母の勘と線香の煙 ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
静まり返った客間に、美智子のむせび泣く声だけが切なく響いていた。
彼女の震える両手が、畳に四つん這いになっていた友之の顔――すなわち、涼子の端正な頬――をそっと両側から包み込んだ。その手のひらから伝わってくる温もりと、わずかに震える感触に、友之はもう誤魔化すことを完全に諦めた。
「……ああ。ごめんな、お袋。こんな姿になっちまって」
友之が低く掠れた声で答えると、美智子はボロボロと大粒の涙をこぼしながら、涼子の体をきつく抱きしめた。
「やっぱり……やっぱり友之なのね! 姿は全然違うのに、私には分かるわ。あなたが私の息子だってことくらい、母親だもの、直感で分かるのよ!」
「痛え、痛えよお袋! 首が絞まってるって!」
友之は苦しそうにもがきながらも、自分を抱きしめる母親の腕の強さに、不覚にも泣きそうになっていた。自分が死んだと聞かされ、どれほどこの母親は一人で悲しみに暮れていたことだろうか。親より先に死ぬことの最大の親不孝を、身をもって痛感していた。
香代子がハンカチで目頭を押さえながら、二人の奇妙な、しかし紛れもない親子の再会を見守っている。良亮も、友之の背中を小さな手で優しくさすっていた。
「……信じられないお話でしょうが、これが現実なのですわ」
竜子が赤い扇子を静かに揺らしながら、美智子に向かって凛とした声で告げた。
「ご子息の魂は、間違いなくこの越智涼子様の肉体に宿っております。そして、このお体を本来の持ち主にお返しするためにも、私たちは岩瀬様がご逝去された『本当の理由』を解き明かさなければならないのです」
美智子は涙を拭い、竜子と香代子、そして良亮を順番に見つめた後、深く頷いた。彼女の瞳には、先ほどまでの悲しみとは違う、母親としての強い決意の光が宿っていた。
「そういうことでしたのね。香代子ちゃん、それに竜子ちゃん、良亮くん。うちの馬鹿息子がご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
「馬鹿息子って言うなよ! 俺だって被害者なんだからな」
「黙っていなさい! いい大人が他人の、しかも女性のお体をお借りしているのよ。少しは申し訳ないと思いなさい!」
美智子にピシャリと叱られ、友之は肩をすくめて黙り込んだ。外見は三十四歳の母親と五十七歳の女性のやり取りだが、その力関係は完全に昔のままの岩瀬家の親子であった。
天井付近に浮かぶ涼子の魂は、クスッと微笑みながらその光景を見つめていた。
(ふふっ。岩瀬くん、お母様には全然頭が上がらないのね。でも、なんだかすごく温かいわ)
その後、香代子がこれまでの経緯と、友之の死が病死ではなく「他殺」である可能性が高いことを美智子に説明した。
美智子は顔面を蒼白にしながらも、震える手をギュッと握りしめてその事実を受け止めた。
「誰かが、あの子の命を奪ったというのですね……。警察は心不全だと仰っていましたけれど、私には信じられませんでした。あんなに健康で、仕事に燃えていた子が、ただの風邪でぽっくり逝ってしまうなんて。……ええ、協力いたします。友之の無念を晴らすためなら、この母にできることは何でもいたしますわ!」
美智子の全面的な協力を得た一行は、午後から友之が暮らしていたアパートへ向かうことになった。
友之の住んでいたアパートは、実家からバスで数停留所離れた、小田原市寄りの閑静な住宅街にあった。築二十年ほどの、ごく一般的な単身者用のコーポである。
大家にはすでに解約の手続きを済ませており、美智子が少しずつ遺品の整理と片付けに通っている最中だった。
美智子が持っていた合い鍵でドアを開け、部屋の中へと足を踏み入れる。
「うわぁ……何もないね」
良亮が呟いた通り、部屋の中はすでに生活感が失われ、段ボール箱がいくつも積まれた無機質な空間へと変わり果てていた。本棚は空になり、テレビや冷蔵庫などの大型家電にはリサイクル業者の引き取り伝票が貼られている。
友之は、自分の部屋だったはずのその空間に立ち尽くし、言いようのない虚無感に襲われていた。
ここに自分が生きていたという痕跡が、見事なまでに消え去ろうとしている。死ぬということは、こういうことなのだ。世界から自分の存在が物理的に消去されていく過程を、他人の肉体を借りて目撃させられる残酷さに、友之は言葉を失っていた。
「……岩瀬くん、大丈夫?」
香代子が心配そうに声をかけると、友之はハッとして顔を上げ、無理に笑みを作った。
「ああ、大丈夫だ。ただ、自分の部屋が片付けられてるのを見るってのは、なんとも言えない気分だな。……お袋、俺の私物はもう全部捨てちまったのか?」
「いいえ、大切なものはまだ実家に運んでいないのよ。洋服や仕事の書類は段ボールに詰めたけれど、あの日、あなたが亡くなっていたベッドの周りのものは、なんだか手をつけるのが辛くて……押し入れの中にまとめてあるわ」
美智子の言葉に、友之と香代子は顔を見合わせた。
「お袋、それを見せてくれ。俺が息を引き取った時の寝具に、何か証拠が残ってるかもしれない」
美智子に案内され、和室の押し入れを開けると、そこには友之が使っていた布団一式と、幾つかの日用品が無造作に押し込まれていた。
友之は押し入れから枕とまくらカバーを引っ張り出し、明るい窓際へと持っていった。
それは、ごく普通のブルーのストライプ柄のまくらカバーだった。友之は顔を近づけ、目を皿のようにして生地の表面を観察した。
「……ん? なんだこれ」
友之が指差した先、まくらカバーの端の方に、ごく微量だが、薄黄色いシミのようなものが付着していた。目視ではほとんど気づかない程度の、小さな汚れである。
「お袋、俺はよだれを垂らして寝るような癖はあったか?」
「嫌だわ、そんな汚い癖はないわよ。でも、それはお洗濯する前のものだから、もしかしたら風邪で苦しんでいた時に、何か吐き戻してしまった跡かもしれないわね」
「吐き戻し……」
友之は、竜子の言葉を思い出していた。
外部からの強い力、あるいは悪意による死。もしこれが毒物による他殺だった場合、この微量なシミの中に、何らかの化学成分が残されている可能性がある。
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