後半の、いつも明るい笑顔を絶やさない女性教師である。

 しかし、今日の小林先生は、いつもとは少し違う緊張した面持ちで教壇に立った。そして、黒板を背にしてクラスの児童たちを見渡し、よく響く声で言った。


「皆さん、おはようございます。席について、静かにしてください。今日は朝の会を始める前に、皆さんにお知らせがあります。この二年三組に、今日から新しいお友達が加わることになりました」


 その言葉に、教室中がワッと沸き立った。転校生という存在は、小学生にとって最大のエンターテインメントである。どんな子だろう、男の子かな、女の子かな、と周囲でヒソヒソと囁き声が交わされる。

 小林先生が教室のドアに向かって声をかけた。


「入ってきていいわよ」


 ガラッと引き戸が開く音がした。

 教室の全員の視線が、開いたドアの空間に一点集中する。

 そこに姿を現したのは、小柄な一人の少女だった。

 真っ白なブラウスに、膝丈の清楚な紺色のプリーツスカート。足元は白いハイソックスに、磨き上げられた黒いエナメルのローファー。髪は背中の真ん中あたりまである黒髪で、毛先が少しだけ上品にウェーブを描いている。まるで、昭和の古い映画から抜け出してきた深窓(しんそう)の令嬢のような、周囲の空気を一変させる圧倒的な存在感を放っていた。

 しかし、クラスの児童たちの目を最も釘付けにしたのは、彼女の背中にあるものだった。

 彼女は、教室の中であるにもかかわらず、真っ赤なランドセルをしっかりと背負ったまま教壇まで歩いてきたのだ。


「えっと……ランドセルは、席に置いてからでよかったのよ?」


 小林先生が苦笑いしながら小声で注意したが、少女は全く意に介する様子もなく、ピンと背筋を伸ばしてクラス全員を見渡した。その瞳は驚くほど澄んでおり、八歳の子供とは思えないような強い光を宿していた。

 そして、少女はゆっくりと右手を顔の前に掲げた。その手には、どこから取り出したのか、真っ赤な扇子が握られていた。

 少女はバサッという鋭い音を立てて赤い扇子を華麗に広げると、口元を隠すようにして、教室中に響き渡る声で高らかに笑い声を上げた。


「おーほっほっほっ! 皆様、ごきげんよう!」


 教室の空気が、一瞬にして完全に凍りついた。

 誰一人として声を発することができない。小林先生ですら、予想外の強烈な挨拶に目を丸くして固まっている。

 少女は広げた扇子をパチンと閉じ、胸の前に当てて優雅にお辞儀をした。


「わたくし、門前竜子もんぜんりゅうこと申しますわ。本日より、この学び舎にて皆様と共に修養を積ませていただくこととなりました。未熟者ではございますが、以後、お見知りおきをよろしくお願いいたしますわ」


 その言葉遣いは、見事なまでにお嬢様言葉であった。テレビのアニメや漫画の中でしか聞いたことのないような誇張された言い回しだが、彼女が口にすると、奇妙なほど自然に聞こえるから不思議だった。

 数秒の沈黙の後、クラスの男子の一人がたまらず吹き出した。


「なんだよそれ! おーほっほっほっ、だってさ! すっげえ変な喋り方!」


「お姫様みたい! でもランドセル背負ったままとか、超ウケるんだけど!」


 それを皮切りに、教室中にどっと笑い声が広がった。小学生の無邪気で、時に残酷なからかいの笑いである。小林先生が慌てて「こら、みんな静かにしなさい! 笑ったら失礼でしょ!」と注意するが、騒ぎはなかなか収まらない。

 しかし、当の門前竜子は、周囲の嘲笑(ちょうしょう)を微塵も気にする様子がなかった。むしろ、(おろ)かな平民たちを憐れむような涼しげな微笑みを浮かべたまま、堂々と教壇に立ち尽くしている。その堂々たる(たたず)まいに、笑っていた児童たちも次第に気圧され、やがて教室は再び静けさを取り戻していった。


「えー、コホン。竜子ちゃんは、河崎神社のほうから通ってくることになりました。皆さん、仲良くしてあげてくださいね。竜子ちゃんの席は……あそこね。窓側の一番後ろ、越智くんの隣の席が空いているから、そこに座ってちょうだい」


 小林先生に指名され、良亮はビクッと肩を震わせた。自分の隣の席が空席だったことを、すっかり忘れていたのだ。

 竜子は「はい、先生」と優雅に(うなず)くと、コツコツとエナメル靴の音を響かせながら、良亮の隣の席へと歩いてきた。

 近くで見ると、竜子の顔立ちは陶器のお人形のように整っていた。しかし、その瞳の奥には、どこか人間離れした、底知れぬ深淵のようなものが覗いているような気がして、良亮は無意識に息を呑んだ。

 竜子は自分の席に着くと、背負っていた赤いランドセルをゆっくりと下ろし、机の横のフックに掛けた。そして、良亮の方へと体を向け、にっこりと微笑んだ。


「お隣同士になりましたわね。わたくし、門前竜子ですわ。あなたのお名前は?」


「あ、えっと……越智良亮、です」


 良亮が少し緊張しながら答えると、竜子は「越智良亮さん、ですのね。良いお名前ですわ」と鷹揚(おうよう)に頷いた。

 その時だった。

 竜子の澄んだ瞳が、ふいに良亮の顔から()れ、良亮の少し上、何もない虚空の一点をじっと見つめたのだ。

 そして、竜子は赤い扇子を口元に当て、興味深そうに目を細めてこう言った。


「あら……? 越智さん。あなた、大変美しい女の方を連れていらっしゃいますのね」


 良亮は心臓が止まるかと思った。


「え……? 女の人?」


 良亮が慌てて自分の周囲を見回しても、当然ながらそこには誰もいない。前後の席のクラスメイトも、竜子の言葉に首を傾げている。


「ええ。とても上品で、お優しいお顔立ちをした女性ですわ。あなたのことを、とても心配そうに見下ろしていらっしゃいますのよ。……おーほっほっほっ! なるほど、そういう因縁をお持ちですのね」


 竜子のその言葉は、良亮の胸の奥深くに突き刺さった。

 上品で、優しい顔立ちの女性。自分のことを心配そうに見ている。

 それは間違いなく、本当の「ママ」のことだ。

 涼子の魂が幽体離脱して自分を見守ってくれていることなど、良亮には知る由もなかった。しかし、母親を失った(正確には中身が入れ替わった)ばかりの彼にとって、竜子の放った一言は、単なる気まぐれな冗談やからかいには到底聞こえなかった。

 良亮は思わず身を乗り出し、竜子にすがりつくようにして小声で尋ねた。


「門前さん! それ、本当なの!? 僕の後ろに、女の人がいるの!?」


 竜子は広げた赤い扇子で顔の半分を隠し、意味深な微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頷いた。


「ええ、見えますわ。わたくし、少々特殊な目が備わっておりますの。……でも、ご安心なさいな。その方は、あなたに害をなすような悪い霊ではございませんわ。むしろ、あなたを深い愛情で守ろうとなさっている。とても強い、魂の輝きですわ」


 その瞬間、良亮の目から不意に涙がこぼれ落ちそうになった。

 ママは、いなくなってしまったわけじゃない。姿は見えなくても、ちゃんと僕のそばにいて、僕のことを見てくれているんだ。

 良亮は必死に涙を堪えながら、竜子に向かって深く頭を下げた。


「……教えてくれて、ありがとう。門前さん」


 不思議な転校生、門前竜子との出会い。

 それは、孤立無援の中で戦っていた良亮にとって、暗闇に差し込んだ一筋の強烈な光であった。そして同時に、彼がこれから巻き込まれていくことになる、想像を絶する不可思議な運命の扉が、ゆっくりと開かれた瞬間でもあったのだ。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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