母の勘と線香の煙 ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
箱根の朝は、河崎のそれとは比べ物にならないほど清々しい空気に満ちていた。
旅館の朝食を済ませた一行は、身支度を調えて早々にチェックアウトを済ませた。空は抜けるように青く、山々から吹き下ろす風が、じりじりと照りつける太陽の熱を心地よく和らげてくれる。観光客で賑わい始める駅前を背に、彼らは箱根登山バスに乗り込み、友之の実家がある静かな住宅街へと向かった。
バスに揺られながら、友之は窓の外を流れる見慣れた景色を無言で見つめていた。女性用の紺色のサマードレスの裾をギュッと握りしめるその手は、微かに白く張っている。
自分が死んだという事実を知ってから一夜が明け、友之の心には徐々にその重みがのしかかってきていた。三十二年間の人生が、何者かの手によって強制終了させられた。自分の部屋はもう空っぽで、会社での席もなく、この世のどこにも「岩瀬友之」という人間の居場所は残されていないのだ。
そして何より、彼を苦しめていたのは、これから会いに行く人物のことだった。
「……なぁ、内海。やっぱり俺が行くのはマズいんじゃないか。俺が死んで一番悲しんでるのは、親父を早くに亡くして、俺を一人で育ててくれたお袋なんだ。そんなお袋の前に、他人の顔をして現れるなんて……残酷すぎるだろ」
友之が苦しげに呟くと、隣に座っていた香代子が、その震える手をそっと自分の手で包み込んだ。
「岩瀬くんの気持ちは痛いほど分かるわ。でも、お母様はあなたの身に起きた異変に、何か気づいているかもしれない。事件の手がかりを掴むためには、絶対に避けては通れない道なのよ。それに……あなたも、ちゃんとお母様にお別れが言いたいでしょう?」
香代子の優しくも厳しい言葉に、友之は唇を噛み締め、深く頷いた。
「設定は昨日打ち合わせた通りね。私は岩瀬くんの小学校の同級生。お姉ちゃん……岩瀬くんは、私の姉で、岩瀬くんが河崎の営業所にいた頃に取引先としてお世話になった友人。お葬式に参列できなかったから、どうしてもお線香をあげたいってお願いして、連れてきてもらった。これでいくわよ」
香代子の確認に、友之は「分かった」と短く答えた。
バスを降り、蝉時雨が降り注ぐ緩やかな坂道を上っていく。良亮と竜子も、今日ばかりは無駄口を叩かず、大人たちの緊張した足取りに静かに付き従っていた。
やがて、手入れの行き届いた生け垣に囲まれた、古い木造の日本家屋の前に辿り着いた。表札には「岩瀬」の文字が刻まれている。友之が生まれ育った、紛れもない彼の実家であった。
友之は門の前で立ち止まり、大きく深呼吸をした。涼子の華奢な胸が大きく上下する。
「よし……行くぞ」
香代子がインターホンを押すと、しばらくして家の中からパタパタという慌ただしい足音が聞こえてきた。
ガラリと玄関の引き戸が開き、一人の女性が姿を現した。
「はいはい、どちら様でしょうか……あっ!」
女性は顔を出した途端、玄関の段差でスリッパを引っ掛け、前のめりにつんのめりそうになった。
「危ねえっ!」
友之が反射的に手を伸ばし、女性の肩を支える。女性は「ひゃあ!」と小さな悲鳴を上げ、友之の腕の中でほうほうの体で体勢を立て直した。
「も、申し訳ありません! 私としたことが、お客様の前でなんという無様な姿を……。本当にそそっかしくて嫌になりますわ」
女性は顔を真っ赤にして謝罪しながら、乱れた白髪交じりの髪を上品な手つきで整えた。
彼女こそが、岩瀬友之の母親、岩瀬美智子(五十七歳)であった。薄紫色の落ち着いたブラウスに黒いスカートという地味な装いだが、その立ち振る舞いや言葉の端々には、隠しきれない育ちの良さと気品が漂っている。しかし、今の転倒未遂が示す通り、彼女は生来の極度なおっちょこちょいでもあった。
「いえ、お怪我がなくて何よりです。……あの、突然の訪問で申し訳ありません。私、友之さんの小学校の同級生だった、内海香代子と申します」
「まあ……内海さん? 確か、三年生の時に河崎へお引っ越しされた……」
「はい。覚えていてくださって光栄です。本日は、どうしても友之さんにお線香をあげさせていただきたく、姉の涼子と、その息子の良亮、そして友人の竜子ちゃんを連れて参りました。姉は、友之さんが以前お仕事でお世話になっていたそうで……」
香代子がスラスラと設定通りの挨拶を述べると、美智子の瞳にスッと悲しみの色が広がった。
「そうでしたか……。遠いところを、友之のためにわざわざありがとうございます。息子も、さぞかし喜んでいることでしょう。どうぞ、散らかっておりますが、お上がりになってください」
美智子に案内され、一行は静かに家の中へと入った。
廊下を歩く間、友之は懐かしい実家の匂いに胸を締め付けられていた。古い木の匂いと、美智子が昔から愛用しているお香の微かな香り。どこを見ても、自分の生きていた証しが残っている。
通された客間には、まだ真新しい仏壇が置かれ、その前には小さな祭壇が設けられていた。
そして、祭壇の中央には、黒いリボンがかけられた遺影が飾られている。
写真の中で微笑んでいるのは、スーツ姿で少しはにかんだような笑顔を浮かべる、岩瀬友之自身の姿だった。
「…………」
自分の遺影を他人の体で見上げる。そのあまりにもシュールで、絶望的な光景を前に、友之の足は床に縫い付けられたように動かなくなってしまった。
写真の横には、「俗名 岩瀬友之 享年三十二」と書かれた白木の位牌が置かれている。間違いなく、自分は死んだのだという冷徹な事実が、鋭い刃となって友之の胸を容赦なくえぐった。
「ママ……」
良亮が、立ち尽くす友之の手に、自分の小さな手をそっと重ねた。良亮の温もりが、友之の凍りつきそうになっていた心をわずかに引き戻してくれた。
天井付近に浮かんでいた涼子の魂も、祭壇の前で静かに手を合わせていた。
(岩瀬くん……。こんなの、あまりにも残酷すぎるわ。でも、ちゃんと向き合って。私たちが、絶対にあんたの無念を晴らしてあげるから)
涼子は、美智子の背中を悲痛な思いで見つめていた。最愛の息子を突然失った母親の悲しみは、同じ親である涼子にとって、想像するだけで身が引き裂かれるほどの痛みだった。
「どうぞ、お線香をあげてやってください」
美智子に促され、友之は静かに祭壇の前へと進み出た。
座布団の上に正座をする。しかし、その座り方は、女性特有の膝を揃えた美しいものではなく、両膝を少し広げ、背中を丸めた男性的なものだった。美智子がその背中を見て、わずかに首を傾げる。
友之は震える手で線香を一本手に取り、ろうそくの火を移した。香炉に線香を立て、チーンと澄んだ音色でおりんを鳴らす。
目を閉じると、様々な感情が濁流のように押し寄せてきた。
(お袋……。ごめんな。親より先に死ぬなんて、一番の親不孝だ。お袋を残して逝くなんて、俺は最低の息子だ。……でも、俺はまだここにいる。姿は変わっちまったが、絶対に俺を殺した犯人を捕まえて、お袋に真実を伝えてみせるからな)
友之は心の中で深く謝罪し、長い時間、手を合わせ続けた。
その間、美智子は少し不思議そうな顔をして、「涼子」の背中をじっと見つめていた。線香を持つ手の角度、おりんを鳴らす時の微かな手首のスナップ、そして座布団の上での無防備な背中の丸め方。それは、三十四歳の美しい女性がする所作としてはあまりにも不自然で、そして……美智子にとっては、どこかひどく見覚えのある癖だった。
「……涼子さん、とおっしゃいましたね」
友之が振り返ると、美智子が少し目を潤ませながら微笑んでいた。
「息子と、とても親しくしていただいていたのですね。あの子は仕事人間で、あまりプライベートのことは私に話さなかったのですが……涼子さんのようなお綺麗な方にお世話になっていたと知って、なんだか安心いたしました」
「あ、いえ……俺……私は、その、友之さんには本当によくしていただいて……」
突然話を振られ、友之は慌てて女性の言葉遣いを取り繕おうとしたが、激しく動揺して声が裏返ってしまった。
「さあさあ、冷たい麦茶を淹れてまいりますから、どうぞ足を崩して楽になさってくださいね」
美智子はそう言うと、逃げるようにそそくさと台所へ向かった。
数分後。お盆に麦茶の入ったグラスと、茶菓子を乗せて戻ってきた美智子だったが、客間の入り口で再び特大のドジを踏んでしまった。
畳の縁に足の指を引っ掛け、体勢を崩したのだ。
「ああっ!」
お盆が傾き、一番手前にあったグラスから、冷たい麦茶がバシャッと畳の上にこぼれ落ちてしまった。
「お袋っ! 何やってんだ!」
その瞬間、友之は頭で考えるより先に体が動いていた。
彼は弾かれたように立ち上がると、「涼子」の体であることも、設定も全て忘れ去り、部屋の隅に置かれていた小さな茶箪笥へと一直線に歩み寄った。そして、迷うことなく一番下の引き出しを開け、そこに常備されている清潔な布巾を鷲掴みにすると、こぼれた麦茶を素早い手つきで拭き始めた。
「全く、昔からお袋のそそっかしいのは直らねえな! お客が来てる時くらい落ち着けって、いつも言ってるだろ。グラスは割れてないか!?」
友之は畳を拭きながら、完全に「岩瀬友之」としての顔と声で、母親に向かって小言を並べ立てた。
静寂。
部屋の空気が、ピタリと止まった。
香代子が顔面を蒼白にして口元を押さえ、良亮と竜子が目を見開く。
天井付近の涼子も、「ああああっ! 岩瀬くん、バカバカバカ!」と空中で頭を抱えてのたうち回っていた。
友之はハッとして拭く手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
美智子は、畳の上に四つん這いになっている「涼子」の姿を、まるで雷に打たれたかのような表情で凝視していた。
初めて訪れたはずの他人の家で、雑巾が入っている引き出しの場所を正確に知っていたこと。
そして何より、「お袋」という呼び方と、その呆れ果てたような、しかし愛情に満ちた小言の言い回し。
「あ、いや……これはその、違うんです! 私はただ、偶然引き出しを開けたら布巾があったから……!」
友之が必死に取り繕おうとしたが、もはや手遅れだった。
美智子の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。彼女は震える手で口元を覆い、しゃくり上げるようにして言った。
「……友之? あなた、友之なの……?」
隠し通すことなど不可能だった。どれだけ外見が女性であろうと、母親の直感と、二十年以上連れ添った親子の記憶を騙し切ることなどできるはずがなかったのだ。
線香の煙が静かに立ち昇る客間で、あまりにも奇妙で、そして涙を誘う母と息子の再会が果たされた瞬間だった。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




