過去の幻影とバックパックの男 ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
けたたましいサイレンの音を響かせながら、パトカーの赤色灯が箱根の山道を下っていく。その光が完全に木々の向こうへと見えなくなるまで、友之は玄関の引き戸の前に立ち尽くしていた。
自分を殺害した犯人である工藤梓は、これで完全に法の裁きを受けることになる。USBメモリに記録された音声データと、鑑識が慎重に回収していったまくらカバーの微量な成分が、彼女の逃げ道を完全に塞ぐだろう。
しかし、事件の解決という最大の目的を果たしたはずなのに、友之の胸には安堵の欠片もなかった。むしろ、梓がパトカーに押し込まれる直前に残した「仲良く死体を埋めた『共犯者』」という呪いの言葉が、冷たい泥のように心臓にこびりついて離れなかった。
「……お母様には、睡眠薬を少しだけ飲んでもらって、奥の部屋で寝かせたわ。かなりショックを受けていらしたから」
背後から、香代子の静かな声がした。
友之はゆっくりと振り返り、居間へと戻った。畳の上には、揉み合いになった際に散らばった座布団の綿や、割れた湯呑みの破片がそのまま残されている。
部屋の隅では、良亮がスケッチブックを抱きしめたまま、不安そうに友之を見つめていた。その傍らで、竜子も赤い扇子を閉じたまま、口を真一文字に結んで座っている。
天井付近に浮かぶ涼子の魂も、声を発することなく、ただじっと事の成り行きを見守っていた。
「内海……。すまない、こんなことに巻き込んでしまって」
「謝るのは後にして。それよりも、岩瀬くん」
香代子は、ちゃぶ台を挟んで友之の正面に正座すると、逃げ場のない真剣な眼差しで彼を真っ直ぐに見据えた。
「あの女が連行される前に言っていたこと……。岩瀬くんが、車で人を撥ねて、山に死体を埋めたって。あれは、本当に岩瀬くんの記憶にあるの?」
その問いが発せられた瞬間、居間の空気がさらに一段と重く冷たくなった。
友之は、自分の両手……三十四歳の女性の、細くて白い手を見つめた。自分の体ではないはずなのに、その手は確かに、重い車のハンドルを握りしめ、人を撥ねた時のあの生々しい感触を記憶していた。
「……ああ。嘘じゃない」
友之は、絞り出すような低い声で答えた。
「インターネットカフェで、工藤が俺の部屋に仕掛けていた盗聴器の音声を聞いた時、突然フラッシュバックみたいに頭の中に映像が蘇ってきたんだ。……俺が殺される直前の記憶じゃない。ずっと昔、まだ俺が二十代半ばだった頃の、封印されていた記憶だ」
「二十代半ば……?」
「ああ。今からちょうど七年前の、八月のことだ」
友之が「七年前」と口にした瞬間、香代子の肩がビクッと跳ね、良亮も目を見開いた。七年前といえば、良亮の父親である越智伸司が、この箱根の地で忽然と姿を消した時期と重なるからだ。
「あの夜は、記録的な大雨が降っていた。バケツをひっくり返したような豪雨で、ワイパーを最速で動かしても前がほとんど見えないくらいだった」
友之は、ゆっくりと目を閉じ、脳裏にこびりついている凄惨な光景を一つ一つ言葉にしていった。
「俺は当時、入社三年目で、同期の中でも異例の早さで係長への昇進を打診されていた。人生の絶頂期だったよ。仕事が楽しくて、毎日遅くまで残業して……。その日も、深夜まで会社に残って仕事をしていた。すると、新入社員だった工藤梓が『終電を逃してしまった』と泣きついてきたんだ。俺は、箱根にある会社の保養所まで車で送ってやることにして、助手席に彼女を乗せて山道を走っていた」
激しい雨音。車内の生ぬるい空気。そして、助手席から漂ってくる甘ったるい香水の匂い。
「深夜の箱根の山道で、しかもあの土砂降りだ。すれ違う車も、後ろを走る車も一台もなかった。俺は慎重にハンドルを握っていた。……だが、急カーブに差し掛かったその時、助手席の工藤が突然『主任……私、ずっと主任のことが……!』と叫んで、運転中の俺の左腕に強く抱きついてきたんだ」
「運転中に抱きついてきた!?」
「そうだ。俺は驚いて、咄嗟に腕を振り払おうとした。その反動で、一瞬だけハンドルが左に大きく切れてしまったんだ。……ヘッドライトの光が、真っ暗な雨のカーテンを切り裂いた。その先に……いたんだよ」
友之の声が、恐怖と罪悪感で震え始めた。
天井の涼子の魂も、両手で口を覆い、息を呑んで友之の言葉に耳を傾けていた。
「大きな、本当に大きなバックパックを背負った、レインコート姿の男だった。ブレーキを踏む暇もなかった。ドォンッ! っていう、重くて鈍い音が車内に響いて……男の体はボンネットに乗り上げ、フロントガラスにぶつかってから、真っ暗なアスファルトの上に叩きつけられた」
友之は両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
「俺はパニックになって車を飛び出した。男は血まみれになって倒れていて、ピクリとも動かなかった。脈を診るまでもない……完全に死んでいた。俺は震える手でスマホを取り出し、警察と救急車を呼ぼうとした。……でも、工藤が俺のスマホを奪い取ったんだ」
『ダメです、主任!』
雨に濡れた梓の顔が、フラッシュバックの中で不気味に歪む。
『ここで警察を呼べば、主任は人殺しです。もうすぐ係長に昇進するんでしょう? ここで捕まったら、主任の人生は終わってしまいます!』
「俺は、自分の築き上げてきたキャリアが、たった一瞬の事故で全て崩れ去る恐怖に支配された。そこに工藤が甘く囁いたんだ。『私が手伝います。このまま死体を山の中に埋めてしまえば、事故なんて初めからなかったことになりますわ。私たち二人で、この秘密を永遠に共有するんです』って……」
友之はギリッと奥歯を噛み締めた。
「俺は、保身に走った。自分の人生を守るために、無関係な人間の命を奪った事実から逃げたんだ。俺と工藤は、ずぶ濡れになりながら男の死体をトランクに押し込み、道なき道を走って、山奥の深い谷底に死体を埋めた。……そして、その日から、俺と工藤梓は『人を殺して山に埋めた共犯者』という、決して切れない鎖で繋がれてしまったんだ」
沈痛な告白が終わると、居間には、息をするのも躊躇われるほどの圧倒的な沈黙が降りてきた。
自分が殺害された被害者であると同時に、理不尽な死体遺棄の加害者であったという事実。友之は、自分自身に向けられた激しい嫌悪感に苛まれ、顔を上げることもできなかった。
「……岩瀬くん」
やがて、香代子が、ひどく掠れた、震える声で口を開いた。
友之が顔を上げると、香代子は血の気を失った真っ青な顔で、友之を凝視していた。その瞳には、かつてないほどの恐怖と、ある決定的な絶望が浮かんでいる。
「その……七年前の雨の夜に、岩瀬くんが撥ねたっていう男の人。どんな服装だったか、覚えている?」
「服装……?」
「そうよ! 大きなバックパックを背負っていたって言ったわよね。それ以外に、何か特徴はなかったの!?」
香代子の異常なまでの剣幕に押され、友之は記憶の糸を必死に手繰り寄せた。
「……大柄な男だった。着ていたレインコートは、深いカーキ色のマウンテンパーカーみたいなやつで……背負っていたバックパックは黒で、側面に銀色の反射材がついていた。足元は、頑丈そうな茶色いトレッキングブーツを履いていて……」
友之がその特徴を語るたびに、香代子の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出していった。
良亮も、スケッチブックを握りしめる手を震わせ、顔をくしゃくしゃにして泣きそうになっている。
そして、天井付近に浮かんでいた涼子の魂は。
(嘘……。そんな、嘘でしょ……?)
涼子の魂が、悲鳴のような声を上げた。
彼女は、まるで目に見えない矢で胸を射抜かれたように、空中で体を丸めて泣き崩れた。
(カーキ色のマウンテンパーカー……黒いバックパック……茶色いブーツ……。全部、全部、伸司さんが家を出たあの日、身につけていたものと同じじゃない……!)
その涼子の声は、友之の頭の中に直接、冷たい氷の刃となって突き刺さった。
香代子が、両手で顔を覆い、嗚咽を漏らしながら言った。
「七年前の八月。大雨が降った夜。箱根の山道。そして、その服装とバックパックの特徴……。岩瀬くん、あなたが撥ねて、山に埋めたっていうその男の人は……間違いなく、お姉ちゃんの旦那さんの、越智伸司さんよ!」
その瞬間、友之の全身の血液が完全に凍りついた。
良亮が探していた、大好きな父親。
涼子が七年間、狂おしいほどに待ち続けていた最愛の夫。
その命を理不尽に奪い、冷たい土の中に埋めて隠蔽したのは……他でもない、岩瀬友之自身だったのだ。
この奇妙なボディスワップ現象。自分が赤の他人である越智涼子の体に宿った理由。それは決して偶然などではなかった。夫を殺した男の魂を、被害者の妻の肉体に閉じ込めるという、運命の過酷な罰だったのだ。
友之は、目の前が真っ暗になるほどの絶望に打ちのめされ、言葉を失ったまま、畳の上に手をついて深く、深くうなだれた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




