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不可思議事件録1 〜被害者の妻に憑依した男の贖罪と、都市を書き換える少年の『青き龍の設計図』〜  作者: たくみふじ
第三章 死の真相に近づく

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狂気の小部屋と迫る足音 ㈡

青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!

「くそっ、早くしろ……! 頼むから早く進んでくれ!」


 友之はノートパソコンの画面を睨みつけながら、血の滲むような声で呟いた。

 画面中央に表示された緑色のプログレスバーは、九十五パーセントを指したまま、まるで時間が凍りついたかのようにじりじりとした動きを見せていた。

 カン、カン、カン。

 アパートの外階段を上ってくる硬いヒールの音が、一段、また一段と近づいてくる。その無機質な響きは、まるで死神が持つ大鎌がコンクリートを叩く音のように、友之と香代子の神経をギリギリと削り取っていった。

 香代子は顔面を蒼白にし、震える両手で自分の口を強く塞いでいる。

 もし今、工藤梓がこの部屋に入ってくれば、不法侵入の現行犯として警察を呼ばれるのは確実だ。そうなれば、殺人犯である彼女の部屋から証拠を持ち出すどころか、友之たち自身が犯罪者として拘束されてしまう。何より、あの歩道橋で鉄パイプを落としてきたような狂気を持つ女と、この密室で鉢合わせることの恐怖は筆舌に尽くしがたいものがあった。

『コピー中……残り十秒』

 ヒールの音が、二階の廊下へと到達した。

 コツ、コツ、コツ。

 ゆっくりとした足取りで、二〇一号室のドアへと近づいてくる。

『残り五秒』

 ドアの向こう側で、足音がピタリと止まった。

 ハンドバッグのファスナーが開けられ、中から鍵の束が取り出される金属音が、薄いドア越しに恐ろしいほど鮮明に聞こえてきた。

 チャリッ。

 鍵穴に、ディンプルキーが差し込まれる。


「……ピロリンッ」


 その瞬間、ノートパソコンからコピー完了を知らせる電子音が鳴った。

 友之は考えるより先に体が動いていた。パソコンの側面からUSBメモリを乱暴に引き抜き、ポケットにねじ込むと、開いていたアタッシュケースの中にノートパソコンを叩き込み、カチャリと金具を閉めた。

 ガチャリ。

 玄関の重いドアノブが、外側からゆっくりと回される。


「岩瀬くん、こっち!」


 香代子が友之の腕を強く引き、寝室の奥にある備え付けのクローゼットの扉を開けた。二人は折り重なるようにしてその狭い空間へと転がり込み、内側から音を立てないようにそっと扉を閉めた。

 直後、「ただいま戻りました」という、低く甘ったるい女の声が室内に響き渡った。

 クローゼットの中は完全な暗闇だった。

 むせ返るような防虫剤の匂いと、梓が普段使っている薬品のようなツンとする香水の匂いが、狭い空間に充満している。ハンガーに掛けられた無数の衣服が、二人の顔や肩にバサバサと(おお)(かぶ)さってきた。

 友之と香代子は、お互いの存在を確かめ合うように腕を強く掴み合い、息を殺した。心臓の鼓動が早鐘(はやがね)のように打ち鳴らされ、静かなクローゼットの中に響いてしまいそうだった。女性の体であるため、極度の恐怖と緊張で涼子の体がガタガタと小刻みに震え、友之は必死に奥歯を噛み締めてそれを抑え込んだ。

 コツ、コツ。

 靴を脱いだ梓が、リビングへと入ってくる足音が聞こえる。


「……ふふっ。友之さん、お待たせいたしました。少し忘れ物をしてしまって」


 梓の声が聞こえた。

 彼女は、あの不気味なスチールラックの祭壇に向かって、まるで生きている恋人に語りかけるように優しく話しかけていた。

 天井付近に浮かんでいた涼子の魂は、クローゼットの扉をすり抜けて部屋の中の様子を(うかが)っていたが、梓のその狂気に満ちた恍惚(こうこつ)とした表情を見て、ゾッと総毛立つような恐怖を覚えた。

(なんて恐ろしい顔……。この人、完全に心が壊れているわ)

 涼子は、見えない手で自分の口を塞ぎ、ただただ二人が見つからないことを祈り続けていた。

 やがて、梓の足音が寝室へと向かってきた。

 クローゼットのすぐ外で、足音が止まる。

 友之は絶望的な恐怖に襲われた。もし今、着替えるためにこのクローゼットの扉を開けられたら、全てが終わる。

 しかし、梓はベッドの脇に置かれた小さなサイドテーブルの引き出しを開け、カチャカチャと何かを探す音を立てた。


「ありましたわ。お仕事の資料……これがないと、今日の会議に出られませんものね」


 梓の独り言が聞こえ、引き出しが閉められる。

 そして、再び足音が遠ざかり、玄関の方へと向かっていった。

 ガチャリ、というドアの開閉音。

 続いて、外側からしっかりと鍵がかけられる音が響き、ヒールの音が外階段を下りていくのが聞こえた。


「……はぁっ……!」


 足音が完全に聞こえなくなったことを確認し、友之と香代子はクローゼットの扉を転がるようにして開け、寝室の床にへたり込んだ。

 滝のような冷や汗が全身を濡らし、肺の奥まで新鮮な空気を求めて激しく咳き込む。


「た、助かった……。心臓が止まるかと思ったわ……」


 香代子が震える手で胸を押さえながら涙ぐんだ。友之も、ズボンのポケットの上からUSBメモリの硬い感触を確かめ、深く安堵の息を吐き出した。


「ああ……。だが、目的の物は手に入れた。長居は無用だ、すぐに出るぞ」


 友之たちは、アタッシュケースをベッドの下の元の位置に戻し、部屋に自分たちの痕跡が残っていないかを素早く確認すると、合い鍵を使って玄関から脱出した。鍵を元のメーターボックスの裏に隠し、足早にアパートを離れる。

 近くの児童公園まで戻ると、ジャングルジムの陰から良亮と竜子が駆け寄ってきた。


「おじさん! おばちゃん! よかった、無事だったんだね!」


「良亮くん……! あんたが電話してくれなかったら、私たち今頃どうなっていたか分からないわ。本当にありがとう」


 香代子が良亮をきつく抱きしめ、良亮もホッとしたように香代子の背中にしがみついた。

 竜子が赤い扇子をパタパタと扇ぎながら、得意げに微笑んだ。


「おーほっほっほっ! わたくしの言った通りでしたでしょう? あの女の周囲には、濃密な執着の黒い靄が立ち込めておりました。……して、肝心の証拠の品は手に入りましたの?」

「ああ。バッチリだ」


 友之がポケットから銀色のUSBメモリを取り出し、太陽の光にかざして見せた。


「この中に、俺の部屋に仕掛けられていた盗聴器の音声データが入っている。俺が死んだ七月二十日の録音記録だ。これを再生すれば、工藤がどうやって俺を殺したのか、全てが明らかになるはずだ」


 周囲の目を避けるため、彼らは公園を出て、駅前にある完全個室型のインターネットカフェへと移動した。

 ファミリールームと呼ばれる、防音扉のついた広めの個室を借りる。室内には大きなモニターとパソコンが設置されており、周囲に会話や音が漏れる心配はない。

 友之はパソコンを起動し、USBメモリをポートに差し込んだ。

 画面上にフォルダが表示され、あの『〇七二〇』というファイル名の音声データが姿を現した。


「……再生するぞ」


 友之の言葉に、香代子、良亮、竜子は無言で頷き、スピーカーの前に身を乗り出した。

 マウスのカーソルを合わせ、ダブルクリックする。

 数秒の無音の後、スピーカーからザーーッという微かなホワイトノイズが流れ始めた。

 そして、荒い呼吸音が聞こえてきた。


『ハァ……ハァ……うぅ……っ』


 それは間違いなく、高熱にうなされて苦しむ岩瀬友之自身の声だった。寝返りを打つ布団の擦れる音と、重苦しい息遣いが、密室の中で生々しく記録されている。

 十分ほど早送りすると、不意にノイズの質が変わった。


『……ガチャリ』


 玄関の重いドアが開き、そして静かに閉められる音が録音されていた。

 友之と香代子が息を呑む。


『友之さん……?』


 部屋の中に入ってきたのは、紛れもない工藤梓の声だった。

 靴を脱ぐ音。そして、ゆっくりとした足取りで、友之が寝ているベッドへと近づいてくる足音が響く。


『うぅ……ん……誰だ……?』


『私です。梓です。お熱が下がらないと伺ったので、お見舞いに参りましたの』


 熱で意識が朦朧としている友之に対し、梓の声はひどく冷たく、そしてどこか(ゆが)んだ喜悦(よろこび)を含んでいるように聞こえた。


『どうして……入って……。帰れ……うつるぞ……』


『ふふっ。合い鍵を作らせていただきましたの。だって、友之さんはいつも私を見てくださらないから。私がいくら尽くしても、あなたは仕事ばかりで……私の愛を受け入れてくださらない。だから、私、決めたんです』


 スピーカー越しの梓の声が、次第に暗く、狂気じみたトーンへと変化していく。

 カサッ、という、小さなビニール袋を開けるような音が聞こえた。


『友之さん、とても苦しそう。私が、永遠にその苦しみから解放して差し上げますわ。そうすれば、あなたはもうどこにも行かない。ずっと、ずっと私だけのものになるんですもの』


『な、何を……やめろ……っ!』


 友之が必死に抵抗しようとするような、布団が激しく乱れる音がした。

 しかし、熱で力を失っている友之を、梓が力ずくで押さえ込んでいる様子が音から伝わってくる。


『暴れないでくださいな。これは、私が特別に調合したお薬ですの。私の実家の裏山で採れた、最高に美しいお花の球根から抽出した……特製の附子ブシの蜜ですわ』


 附子。トリカブト。

 友之の推測は完全に的中していた。


『これを、少しだけ鼻の粘膜に塗らせていただきますわね。そうすれば、胃袋に成分は残りませんし、すぐに心臓が止まって……誰も毒だとは気づかない。完全な病死になるんです』


『やめっ……ぐぁっ……!!』


 友之の短い悲鳴と、ゴクッという喉を鳴らすような苦しげな音が響いた。綿棒のようなもので、無理やり鼻の奥に猛毒を塗布(とふ)されたのだ。

 直後、バタバタと激しく痙攣(けいれん)するような音が数秒間続き……やがて、部屋の中は完全な静寂に包まれた。


『……ふふっ。あははははっ!』


 静まり返った部屋の中で、工藤梓の狂気に満ちた笑い声だけが、いつまでも不気味に響き続けていた。


「……切るぞ」


 友之は耐えきれなくなり、音声ファイルの再生を停止した。

 インターネットカフェの個室は、おぞましい沈黙に支配されていた。

 自分の死の瞬間。そして、狂気に魅入られた殺人鬼の生々しい手口。

 香代子は両手で顔を覆い、恐怖で肩を震わせて泣き出していた。良亮も青ざめた顔で友之の服の裾を強く握りしめ、竜子でさえも赤い扇子を握る手に力を込め、険しい表情を浮かべている。


「……鼻の粘膜への塗布」


 友之は、ギリッと歯を食いしばりながら、低く絞り出すような声で言った。


「経口摂取じゃないから、胃の内容物を調べられても毒は出ない。そして二十四時間放置されたことで、血液中の毒の成分も代謝されて消えた。だから警察は、急性心不全の病死だと判断したんだ。……完璧な、恐ろしいほどの殺人計画だ」


 だが、彼女は決定的なミスを犯した。

 自分のストーカー行為を記録するための盗聴器を、殺害の直後に回収し損ねたこと。そして、その証拠を自らの手で残してしまったことだ。


「この音声データがあれば、警察も動かざるを得ない。工藤梓の犯行は、これで完全に立証できる!」


 友之がUSBメモリを握りしめ、力強く宣言した。

 ようやく掴んだ、反撃の絶対的な切り札。

 しかし、この時彼らはまだ知らなかった。工藤梓が仕掛けた罠が、単なる毒殺という過去の犯罪にとどまらず、現在進行形で彼ら全員の命を狙う、より巨大で組織的な陰謀へと繋がっていることを。

 夏休みの不可思議な事件の捜査は、彼らを後戻りのできない深い闇の中心へと引きずり込もうとしていた。

X(Twitter)でも連載しています。

https://x.com/TakumiFuji2025

魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。

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