同僚たちの黒い影 ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
箱根の山々を背に、相模湾からの湿った海風が吹き込む小田原市内のオフィス街。
容赦なく照りつける八月の太陽が、アスファルトの表面で陽炎を作って揺らめいていた。時刻は午前十時を回ったところである。
駅前の大通りに面した、ガラス張りの近代的な八階建てのオフィスビル。その五階に、岩瀬友之が直前まで勤務していた「〇〇製薬株式会社・小田原営業所」が入っている。
ビルの入り口から少し離れた場所にあるファミリーレストランの窓際席で、良亮と竜子はクリームソーダを前にして待機していた。
「いいこと、良亮くん。私たちはここから一歩も動かない約束よ。もし何かあっても、竜子ちゃんがいるから大丈夫。おばちゃんたち、パパッとお話しして戻ってくるからね」
香代子が良亮の頭を撫でて言い聞かせると、良亮はストローを咥えたまま力強く頷いた。
「うん、分かった。香代子おばちゃんも、おじさんも、気をつけてね」
「おーほっほっほっ! ご安心なさいな。このビルの気の流れは、ここからでもわたくしの赤い扇子でしっかりと把握できておりますわ。もし内海様や岩瀬様に悪意の刃が向けられそうになれば、即座に波長を乱して妨害して差し上げますわ!」
竜子が胸を張って宣言するのを見て、友之と香代子は顔を見合わせ、苦笑しながらファミリーレストランを後にした。
今日の友之は、香代子が持参した涼子の服の中から、最もビジネスライクなベージュのパンツスーツを身に纏っていた。昨日のワンピースで懲りた友之が「どうしてもズボンがいい」と頑なに主張したためだ。ヒールの低いパンプスを履き、髪も後ろで一つにすっきりとまとめられている。外見はどこからどう見ても、洗練された大人のキャリアウーマンであった。
オフィスの自動ドアを抜けると、ひんやりとした冷房の空気が全身を包み込んだ。
エレベーターで五階へと上がり、〇〇製薬のガラス扉の前に立つ。
友之の心臓が、早鐘のように打ち始めた。
(ここは……俺の職場だ。たった数週間前まで、毎日ここで汗水垂らして働いてたんだ)
ガラス扉の向こうには、見慣れたオフィスフロアが広がっている。電話の応対をする事務員の声、パソコンのキーボードを叩く乾いた音、コピー機が稼働する機械音。つい先日まで自分の一部であったはずのその日常の風景が、今はひどく遠く、まるでガラス細工の作り物のように感じられた。
すれ違う社員たちは、皆一様に忙しそうに歩き回り、友之の顔(つまり越智涼子の顔)を見ても、誰一人として挨拶をしてこない。当たり前だ。彼らにとって、目の前に立っている女性は「見知らぬ来客」でしかないのだから。
自分がこの世界から完全に消去され、赤の他人としてかつての自分の居場所を見つめている。その圧倒的な疎外感と喪失感に、友之は足がすくみそうになった。
「……大丈夫? 岩瀬くん」
香代子が小声で囁き、友之の腕をそっと支えた。
「ああ……。なんとも言えない気分だな。俺の席には、もう別の奴が座ってる。俺が死んでも、会社はこれっぽっちも止まらずに回り続けてるんだ」
自嘲気味に笑う友之に、香代子は力強く首を横に振った。
「そんなことないわ。岩瀬くんがいなくなって、絶対に悲しんでる人はいる。ほら、行くわよ。胸を張って」
香代子に促され、二人は受付の内線電話を取り上げた。
昨日電話でアポイントを取っていた佐藤営業部長を呼び出すと、すぐに恰幅の良い五十代半ばの男性が応接室へと案内してくれた。佐藤部長は、友之が新入社員の頃から世話になっていた直属の上司である。
通された応接室は、白を基調とした無機質な空間だった。革張りのソファに向かい合って座ると、佐藤部長は深くため息をつき、悲痛な面持ちで口を開いた。
「内海様、そして越智様。本日は遠いところをわざわざお越しいただき、恐縮です。岩瀬くんの急逝につきましては、我々もいまだに信じられない思いでおりまして……。本当に、営業部の右腕をもがれたような喪失感です」
佐藤部長のその言葉に嘘はなさそうだった。彼の目の下には濃いクマがあり、急な欠員による業務のしわ寄せと、部下を失った心労が色濃く表れていた。
香代子が用意していた書類の入った茶封筒をテーブルに置いた。
「こちらこそ、お忙しいところお時間をいただき申し訳ありません。実は、岩瀬くんの……友之さんの実家で遺品の整理を手伝っておりましたところ、こちらのごく私的な荷物の中から、会社の重要な取引先に関する引き継ぎメモのようなものが見つかりまして。郵送するのもはばかられましたので、直接お持ちした次第です」
「おお、それはご丁寧に……。確かに岩瀬くんは、いくつも大きな案件を抱えたまま亡くなってしまったので、我々も資料の散逸には頭を悩ませていたのです。助かります」
香代子の見事な嘘に、佐藤部長はすっかり騙され、安堵したように茶封筒を受け取った。
「あの、佐藤部長」
香代子が、探りを入れるように少しだけ声をひそめた。
「昨日お電話で伺ったのですが……友之さんを発見されたのは、第一発見者の部下の女性だったとか。もしよろしければ、その時の状況をもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。ご遺族であるお母様も、彼が最期にどのような状態だったのか、ひどく気に病んでおられまして……」
「ああ、お母様が……。それはそうですよね」
佐藤部長は顔を曇らせ、重い口を開いた。
「岩瀬くんを発見したのは、彼の直属の部下だった工藤梓という女性社員です。彼女は岩瀬くんのことをとても慕っておりましてね。彼が風邪で二日連続で無断欠勤した時、真っ先に『様子を見に行ってきます』と飛び出していったのが彼女でした」
佐藤部長の説明によると、状況はこうだ。
七月二十日の夕方、工藤梓は仕事を早退して岩瀬のアパートへ向かった。ドアのチャイムを何度も鳴らし、スマートフォンにも電話をかけたが、一向に反応がない。ドアノブを回しても、鍵がしっかりとかかっていた。
ただならぬ気配を感じた工藤は、アパートの管理人に連絡を取り、マスターキーで鍵を開けてもらった。そして、ベッドの上で冷たくなっている岩瀬を発見したのだという。
「……管理人の立ち会いのもとで、鍵を開けたのですね」
香代子が確認するように尋ねると、佐藤部長は頷いた。
「ええ。警察の事情聴取でも、管理人さんがそう証言していると聞いています。部屋の中は荒らされた形跡もなく、岩瀬くんはまるで眠っているような安らかな顔だったそうです。検死の結果は急性心不全。おそらく、高熱にうなされている間に心臓に急激な負担がかかり、そのまま意識を失うようにして息を引き取ったのだろうと……」
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