箱根の生贄と赤い結界 ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
夏の強烈な日差しが、閉め切られた雨戸の隙間から居間の畳に一筋の光の線を引いていた。
しかし、部屋の空気はまるで地下室のように冷たく、そして重かった。むせ返るような香水の匂いと、線香の燃えかすの匂いが混ざり合い、息をするだけで肺の奥がざわつくような不快感をもたらしている。
「さあ、泥棒さん。大人しく盗んだデータを返しなさいな。それと、お母様が持っているという汚い布切れも一緒にね」
仏壇の前に正座させられた美智子の背後に立ち、その細い首筋に銀色のカッターナイフの刃を押し当てたまま、工藤梓が甘く、ひどく冷酷な声で要求した。
美智子は恐怖で声も出せず、ただ大粒の涙をこぼしながら、目の前に立つ友之(涼子の顔)を縋るように見つめている。
友之は、ギリッと奥歯を噛み締め、ズボンのポケットからゆっくりと銀色のUSBメモリを取り出した。
「データはここにある。だが、まくらカバーは俺たち……私たちが、すでに別の安全な場所に隠した。もしお前にこれを渡して、このお母様に何かあれば、すぐに警察にカバーを届ける手筈になっている!」
友之がハッタリを交えて凄むと、梓はカッターを持つ手を微かに動かした。
ピリッ、と。
美智子の白い首筋に、一筋の赤い血が滲んだ。
「ひっ……!」
「お袋っ!!」
美智子が小さな悲鳴を上げ、友之が思わず一歩前に踏み出そうとした。
「動かないで。……あなた、さっきからどうして友之さんのお母様を『お袋』なんて呼ぶのかしら? 友之さんの同級生のお姉様なんでしょう? ずいぶんと馴れ馴れしいのね、苛立たしいわ」
梓の虚ろな瞳の奥で、嫉妬と憎悪の真っ黒な炎が揺らめいた。彼女にとって、岩瀬友之という存在は自分だけの完全な所有物であり、他の女が彼や彼の家族に親しく接することなど、絶対に許しがたい冒涜なのだ。
天井付近に浮かんでいた涼子の魂は、美智子の首に血が滲んだのを見て、激しい怒りに身を震わせた。
(ほんとに、おぞましい女ですね……! 大切な美智子お母様に刃物を突きつけるなんて、人間のすることじゃないわ! 早くその薄汚い手を離しなさい!)
涼子は空中で地団駄を踏みながら、梓に向かってありったけの怒りの念を叩きつけた。しかし、当然ながらその声は梓には届かない。
「工藤……お前の目的は俺……友之さんを独り占めすることだったんだろう! なら、もう目的は果たしたじゃないか! 友之さんは死んだ! お前の手で殺されたんだ! これ以上、関係のないお母様を巻き込むな!」
友之が血を吐くような思いで叫んだ。自分が死んだ事実を、自分の口から殺人犯に向かって肯定させられる屈辱。
しかし、その言葉を聞いた梓は、まるで恍惚とした夢でも見るかのように、トロンとした表情を浮かべた。
「ええ、そうよ。友之さんはようやく、私だけのものになったの。誰にも奪われない、永遠の沈黙という最も美しい形でね。……でも、あなたたちのような羽虫が、私たちの神聖な愛の儀式を『殺人』だなんて俗っぽい言葉で暴こうとするから、いけないのよ」
完全に狂い切った論理。
彼女の頭の中では、毒殺は殺害ではなく、「永遠の愛を完成させるための儀式」として処理されているのだ。
「まくらカバーが手元にないなら、交渉は決裂ね。でも、私、とても慈悲深い人間ですのよ。あなたにチャンスをあげますわ」
梓は美智子の首に刃を当てたまま、顎で居間のちゃぶ台の上を指し示した。
そこには、なみなみと注がれた緑茶の入った湯呑みが一つ、ポツンと置かれていた。
「そのお茶を、あなたが全部飲み干しなさい。そうすれば、お母様は無傷で解放して差し上げますわ。どうせ警察に通報なんてできないでしょう? あなたがここで突然の心不全で倒れても、ただの悲しい病死になるだけですものね」
附子の蜜。
あの恐ろしいトリカブトの猛毒が、致死量で混入されたお茶だ。
友之と、背後に控えていた香代子の顔から、サァッと血の気が引いた。
「い、岩瀬くん! ダメよ、そんなもの飲んだらお姉ちゃんの体が……あんたが本当に死んじゃう!」
「黙ってなさい! 飲まないなら、今すぐこのお母様の頸動脈を切り裂くまでよ!」
梓がヒステリックに叫び、カッターの刃をさらに強く美智子の肌に押し当てる。
「やめろぉっ!!」
友之は絶叫し、両手を前に突き出した。
「わかった……! 飲む! 俺が飲むから、お袋から手を離せ!!」
それは、三十四歳の母親である越智涼子の肉体を完全に死に至らしめるという、取り返しのつかない決断だった。友之の魂は再び行き場を失うか、あるいは今度こそ本当に消滅するだろう。
それでも、自分のせいで母親が目の前で殺されることだけは、絶対に耐えられなかった。
(岩瀬くん! だめ、絶対に飲んだらダメよ! 美智子お母様は、あなたが犠牲になることなんか望んでないわよ!)
涼子の魂が悲痛な叫びを上げるが、友之は静かに首を振り、ちゃぶ台へと歩み寄って、猛毒の入った湯呑みをゆっくりと手に取った。
湯呑みを持つ指先が、小刻みに震えている。
「ふふっ……ええ、そうよ。さあ、一思いに飲み干してちょうだい」
梓が勝利を確信し、醜く顔を歪めて笑った。
友之が湯呑みを口元へと運ぶ。
香代子が「ダメぇっ!」と絶叫し、美智子が目を固く閉じた。
その、絶望の瞬間であった。
居間の開け放たれた襖の向こう、廊下の奥から、鈴の音のように澄んだ、凛とした声が響き渡った。
「大地の怒りよ、吹き荒れなさいませ!」
バサァッ!!
突風。
密閉された室内のはずなのに、台風のような強烈な突風が、廊下の方から居間の中へと真っ直ぐに吹き込んだのだ。
それは、ただの風ではなかった。竜子が真っ赤な扇子を振り抜くことによって生み出された、強烈な「気」の波動であった。
風はピンポイントで梓の顔面を打ち据え、彼女の長い黒髪を大きく巻き上げ、視界を完全に奪った。
「きゃあっ!? な、何よこれ!」
梓が風圧に耐えきれず、思わずカッターを持っていた腕で顔を庇った。
美智子の首元から、刃が離れた。
ほんの一瞬。たった一秒にも満たない、奇跡の隙。
「今だッ!!」
友之は手にしていた湯呑みを、躊躇なく梓の顔面めがけて全力で投げつけた。
バシャッ! という音とともに、猛毒の入った緑茶が梓の顔とブラウスにぶちまけられる。
「ああっ! 熱いっ! 目が……!」
梓が悲鳴を上げて仰け反った瞬間、香代子が弾かれたように飛び出し、美智子の腕を掴んで強引に引きずり倒すようにして仏壇の前から救い出した。
湯呑みは畳の上に落ちて粉々に砕け散り、毒を含んだ茶の匂いが部屋中に充満する。
「お袋、大丈夫か!?」
「ひぐっ……あぁっ……!」
美智子は腰を抜かしたまま、香代子と友之の腕の中でガタガタと震えて泣き崩れた。
廊下には、赤い扇子を静かに閉じた門前竜子が、涼しい顔をして立っていた。彼女の小さな肩がわずかに上下しており、今の一撃がどれほど彼女の霊力を消費したものかを物語っていた。
「……よくも、よくも……!!」
顔に張り付いた茶葉を乱暴に拭い去りながら、梓が濡れた髪の間から血走った両目をギョロリと剥いた。
その顔は、完全に人間の理性を喪失した悪鬼のそれであった。手にはまだ、カッターナイフがしっかりと握られている。
「許さない……私の邪魔をする虫ケラども……! ここで全員、切り刻んで殺してやるわァァッ!!」
梓が獣のような雄叫びを上げ、カッターナイフを振りかぶって友之たちに向かって突進してきた。
毒という知略を失い、完全に剥き出しの暴力へと転じた殺人鬼。
狭い居間での、命を懸けた凄惨な乱闘が始まろうとしていた。友之は美智子と香代子を背中で庇うようにして立ち塞がり、丸腰のまま、狂気の刃へと真っ向から対峙したのである。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




