同僚たちの黒い影 ㈢
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
応接室の張り詰めた空気の中、佐藤部長に付き添われて現れた工藤梓は、まるで糸の切れた操り人形のように力なくソファに腰を下ろした。
真っ黒なリクルートスーツのような装いに、血の気を失った蒼白な肌。長く美しい黒髪は少し乱れており、焦点の定まらない虚ろな瞳が床のカーペットの模様をじっと見つめている。一見すると、最愛の上司を突然失い、悲しみのどん底に突き落とされた可憐な女性そのものであった。
しかし、彼女を真っ正面から見据えていた友之の背筋には、蛇に睨まれた蛙のような、本能的な悪寒が走っていた。
(……なんだ、この違和感は。こいつ、本当に悲しんでいるのか?)
友之は、彼女の瞳の奥底に、悲哀とは異なる異質な感情が泥のように沈殿しているのを感じ取っていた。それは深い悲しみというよりも、自分の大切なおもちゃを不条理に奪われたことに対する、静かで冷たい「怒り」あるいは「執着」のように見えたのだ。
「工藤くん。こちら、岩瀬くんの同級生の内海様と、そのお姉様の越智様だ。岩瀬くんの遺品の中から引き継ぎの資料を見つけて、わざわざ届けてくださったんだよ」
佐藤部長が気遣うような優しい声で紹介すると、梓はゆっくりと顔を上げ、香代子と友之(涼子)を順番に見つめた。その視線が友之の顔を横切った瞬間、梓の瞳孔がわずかに収縮したように見えた。
「……工藤梓です。岩瀬主任には、日頃から大変お世話になっておりました。この度は、本当に……」
梓の声はひどく掠れており、消え入りそうだった。
香代子が身を乗り出し、努めて穏やかなトーンで話しかけた。
「工藤さん。お辛い時に無理を言って申し訳ありません。友之さんのご遺族も、彼が最後に見つけていただいた時の状況を知りたがっておりまして。よろしければ、少しだけお話を伺えないでしょうか」
「……はい。私でお答えできることなら」
梓は組んだ両手を膝の上で固く握りしめながら、ポツリポツリと語り始めた。
「主任は、十九日と二十日の二日間、風邪で会社を欠勤されていました。十九日の朝に『熱が下がらないから休む』と短いメールがあったきり、その後は何度電話をかけても繋がりませんでした。主任は責任感の強い方ですから、二日も無断で連絡が取れなくなるなんておかしいと思い……二十日の夕方、定時で仕事を上がった後、心配になってアパートへ様子を見に行ったんです」
「それが、二十日の午後六時頃のことですね」
「はい。ドアのチャイムを鳴らしても、ドアをノックしても返事がありませんでした。嫌な予感がして、一階にいらっしゃった管理人さんを呼んで、マスターキーで鍵を開けてもらったんです。そうしたら、主任がベッドの上で……」
梓はそこで言葉を詰まらせ、両手で顔を覆った。彼女の肩が微かに震えている。佐藤部長が痛ましそうに目を伏せた。
しかし、友之の頭の中では、冷静な論理の歯車が高速で回転し始めていた。
(待て。俺の記憶の最後は、高熱でうなされていたことだ。俺は十九日の朝に会社に休みの連絡を入れた後、ベッドで気を失うように眠った。そして目を覚ましたら、二十日の夜、この涼子さんの体の中だった。……もし俺が二十日の夕方まで生きていたのなら、少しでも意識が戻る瞬間があったはずだ。だが、丸二日間の記憶が完全にすっぽりと抜け落ちている)
友之は、梓の言葉に隠された致命的な矛盾を探り出そうと、涼子の口を借りて鋭い質問を投げかけた。
「工藤さん。友之さんは十九日からお休みされていたのですよね。あなたは彼をとても慕っていらしたようですが、なぜ十九日の仕事終わりには様子を見に行かなかったのですか?」
その瞬間、梓の肩の震えがピタリと止まった。
顔を覆っていた指の隙間から、冷たく鋭い視線が友之を射抜いた。
「……十九日は、月末の処理で残業があり、どうしても抜け出せなかったからです。それに、ただの風邪だと思っていましたから、一日寝ていれば良くなるだろうと……」
「なるほど。ではもう一つだけ教えてください。管理人さんがマスターキーでドアを開けた時、ドアのチェーン、あるいはU字ロックはかかっていなかったのですか?」
友之のその問いに、佐藤部長が不思議そうに首を傾げた。
「越智様、それはどういう……」
「私の知る友之さんは、非常に用心深い性格でした。特に体調を崩して寝込んでいる時は、不用意に人が入ってこられないように、必ず内側からチェーンをかける癖があったのです。もしチェーンがかかっていたのなら、マスターキーだけではドアは開きませんよね?」
友之は確信を持って鎌をかけた。岩瀬友之という男は、実際に高熱で寝込むと強烈な不安感に襲われるため、必ず玄関のU字ロックをかける習慣があったのだ。もし梓が管理人と共に合い鍵でドアを開けたのであれば、U字ロックはかかっていなかったことになる。それはつまり、友之自身が内側から施錠したわけではなく、何者かが「外側から鍵だけを閉めて密室を作った」という決定的な証拠になる。
梓は、ゆっくりと顔から手を離した。
その顔から「悲劇のヒロイン」の仮面が完全に剥がれ落ちていた。能面のように無表情な顔で、梓は友之をじっと見つめ返した。
「……いいえ。チェーンはかかっていませんでした。管理人さんが鍵を開けたら、そのままスムーズにドアは開きました」
「そうですか。友之さんは、よほど熱で苦しくて、チェーンをかける余裕すらもなかったのですね。……それとも、誰か『別の人間』が外から鍵を閉めたからでしょうか」
友之が低く冷ややかな声で言い放つと、応接室の空気が一瞬にして氷点下まで凍りついた。
梓の瞳の奥で、真っ黒な炎が揺らめいたのを友之は見逃さなかった。彼女の指先が、スカートの布地を白くなるほど強く握りしめている。
これ以上の追及は危険だ。そう判断した香代子が、咄嗟に立ち上がって深々と頭を下げた。
「姉が失礼なことを申し上げました! 申し訳ありません。大切な友人を亡くして、姉も少し気が立っているようです。お忙しい中、お時間をいただきありがとうございました。お話はこれくらいにさせていただきます」
香代子は友之の腕を半ば強引に引っ張り、応接室から退室した。佐藤部長が慌てて立ち上がり、「どうかお気になさらず」と見送ってくれたが、梓はソファに座ったまま、一度も振り返ることなく虚空を睨みつけていた。
天井付近を漂っていた涼子の魂は、梓の放つ異様なプレッシャーに震え上がっていた。
(なんて怖い女なの……! あの人、岩瀬くんの質問に答えている時、絶対に心の中で舌打ちをしていたわ。あの目は、人を殺せる目よ!)
母親としての本能が、あの女には近づいてはならないと強烈な警鐘を鳴らしていた。
会社を後にし、夏の太陽が容赦なく照りつける大通りへと出た二人は、無言のまま足早に歩き、良亮と竜子が待つファミリーレストランへと駆け込んだ。
冷房の効いた店内のボックス席に滑り込むと、友之はドッと深い溜め息をつき、テーブルに突っ伏した。
「お帰りなさい。……おじさん、すごく疲れた顔をしてるね」
メロンソーダの氷をストローでつつきながら、良亮が心配そうに声をかけた。
友之は顔を上げ、香代子と真剣な視線を交わした。
「……間違いない。あいつは嘘をついてる。俺の記憶が正しければ、俺は十九日の朝にベッドに入った時、間違いなく玄関のU字ロックをかけた。だが、二十日の夕方に工藤が管理人と入ってきた時、ロックはかかっていなかった」
「つまり、岩瀬くんがU字ロックをかけた後から、工藤梓が管理人と部屋に入るまでの間に、誰かが岩瀬くんの部屋に入ってU字ロックを外し、外から鍵だけを閉めて出て行ったってことね」
香代子が深刻な顔で結論を口にした。
「合い鍵を持っていれば、外から鍵を閉めることはできる。工藤梓なら、合い鍵を密かに作っていた可能性は十分にあるわ。でも、どうして彼女は十九日ではなく、二十日の夕方になってから管理人を呼んで部屋を開けたのかしら?」
その疑問に答えたのは、静かにオレンジジュースを飲んでいた竜子だった。
竜子は赤い扇子をテーブルの上に置き、凛とした声で言った。
「時間稼ぎですわ。毒物の隠蔽工作、あるいは……何らかの証拠が消滅するのを待つための、完全なる空白の二十四時間」
その言葉に、全員が息を呑んだ。
「おーほっほっほっ! わたくし、先ほどビルの外から彼女の気配を読ませていただきましたけれど、あの方の周囲には重く澱んだ『怨嗟』の言霊がまとわりついておりました。愛と支配は表裏一体。自分の思い通りにならないものを、永遠に自分のものにするための究極の手段……それが『死』ですわ。彼女は間違いなく、岩瀬様の命を奪った黒幕です」
竜子の圧倒的な断言により、彼らの中で「工藤梓犯人説」が確信へと変わった。
第一発見者を装うことで警察の目を欺き、完全犯罪を成し遂げようとした狡猾な女。
彼女の犯行を立証するためには、決定的な物的証拠が必要だ。そしてその証拠は、彼女の身辺、あるいは彼女の住むアパートに隠されている可能性が高い。
「よし。次は工藤のアパートを洗う。あいつが俺を殺した動機と、その手段を必ず暴き出してやる」
友之が拳を固く握りしめると、良亮も力強く頷いた。
見えない殺人鬼との直接対決が、静かに、しかし確実にその火蓋を切って落とそうとしていた。彼らの夏休みの捜査は、後戻りのできない危険な領域へと足を踏み入れていくのである。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




