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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
第四章 狂気との対峙

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過去の幻影とバックパックの男 ㈡

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

「……間違いなく、お姉ちゃんの旦那さんの、越智伸司さんよ!」


 香代子の悲鳴のような声が、薄暗い居間の壁にぶつかり、不気味なこだまとなっていつまでも響き続けていた。

 外で鳴きしきる蝉の声すら、今の友之の耳には全く届かなかった。周囲の音がすべて遠のき、まるで真空のガラスケースの中に閉じ込められたかのような、絶対的な静寂と冷気が彼を包み込んでいる。


「俺が……」


 友之は、畳に両手をついたまま、焦点の合わない目で自分の震える指先を見つめた。

 白くて細い、女性の指。

 この体は、越智涼子のものだ。七年間、突然姿を消した夫の帰りを待ち続け、女手一つで一人息子を育て上げてきた、気丈で優しい母親の体。

 その最愛の夫の命を奪い、冷たい泥の中に埋めて隠蔽したのは、他でもない、今この体に寄生している岩瀬友之自身だったのだ。


「俺は……自分が殺した男の、奥さんの体を乗っ取っていたのか……!」


 あまりの残酷な運命の皮肉に、友之は嘔吐(おうと)しそうになった。

 自分がこの体に引き寄せられたのは、決して偶然などではなかったのだ。被害者の妻の体を借りて生き返り、その妻の妹や子供に「いい人」として慕われる。これほどおぞましく、これほど残酷な罰が他にあるだろうか。因果応報という言葉すら生温い、完璧な地獄だった。


「岩瀬くん……嘘でしょ? ねぇ、何かの間違いだと言ってよ!」


 香代子が、畳を這うようにして友之にすがりつき、その胸倉を両手で激しく掴んだ。

 彼女の目からは、とめどなく涙が溢れ出し、怒りと絶望で顔が真っ赤に歪んでいた。


「お姉ちゃんが……お姉ちゃんが七年間、どれだけ苦しんできたか知ってる!? 毎日毎日、玄関の鍵を開けたままにして、いつ伸司さんが帰ってきてもいいようにって……。良亮くんに寂しい思いをさせないようにって、一人でずっと泣くのを我慢してたのよ! なのに、あなたが……あなたが伸司さんを殺したっていうの!?」


「内海……すまない……」


「なんで救急車を呼ばなかったのよ!!」


 香代子の絶叫が、友之の鼓膜を激しく打った。


「撥ねてしまったのは事故かもしれない。でも、すぐに助けを呼んでいれば、伸司さんは助かったかもしれないじゃない! なのに、自分の出世のために見捨てて……死体を隠すなんて、そんなの、ただの人殺しじゃない!!」


「……ああ。その通りだ」


 友之は抵抗することなく、香代子に胸倉を掴まれたまま、ただ力なく首を垂れた。

 言い訳などできるはずがなかった。工藤梓が(そそのか)したとはいえ、最終的に保身を選び、伸司を見殺しにして山に埋めたのは友之の意思だ。その罪の重さに、友之の魂は完全に押し潰されていた。


「おじさん……」


 部屋の隅から、震える小さな声が聞こえた。

 良亮だった。彼は、大切に抱きしめていたスケッチブックを畳の上に落とし、大粒の涙をボロボロとこぼしながら、後ずさりしていた。

 その瞳に浮かんでいるのは、絶対的な信頼を寄せていたヒーローへの裏切りの色と、父親を奪われた純粋な悲しみだった。


「おじさんが、パパを殺したの……? パパが帰ってこなかったのは、おじさんのせいだったの……?」


「坊主……」


「やだ……やだっ! パパを返してよ! パパを返してよぉぉッ!」


 良亮は両手で顔を覆い、その場にうずくまって子供のように……いや、本来の八歳の子供の姿に戻って、大声で泣きじゃくった。

 その泣き声は、友之の心臓を鋭いナイフで何度も何度も突き刺すようだった。

 自分は、この子から父親を奪った。そして今度は、この子から「信じられる大人」の存在までも奪ってしまったのだ。

(岩瀬くん……どうして……)

 天井付近に浮かんでいた涼子の魂が、声にならない声で(むせ)び泣いていた。

(伸司さんは、家族のために一生懸命働いてくれる、本当に優しい人だったわ。良亮と遊ぶのを、いつも楽しみにしていて……。あの日も、「すぐに帰るから」って笑って出かけていったのに……。どうして、あんな冷たい山の中に……)

 彼女は、自分の体を命懸けで守ってくれた友之を完全に憎み切ることはできなかった。しかし、最愛の夫の命を奪い、七年間も自分たちを暗闇の中に取り残した張本人を、どうしても許すこともできなかった。その引き裂かれるような葛藤が、彼女の魂を激しく震わせていた。


「……申し訳ない。本当に……本当に、申し訳なかった」


 友之は、香代子の手をそっと外し、畳の上に深く、深く平伏(へいふく)した。

 額をイグサの床に擦り付け、両手をついて、全身全霊の土下座をした。


「俺は、最低の卑怯者だ。自分の人生を守るためだけに、あんたたちの人生を完全に壊してしまった。毎日、毎日……胸の奥で罪悪感に苛まれながら、それでも自首する勇気が持てなくて、工藤梓の言いなりになっていた。俺が毒殺されたのは、そんな俺の弱さと卑劣さに対する、当然の報いだったんだ……!」


 友之の目から、初めて止めどない涙が溢れ出した。

 自分の不甲斐なさ、身勝手さ、そして取り返しのつかない罪の重さ。三十四年間の人生で積み上げてきたと思っていたものが、実は全て他人の犠牲の上に成り立っていた砂上の楼閣(ろうかく)であったことを、彼は思い知らされていた。


「涼子さんの体に宿った時、俺は……これで新しい人生をやり直せるかもしれないなんて、甘いことを考えていた。でも違った。俺は、俺が奪った命の重さを知るために、この体に引き寄せられたんだ。……涼子さん。内海。そして坊主。俺を許してくれなんて言わない。俺は、地獄に落ちるべき人間だ」


 友之が畳に額を擦り付けたまま嗚咽を漏らすと、居間にはただ、香代子と良亮の泣き声だけが悲痛に響き渡った。

 竜子も、この時ばかりは何も言葉を発することなく、悲しげに目を伏せている。彼女の力をもってしても、人の犯した大罪と、遺族の消えない悲しみを癒やすことはできないのだ。

 どれほどの時間が経っただろうか。

 友之は、泣き腫らした目をゆっくりと見開き、畳の目を見つめながら、不意に息を呑んだ。

 深い後悔と謝罪の念が、彼の魂の底に沈殿していた最も重い記憶の蓋を、完全にこじ開けたのだ。


「……違う」


 友之は、震える声で呟いた。


「即死じゃ……なかった」


「え……?」


 泣き崩れていた香代子が、顔を上げた。


「即死じゃなかったんだ。俺の車にぶつかって、アスファルトに倒れ込んだ時……伸司さんは、まだ生きていた」


 友之はゆっくりと上体を起こし、虚空を見つめながら、七年前のあの雨の夜の、最後の断片を語り始めた。


「俺がパニックになって車の外に出た時、伸司さんは血まみれになりながらも、微かに息をしていたんだ。俺が駆け寄って抱き起こそうとした時、彼は……最後の力を振り絞って、俺の腕を強く掴んだ」


 雨の冷たさ。

 そして、命の灯火が消えかけようとしている男の、信じられないほど強い手の感触。


「伸司さんは、自分の命が助からないことを悟っていたんだと思う。俺を恨むことも、助けを求めることもせず、ただ……血を吐きながら、最後に言葉を残したんだ」


 その言葉が何であったか。

 友之の脳裏に、伸司の最期の声が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇ってきていた。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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