刃とホウキの共闘 ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
「死ねェェッ!! 泥棒猫ォォッ!!」
鼓膜を劈くような絶叫と共に、工藤梓が銀色のカッターナイフを振りかざして突進してきた。
狙いは、友之(涼子)の首筋、あるいは顔面。完全に殺意と狂気に支配された凶刃が、薄暗い居間の空気を切り裂いて迫り来る。
「くそっ!」
友之は咄嗟に、背後にいた美智子と香代子を両手で突き飛ばすようにして畳の上へ転がした。同時に、自分も横へ大きくステップを踏んで刃の軌道から逃れようとする。
しかし、三十四歳の女性の華奢な肉体は、友之の運動神経が描く回避のイメージにどうしても追いつかなかった。足がもつれて体勢が大きく崩れ、鋭利な刃が空を切る音と共に、友之の二の腕を浅くかすめた。
「痛っ……!」
着ていたグレーのTシャツの袖が裂け、白い皮膚からジワリと赤い血が滲み出した。熱いような、冷たいような鋭い痛みが走る。
(岩瀬くん! 血が……! ダメよ、あんな狂った女の相手をまともにしちゃ!)
天井付近に浮かんでいた涼子の魂が、悲鳴のような声を上げた。
(お願い、無理しないで! 私の体なんてどうなってもいいから、早く逃げて!)
涼子の必死の叫びは、友之の頭の中に直接響いてくる。しかし、逃げる場所などどこにもない。ここには高齢の母親と、自分を慕ってくれる幼馴染みがおり、家の外には小さな子供たちがいるのだ。大人の男の魂を持つ自分が、盾になるしかなかった。
梓は一撃目を躱された勢いのまま前のめりになったが、すぐに体勢を立て直し、再び血走った瞳で友之を睨みつけた。彼女の顔には、先ほど浴びせられたお茶の茶葉が幾つかへばりついており、それが彼女の異様さをさらに際立たせていた。
「ちょこまかと……! あなたさえいなければ、私と友之さんの愛の儀式は誰にも知られずに永遠のものになったのに! 私たちの邪魔をしないで!」
梓の口から飛び出す言葉は、完全に支離滅裂だった。彼女の目には、目の前にいる女性(涼子の顔をした友之)が、自分たちの「聖域」を荒らす不届き者にしか見えていないのだ。
「ふざけるな! お前の身勝手な執着で、友之さんの……俺の人生を終わらせられてたまるか!」
友之は怒鳴り返し、足元にあった座布団を両手で掴み取った。それを盾のように体の前に構える。丸腰で刃物に対抗するには、少しでも距離を取るためのクッションが必要だった。
「死ね! 死ね! 死ね!」
梓が獣のように跳びかかってきた。カッターの刃が、座布団に向かって何度も何度も、滅多刺しにするように振り下ろされる。
ドスッ、ドスッという鈍い音が響き、座布団の布地が容易く切り裂かれて、中から白い綿が空中に舞い散った。
友之は座布団越しに伝わってくる、梓の異常なまでの腕力に驚愕していた。普段は大人しい女性社員だったはずの彼女が、狂気と極限のアドレナリンによって、成人男性に匹敵するほどの力を発揮しているのだ。涼子の細い腕の力では、押し負けるのは時間の問題だった。ジリジリと後ずさりさせられ、背中が居間の壁にぶつかる。
「あははははっ! その顔、グチャグチャに切り刻んであげるわ!」
梓が狂ったように笑い、刃が友之の顔面へと迫る。
(ああっ、岩瀬くんが押し潰されちゃう! 誰か、誰か助けて!)
涼子の魂が宙で身悶えし、絶望の声を上げた。
万事休すかと思われた、その時だった。
「私のお姉ちゃんに、触んじゃねえええッ!!」
怒号と共に、居間の入り口から弾かれたように飛び出してきた影があった。香代子である。
彼女の両手には、廊下の隅に立てかけられていた長い座敷ホウキが、まるで武器のようにしっかりと握られていた。
香代子は、座布団を押し込もうとしている梓の無防備な背中めがけて、野球のバットをフルスイングするかのように、ホウキの柄を思い切り横薙ぎに叩きつけた。
バシィィィンッ!!
凄まじい快音が居間に響き渡り、梓が「あぐっ!」とカエルのように短い悲鳴を上げて真横に吹っ飛んだ。カッターナイフが手からこぼれ落ち、畳の上を滑って部屋の隅へと転がっていく。
「内海!」
「岩瀬くん、今のうちよ! 押さえて!」
香代子の見事な一撃で生まれた千載一遇の隙を、友之が見逃すはずがなかった。友之はボロボロになった座布団を投げ捨て、倒れ込んだ梓の背中めがけて馬乗りになると、その両腕を背後にねじり上げて力一杯床に押さえつけた。
「離せ……! 離しなさいよォォッ! 友之さんは私のものよ! 私の神様なのよォォッ!」
梓が床に顔を押し付けられたまま、四肢をバタバタと暴れさせて絶叫する。その恐ろしいまでの執念に、友之は背筋が凍る思いだったが、全体重をかけて必死に拘束を続けた。女性の体であっても、関節を極めて体重を乗せれば、動きを封じることはできる。
「お袋! 内海! 紐だ! 何か縛るものを持ってきてくれ!」
「は、はい! 今すぐ!」
腰を抜かしていた美智子が、顔面を蒼白にしながらも震える足で立ち上がり、隣の部屋の押し入れから太い荷造り用のビニール紐を見つけ出して駆け寄ってきた。
香代子と美智子が協力し、暴れる梓の手首と足首を、これでもかというほどに固く縛り上げる。
やがて、完全に自由を奪われた梓は、畳の上で芋虫のように転がったまま、「友之さん……友之さん……」と、焦点の合わない目で虚空を見つめながら、呪詛のように呟き続けることしかできなくなった。
「……終わった」
友之は荒い息を吐きながら、畳の上に仰向けに倒れ込んだ。天井の木目が、ぐらぐらと揺れて見える。
滝のような汗が顔を伝い、切られた二の腕の傷がジンジンと熱を持って痛む。しかし、それ以上に、ようやく自分を殺した狂気の殺人鬼を捕らえたという安堵感が、全身の力を抜いていった。
(岩瀬くん、本当にありがとう! ケガをさせちゃったけど、あなたが私たちを守ってくれたのね……!)
涼子の魂が、涙声で上から友之に覆い被さるようにして感謝を伝えている。その温かい声の響きに、友之は目を閉じて小さく息を吐いた。
「おじさん!」
外で見張りをしていた良亮が、騒ぎが収まったのを察して、竜子と共に勝手口から居間へと駆け込んできた。
縛り上げられた梓の姿を見て、良亮は目を見開き、そして友之の腕から血が出ているのを見つけると、悲鳴を上げて駆け寄った。
「おじさん、血が! 大丈夫!? 死なないで!」
「馬鹿野郎、これくらいかすり傷だ。泣くな坊主。……ほら、約束通り、無事に戻ってきたぞ」
友之が痛みを堪えて優しく微笑むと、良亮は友之の胸に顔を埋めて、ワァワァと声を上げて泣きじゃくった。父親が失踪して以来、ずっと気を張って大人びていた八歳の少年が、初めて見せた子供らしい涙だった。友之は、痛まない方の腕で、良亮の小さな背中をポンポンと優しく叩いた。
「さあ、すぐに警察を呼ぶわよ」
香代子がスマートフォンを取り出し、震える指で一一〇番をプッシュした。
「これでようやく、全てが終わる。あいつは捕まり、俺の死の真相が明らかになるんだ」
友之は体を起こし、ポケットの中のUSBメモリをギュッと握りしめた。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。
梓が「泥棒猫」と罵ったその言葉の裏にある、もう一つの恐ろしい真実に。そして、友之の脳裏にフラッシュバックした、あの雨の日のひき逃げ事故の記憶に。
遠く箱根の山道を登ってくるパトカーのサイレンの音が、夏の微風に乗って微かに聞こえ始めていた。それと同時に、床に転がっていた工藤梓が、不気味な声でクスクスと笑い始めたのである。
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