夜風の誓いと次なる標的 ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
「工藤梓……。岩瀬くんの部下の女性ね」
香代子はメモ帳にその名前を書き込みながら、ペン先でコツコツと机を叩いた。
「彼女が第一発見者だったっていうのは、昼間に会社に電話した時に部長さんも言っていたわ。でも、どうして彼女が真っ先に疑わしいの? ただ単に、上司が何日も無断欠勤しているから心配して様子を見に来た、っていうのが普通の見方じゃない?」
香代子の真っ当な疑問に対し、友之は深く息を吐き出し、険しい顔で腕を組んだ。
「普通ならそうかもしれない。だが、俺のアパートには部下がふらりと様子を見に来るような間柄のやつはいなかったし、何より引っかかるのは『部屋に入れた』ってことだ」
「部屋に入れた?」
「ああ。お袋も言ってたが、俺のアパートはオートロックじゃない代わりに、玄関の鍵はピッキング対策のされたかなり頑丈なディンプルキーだ。俺は高熱で意識が朦朧としていたとはいえ、不用心に鍵を開けっ放しにして寝るような性格じゃない。もし工藤が様子を見に来て、チャイムを鳴らしても俺が出なかったら、普通はどうする?」
友之の問いに、良亮がすぐに答えた。
「管理人さんに事情を話して、合い鍵で開けてもらう」
「その通りだ、坊主」友之は頷き、言葉を続けた。「だが、もし管理人を呼んで鍵を開けさせたのなら、第一発見者は工藤と管理人の『二人』になるはずだ。警察の調書がどうなっているかは俺たちには分からないが、もし工藤が『一人』で部屋に入っていたのだとしたら……彼女はどうやって施錠されたドアを開けたんだ?」
その指摘に、香代子はハッと息を呑んだ。
「まさか……彼女、岩瀬くんのアパートの合い鍵を持っていたってこと?」
「分からない。だが、その可能性はゼロじゃない。もし合い鍵を持っていたのだとすれば、彼女は俺が寝込んでいる部屋にいつでも自由に侵入できたことになる。そして、もし俺を殺した犯人が彼女なら……急性心不全に見せかけて毒を盛ることも、十分に可能だったはずだ」
友之の口から語られる恐ろしい推測に、和室の空気が再び凍りついた。
第一発見者でありながら、実は合い鍵を使って部屋に侵入した殺人鬼。もしその推測が事実であれば、彼らがこれから接触しようとしている相手は、完全犯罪を目論む冷酷で狡猾な異常者ということになる。
「ねえ、おじさん」
良亮が、不安そうに眉をひそめて尋ねた。
「その工藤さんって、どんな人なの? おじさんのこと、嫌いだったのかな」
友之は少しだけ視線を宙に浮かせ、記憶の中にある工藤梓の姿を思い浮かべた。
「嫌い……いや、逆かもしれないな」
「逆?」
「ああ。工藤は今年で二十八歳になる。スタイルが良くて、営業成績もそこそこ優秀な女だ。だが、どこか影があるというか、人との距離感が少しおかしいところがあった。俺が部下として何度か飲みに連れて行った時から、妙に俺のプライベートを探ってくるようになってな。休日の予定を聞いてきたり、頼んでもいないのに俺のデスクの周りを掃除したり……。正直、少し執着されているような息苦しさを感じていたんだ」
その言葉を聞いて、香代子が顔をしかめた。
「ちょっと岩瀬くん。それって完全にストーカー一歩手前じゃないの。なんでそんなの放っておいたのよ」
「ストーカーって……そこまで明確な被害があったわけじゃないし、仕事上は優秀な部下だったから、邪険に扱うわけにもいかなかったんだよ。それに俺は、鈍感だってよく言われてたからな」
「鈍感すぎるわよ! だから隙を突かれて殺されちゃうのよ!」
香代子の容赦ないツッコミに、友之は反論できずに項垂れた。
天井の涼子も、「岩瀬くんったら、昔から女の子の気持ちに鈍感なところがあったものね……」と呆れ半分、心配半分で溜め息をついていた。
「おーほっほっほっ!」
深刻な空気を打ち破るように、竜子が赤い扇子を広げて優雅に笑った。
「人間の『執着』とは、時に最も重く、黒い言霊を生み出すものですわ。愛が憎悪に反転した時、その負のエネルギーは人を死に至らしめるほどの毒となります。その工藤梓という女性、間違いなく岩瀬様の『死』の因果の中心に位置しておりますわね」
竜子の断言により、次なる行動目標は完全に固まった。
「明日は平日だ。会社に行けば、確実に工藤に会える」
友之が立ち上がり、決意を込めた声で言った。
「俺たちが直接会社に乗り込んで、彼女と接触する。もちろん、俺の顔はこの通り涼子さんのものだから、正体がバレる心配はない。内海、明日も『岩瀬の同級生』の設定で頼むぞ。遺品の中から会社の重要な資料が出てきたから、直接部下の工藤さんに引き継ぎたい、って口実で呼び出すんだ」
「分かったわ」香代子も力強く頷く。「相手がもし本当に殺人犯なら、ボロを出すように誘導してみせる。私、昔から口喧嘩だけは誰にも負けたことないんだから」
頼もしい妹の言葉に、友之は苦笑しながらも安堵の息を漏らした。
しかし、良亮が不満そうに口を尖らせた。
「僕と竜子ちゃんはどうするの? 会社には入れないでしょ?」
「ああ、お前たちは少し離れた安全な場所で待機しててくれ。もし工藤が危険な人物だった場合、子供を巻き込むわけにはいかないからな」
「嫌だ! 僕も行く! パパみたいに、おじさんがまた一人でいなくなっちゃったらどうするのさ!」
良亮が頑なに首を横に振る。彼にとって「大切な大人が一人でどこかへ行く」という状況は、七年前の父親の失踪という最大のトラウマを強烈に刺激するものだったのだ。
友之は良亮のその必死な思いを理解し、少しだけ困ったように眉を下げた。
その時、竜子が良亮の肩にポンと手を置いた。
「ご安心なさいな、越智さん。わたくしたちは会社の中には入りませんが、外からしっかりと彼らを援護いたしますわ」
「援護?」
「ええ。わたくしのこの赤い扇子があれば、建物の外からでも中の気の流れを読み取り、もし岩瀬様たちに悪意が向けられた時には、微弱ながらも結界を張って身をお守りすることができますの。ですから、お二人を信じて、外で見張り番をいたしましょう」
竜子の自信に満ちた言葉に、良亮は少しだけ躊躇いながらも、「……うん、分かった。その代わり、絶対におじさんもおばちゃんも無事で戻ってきてね」と渋々承諾した。
「ああ、約束する。絶対に無事で戻ってくるさ」
友之は良亮の頭を撫で、香代子と顔を見合わせた。
作戦は決まった。
翌日、彼らは製薬会社の箱根支店へと乗り込み、因縁の部下・工藤梓との直接対決に挑む。
夜が更け、旅館の部屋の明かりが消された後も、友之は暗闇の中でじっと目を開けていた。
隣の布団では、良亮が静かな寝息を立てている。その小さな寝顔を見つめながら、友之は改めて自分の背負っているものの重さを実感していた。
三十四歳の母親の体を借り、その妹と息子、そして不思議な力を持つ少女と共に、自分自身の殺人事件の謎を追う。誰も信じてはくれないであろう、荒唐無稽で絶望的な状況。
しかし、今の友之の心には、死の恐怖よりも、この愛すべき奇妙な「家族」を守り抜きたいという強い意志が燃え上がっていた。
(見ててくれ、俺の本当の体。そして涼子さん。俺は絶対に、俺の死の真相を暴いてみせる。そして必ず、この体を涼子さんに返す。だから……もう少しだけ、俺に力を貸してくれ)
友之の魂の祈りは、静かな箱根の夜風に乗り、天井で彼を見守る涼子の魂へと確かに届いていた。
不可思議な事件の幕開けから始まった彼らの長い夏休みは、いよいよ核心となる「容疑者」との対面に向けて、静かに、しかし劇的に加速し始めていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




