箱根の生贄と赤い結界 ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
箱根登山鉄道が箱根湯本駅のホームに滑り込んだ時、普段であれば観光客の弾むような声で満たされるはずの車内は、重く冷たい沈黙に支配されていた。
電車のドアが開き、硫黄の匂いが混ざった夏の熱風が吹き込んできても、友之たちの体感温度は氷点下のままだった。
工藤梓による、最悪の人質宣言。
友之の胸ぐらを鷲掴みにして揺さぶるような激しい怒りと、かけがえのない母親の命が握られているという圧倒的な恐怖が、彼から一切の言葉を奪っていた。涼子の細い手は白く血の気を失うほどに固く握りしめられ、微かに小刻みに震えている。
「岩瀬くん……。どうするの。警察に……やっぱり、警察に連絡した方が……」
ホームに降り立ちながら、香代子が泣きそうな声で訴えた。しかし、友之は首を横に振った。
「ダメだ。警察を呼べば、パトカーのサイレンや無線の音で絶対にあいつに気づかれる。あいつは狂ってるんだ。警察が踏み込む前に、お袋の飲んでいるお茶に毒を盛るくらい、躊躇いなくやる女だ」
「でも、このまま岩瀬くんが一人で乗り込んだら、あなたまで殺されちゃうかもしれないじゃない!」
香代子の悲痛な叫びに、友之は足を止め、振り返った。
「俺が死んでるってことは、あいつはまだ知らないはずだ。あいつにとって、俺の顔をしたこの女(涼子)は、単なる『岩瀬の同級生の姉』であり、自分の犯罪の証拠を盗み出した泥棒でしかない。だから、交渉の余地はあるはずだ」
友之はズボンのポケットの上から、証拠のデータが入ったUSBメモリの硬い感触を確かめた。
「俺がこのデータとまくらカバーを渡して、あいつの気を引く。その隙にお袋を逃がすんだ。……内海、お前と坊主はここから少し離れた場所で待機しててくれ。万が一の時は、すぐに一一〇番通報を頼む」
自分が身代わりになる。その悲壮な決意を固めた友之に対し、良亮がギュッと友之の服の裾を掴んで引いた。
「嫌だ! おじさんだけ行かせるなんて絶対に嫌だ! パパの時みたいに、またいなくなっちゃうのは嫌だ!」
「坊主……。わかってくれ、相手は本物の人殺しなんだ。お前を巻き込むわけにはいかない」
友之が困り果てた顔で良亮を宥めようとした、その時だった。
バサッ! と、鋭い音が響いた。
竜子が、真っ赤な扇子を華麗に広げ、友之と良亮の間にスッと割り込んだのだ。
「おーほっほっほっ! 水臭いことをおっしゃらないで、岩瀬様。わたくしたちは、共に死線を潜り抜けた運命の共同体ですわよ」
竜子は澄んだ瞳で友之を真っ直ぐに見据え、閉じた扇子の先で友之の胸を軽く突いた。
「物理的な戦闘力では、確かにあのような狂女には敵わないかもしれませんわ。ですが、わたくしにはこの扇子と、言霊を操る力がございます。毒牙にかかる前に、あの方の気の流れを一瞬だけ断ち切り、隙を作ることくらい造作もありませんわ!」
「竜子ちゃん……」
「それに、お母様を救い出すには、岩瀬様お一人の手では足りませんわ。わたくしたちで陽動と救出を分担すべきです。……さあ、参りましょう。悪しき魔女から、大切なお母様を取り戻すのですわ!」
八歳の少女とは思えない、圧倒的な気迫と頼もしさ。
香代子も涙を拭い、決意の表情で頷いた。
「竜子ちゃんの言う通りよ。私だって、岩瀬くんを一人で死地に行かせるくらいなら、一緒に地獄まで付き合ってやるわ。昔みたいに、私がホウキで叩きのめしてやるんだから!」
「……お前ら」
友之は、仲間たちの温かくも力強い言葉に、思わず目頭を熱くした。涼子の美しい瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
その光景を天井付近から見守っていた涼子の魂もまた、彼らの強い絆に心を打たれ、そして母親としての激しい怒りを燃やし滾らせていた。
(岩瀬くん、香代子、良亮、それに竜子ちゃん……。本当に、あなたたちには頭が下がるわ。私、自分の体に何かあっても構わない。でも、美智子お母様に指一本でも触れてみなさい。あの工藤って性悪女、私が化けて出たって絶対に呪い殺してやるんだから! ……だけど、岩瀬くん。絶対に無茶はしないでね。私の体、よろしく頼みますね)
涼子の切実な祈りが、目に見えない光の粉となって、友之たちの背中を温かく包み込んだ。
一行は駅前からタクシーを拾い、実家の近くの坂道の下で降りた。
そこからは、息を殺して徒歩で実家へと近づいていく。
夏の強い日差しが照りつける中、蝉のけたたましい鳴き声だけが周囲に響き渡っていた。しかし、岩瀬家の周囲だけは、まるで音と光を飲み込むブラックホールのように、不気味なほどの静寂と冷気に包まれていた。
生け垣の陰に身を隠し、実家の様子を窺う。
玄関の引き戸はピタリと閉ざされており、中の様子は全く分からない。しかし、竜子は赤い扇子を鼻先にあて、鋭い視線を門扉の奥へと向けていた。
「……感じますわ。家の中から、重く、どす黒い執着の言霊が渦巻いているのを。間違いなく、あの女は中にいますわ」
「……行くぞ」
友之が覚悟を決め、生け垣から飛び出そうとした瞬間、竜子がその腕をそっと引き止めた。
「お待ちになって。正面から堂々と入っては、相手の思う壺ですわ。彼女はすでに、私たちが来るのを待ち構えているのですから。まずは、わたくしがこの扇子で、家を覆う彼女の『結界』に干渉いたします。その間に、岩瀬様と内海様は勝手口から回り込み、お母様の安全を確保なさって」
竜子はそう言うと、目を閉じ、赤い扇子を両手で胸の前に構えた。
彼女の唇が、呪文のような言葉を早口で紡ぎ始める。
「天地を貫く清浄なる気よ、わたくしの扇に集え。澱みし悪意の帳を払い、迷える魂に一条の光を……破!」
竜子が扇子を鋭く一閃させた瞬間、目には見えない空気の波動が、岩瀬家全体を包み込んでいた重苦しい空気を一瞬だけ弾き飛ばしたような感覚があった。
家の中から、かすかに「ガタン!」という何かが倒れるような音が聞こえた。
「今ですわ! 彼女の意識が乱れた隙に!」
「よし、内海、行くぞ!」
友之と香代子は生け垣を飛び出し、足音を殺して家の裏手にある勝手口へと回り込んだ。
勝手口の扉には鍵がかかっていなかった。友之は深呼吸をし、意を決してドアノブを回した。
ギィィ……と、古い蝶番が軋む音を立てて、扉が開く。
薄暗い台所の中に足を踏み入れた途端、あの、アパートの部屋で嗅いだのと同じ、薬品のような甘ったるい香水の匂いが鼻を突いた。
「……お袋!」
友之が声を殺して呼びかけながら、台所から居間へと続く襖を少しだけ開けた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
真新しい仏壇の前に、美智子が正座をさせられていた。そしてその後ろに、黒いタイトスカート姿の工藤梓が立ち、美智子の首元に、鋭く光るカッターナイフの刃を突きつけていたのだ。
美智子の顔は恐怖で青ざめ、目には大粒の涙が浮かんでいる。
「あら。勝手口からコソコソと入ってくるなんて、泥棒さんらしいお作法ですこと」
梓が、狂気をはらんだ笑みを浮かべながら、友之(涼子)の方へとゆっくりと顔を向けた。
その瞳は、もはや人間のそれではなく、完全に常軌を逸した化け物の目だった。友之はギリッと奥歯を噛み締め、怒りで全身を震わせながら、ゆっくりと居間の中へと足を踏み入れた。
狂気の殺人鬼との、後戻りできない最終対決が、ついに火蓋を切ったのである。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




