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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
第三章 死の真相に近づく

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録音データの闇と蘇る記憶 ㈠

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

 完全個室型のインターネットカフェのファミリールームは、高性能な防音壁に囲まれているはずなのに、今の彼らには自分たちの激しい心臓の鼓動が部屋中に反響しているように感じられた。

 デスクトップパソコンの画面には、再生を停止された音声ファイルの波形が、まるで死者の残した最期の心電図のように冷たく静止している。

 岩瀬友之の肉体が、猛毒の附子ブシ――トリカブトの抽出液によって死に至るまでの、おぞましくも生々しい記録。第一発見者を装っていた工藤梓こそが、狂気と執着にまみれた完全犯罪の実行犯であったという揺るぎない事実。

 香代子は両手で顔を覆い、しゃくり上げるような泣き声を必死に押し殺していた。大の大人でも精神に異常を来しそうなほどの恐怖の録音を、八歳の良亮に聞かせてしまったことへの後悔と、かつての同級生が無惨に殺されたことへの深い悲しみが、彼女の心を激しく乱していた。

 良亮は、青ざめた顔で友之の服の裾を両手でギュッと握りしめ、小刻みに震えている。だが、その瞳からは一滴の涙もこぼれていなかった。彼は泣くのを我慢し、自分の恐怖よりも「おじさん」の無念を一身に受け止めようと、必死に唇を噛み締めて耐えていたのだ。


「……あいつ、本当に俺を殺しやがった」


 友之は、マウスを握っていた右手をゆっくりと離し、自分の顔――涼子の滑らかな頬を両手で覆った。

 信じられなかった。仕事では確かに優秀な部下であり、多少距離感がおかしいと感じることはあっても、まさか自分を殺害するほどの狂気を秘めているとは夢にも思わなかった。

 人間という生き物の、底知れぬ恐ろしさ。

 睡眠中という最も無防備な状態の自分を見下ろし、愛情を装った甘い言葉を(ささや)きながら、鼻の粘膜に綿棒で猛毒を塗りつける女の姿を想像し、友之は胃袋が激しく痙攣するような強烈な吐き気に襲われた。


「おーほっほっほっ……とは、流石のわたくしも笑えませんわね」


 竜子が、珍しくいつもの高笑いを封印し、赤い扇子を固く握りしめたまま険しい表情で口を開いた。


「鼻の粘膜からの毒の摂取。胃に内容物が残らないため、解剖されても毒物の特定が非常に困難になるという、極めて悪質で巧妙な手口ですわ。しかも、あの方の言葉の端々に滲み出ていた、あの歪んだ優越感。彼女は岩瀬様の命を奪うこと自体を、究極の『愛の証明』であると信じ込んでおりますの」


 竜子の冷徹な分析に、友之はギリッと奥歯を鳴らした。


「狂ってやがる。俺を殺して、俺を永遠に自分のものにするためだって? ふざけるな。俺はあいつのものになった覚えなんて一度もない!」


 友之が激昂して声を荒らげた、その時だった。

 突如として、友之の脳裏に、鋭いアイスピックでこめかみを突き刺されたような激しい頭痛が走った。


「ぐっ……! ああっ……!」


「おじさん!?」


「岩瀬くん! どうしたの!?」


 友之は頭を抱え込み、パソコンデスクの上に突っ伏した。

 視界が明滅し、耳の奥で先ほどの録音データの音声が、まるで壊れたレコードのようにリフレインし始める。


『だって、友之さんはいつも私を見てくださらないから』


『あんなことまでして、私たち、二人だけの秘密を作った共犯者なのに……』


――共犯者。

 その単語が脳内で再生された瞬間、厚い記憶の壁に亀裂が入り、友之の意識の底から、これまで完全に抜け落ちていた「ある光景」がフラッシュバックとして溢れ出してきた。

 ザアアアアッという、フロントガラスを叩きつける激しい雨の音。

 狂ったように動く車のワイパー。

 小田原から箱根へと続く、急カーブの続く夜の山道。

 友之は、自分の車のハンドルを握っていた。助手席には、なぜか工藤梓が乗っている。彼女は(ひど)く怯えた様子で、あるいは異常な興奮状態で、運転中である友之の左腕に強く抱きついていた。


『主任……私、ずっと主任のことが……!』


『おい、やめろ工藤! 危ないだろ、前が見え……!』


 梓の唐突な行動に気を取られ、ハンドル操作を誤った瞬間。

 ヘッドライトの光の中に、巨大なバックパックを背負い、雨合羽を着た大柄な男の背中が不意に浮かび上がった。

 ブレーキペダルを思い切り踏み込んだが、雨で濡れた路面をタイヤが滑る。

 ドォンッ! という、重く、生々しい衝撃音。

 車体が大きく跳ね、友之はパニックに陥りながら車を急停車させた。

 息を呑んで車の外に飛び出すと、冷たい雨に打たれるアスファルトの上に、バックパックを背負った男が血まみれになって倒れていた。ピクリとも動かない。


『死んでる……。俺、人を轢いちゃったのか……?』


 腰を抜かして震える友之の背中に、傘も差さずに車から降りてきた梓が、背後からそっと抱きついてきた。


『大丈夫ですよ、主任。誰も見ていません。このまま山の中に埋めてしまえば、事故なんて初めからなかったことになりますわ』


『な、何を言ってるんだ! 警察と救急車を呼ばないと!』


『ダメです! 主任はもうすぐ係長に昇進するんでしょう? ここで人殺しになれば、主任の人生は終わってしまいます。私がお手伝いします。私たち二人で、この秘密を永遠に共有するんです……』


 暗闇の中で、梓の目が狂気を帯びて妖しく光っていた。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」


 強烈なフラッシュバックから引き戻され、友之は過呼吸を起こしたように激しく肩を上下させていた。

 顔面は蒼白になり、全身からは滝のような冷や汗が噴き出している。

 今の映像は、一体何だ。ただの悪夢か? それとも、自分が高熱を出す数日前に、実際に起きた「過去の記憶」なのか。

 もしあれが現実なのだとすれば、自分は工藤梓と共に、見知らぬ登山客を車で()ねて殺し、その死体を山に遺棄(いき)したというとんでもない罪を犯したことになる。

 梓の言う「共犯者」とは、そういう意味だったのか。


「……岩瀬くん、しっかりして! 頭痛いの!? 救急車呼ぶ!?」


 香代子が半狂乱になって友之の背中をさすっている。

 友之は必死に呼吸を整え、香代子の手を弱々しく制止した。


「だ、大丈夫だ……。呼ぶな、ちょっと……嫌な記憶を思い出しそうになっただけだ」


 フラッシュバックの中で見た、あのバックパックを背負った男の後ろ姿。

 なぜか、ひどく見覚えがあるような気がした。しかし、今の友之の精神状態では、その男の正体まで考えを巡らせる余裕はなかった。自分が殺人事件の被害者であると同時に、ひき逃げと死体遺棄の加害者かもしれないというおぞましい可能性が、友之の心を真っ黒な恐怖で塗りつぶしていた。

 これ以上は、言えない。香代子にも、良亮にも、自分が過去に犯したかもしれない大罪を告白することなど、とてもできなかった。


「……おじさん、本当に大丈夫? 顔が真っ青だよ」


 良亮が心配そうに覗き込んでくる。その無垢な瞳を見つめ返すことができず、友之はそっと目を逸らした。


「ああ、平気だ。工藤のサイコパスっぷりに、ちょっと眩暈(めまい)がしただけさ」

 友之は無理に強がって見せ、デスクトップ画面に視線を戻した。


「とにかく、これで状況は完全にひっくり返る。この音声データがあれば、警察も俺の死を事件として扱わざるを得ない」


「でも岩瀬くん」


 香代子が、手帳に挟んでいたボールペンを握りしめながら慎重に言った。


「この音声データだけじゃ、決定的な証拠にはならないかもしれないわよ」


「どうしてだ? 工藤が俺に毒を盛った瞬間の音が、バッチリ録音されてるじゃないか」


「それはそうだけど……警察は、このデータが『本物である』という裏付けを要求してくるはずよ。今の時代、AIで他人の声を真似て偽造の音声を作るディープフェイクなんていくらでもあるわ。しかも、工藤梓が『ただの悪ふざけの録音だ。実際に毒なんて使っていない』と言い張れば、警察はどう判断する? 岩瀬くんの遺体はすでに火葬されていて、再解剖して毒物を検出することは不可能なのよ」


 香代子の指摘は、氷のように冷たく、そして極めて現実的だった。

 物証がない。

 被害者の肉体はすでに灰となり、犯行を裏付ける医学的な証拠は永遠に失われている。この音声データ一つを持って警察に駆け込んだところで、「出所不明の怪しいデータ」として一蹴されるか、最悪の場合、データを入手するために工藤の部屋に不法侵入した自分たちが逮捕されるリスクすらあるのだ。


「そんな……。じゃあ、これだけじゃあいつを捕まえられないって言うのか?」


 友之が絶望的な声を上げると、良亮が突然、ポンと両手を叩いた。


「あるよ! 物証!」


「え?」


 全員の視線が良亮に集まる。良亮は、ランドセルから持参した小さなスケッチブックを取り出し、前に描いた図解のページを素早くめくった。


「おじさんの実家に行った時、美智子おばあちゃんが見せてくれた、おじさんのまくらカバーだよ! あの時、端っこに少しだけ黄色いシミがついてたよね?」


 友之の脳裏に、実家の押し入れから引っ張り出したブルーのストライプ柄のまくらカバーの光景が蘇った。

 目視できない程度の、微量なシミ。美智子は「吐き戻した跡かもしれない」と言っていた。


「……そうだ! あのシミだ!」


 友之が弾かれたように立ち上がった。


「工藤は録音の中で、『綿棒を使って鼻の粘膜に毒を塗布する』と言っていた。俺は苦しがって抵抗したし、塗られた直後に激しい痙攣を起こした。その時、俺の鼻水や、粘膜に付着しきれなかった微量の毒液の混ざった唾液が、まくらカバーに付着したんだ! あのシミの成分を警察の鑑識に調べさせれば、間違いなく附子――トリカブトのアコニチンが検出されるはずだ!」


 点と点が繋がり、完全な一本の線となった。

 工藤梓の自白とも言える録音データと、その犯行を物理的に裏付けるトリカブトの成分が付着したまくらカバー。

 この二つの「証拠」が揃えば、警察も言い逃れはできない。完全犯罪の堅牢(けんろう)な壁を打ち破る、絶対的な武器がようやく彼らの手に揃ったのだ。


「やったわね、岩瀬くん! これでいよいよ、あの女を地獄に突き落としてやれるわ!」


 香代子が興奮して友之の両手を握りしめた。

 友之も力強く頷いたが、心の底には、先ほどのフラッシュバックの記憶が重い鉛のように沈殿したままであった。

(俺が裁かれるべき罪は、本当にこれだけなのか……?)

 一抹の不安を抱えながらも、友之はパソコンからUSBメモリを抜き取り、慎重にズボンのポケットの奥深くへとしまい込んだ。


「長居は無用だ。工藤が侵入の痕跡に気づく前に、急いで小田原を離れて箱根に戻ろう。そして、今度こそ県警の捜査一課に直接この証拠を持ち込むんだ」


 一行はインターネットカフェの個室を片付け、周囲を警戒しながら足早に駅へと向かった。

 彼らの背中を、竜子の赤い扇子が厄を(はら)うように静かに見守っていた。

 しかし、運命の歯車はすでに、彼らの予想を遥かに超えた恐ろしい方向へと回転し始めていたのである。証拠を手に入れ、反撃に出ようとした彼らの前に、友之の過去の罪と、工藤一族が抱える深い闇が、黒い口を開けて待ち構えていた。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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