早川のせせらぎと冷たい真実 ㈡
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
他殺。
竜子の小さく愛らしい唇から放たれたその言葉は、冷たい氷の刃のように、夏の熱気が籠もる和室の空気を一瞬にして切り裂いた。
香代子は息を呑み、良亮は怯えたように友之の腕にしがみついた。
「た、他殺だと? 冗談じゃない!」
友之は涼子の体を激しく震わせ、目を大きく見開いて立ち上がった。
「俺が誰かに殺されたっていうのか? 恨みを買うような覚えは全くないぞ! 俺はただの製薬会社の営業だ。確かに仕事で取引先と揉めることや、部下にキツく当たったことはあったかもしれない。だが、殺意を向けられるような致命的なトラブルなんて一つも思い当たらない!」
「しかし、あなたの魂の形がそれを如実に物語っておりますわ」
竜子は赤い扇子を静かに揺らしながら、まるで医学書を読み上げるような淡々とした口調で告げた。
「病や寿命で自然に肉体を離れた魂は、もっと穏やかで丸みを帯びた輪郭をしているものです。ですが、岩瀬様。あなたの魂の断面は、まるで無理やり引きちぎられたかのようにささくれ立ち、鋭く尖っておりますの。これは、予期せぬ突然の外部からの強い力……悪意ある『死』によって、肉体と魂が強制的に分断された揺るぎない証拠ですわ」
竜子の霊的な見立てに、疑いを挟む余地はなかった。彼女は実際に、良亮の周りに渦巻いていた負の言霊を扇子一本で打ち払ってみせた本物の異能者なのだから。
「……さっきの電話で、警察は急性心不全だって言ってたわよね」
香代子が青ざめた顔で呟いた。その声は微かに震えている。
「検死も行われて、事件性はないと判断されたってことよ。つまり、犯人は警察の目を完全に誤魔化すような、解剖しても痕跡の残らない巧妙な方法で岩瀬くんを殺害したってことにならない?」
その恐ろしい推論に、友之はごくりと固唾を飲み込んだ。背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じる。
「痕跡の残らない方法……。毒殺、とかか? だが、どうやって俺の部屋に侵入したっていうんだ? 部屋には確実に鍵がかかっていたはずだし、俺は高熱で寝込んでいたんだぞ。もし誰かが無理やり口に毒を突っ込んできたら、いくら熱があっても抵抗するし、記憶にだって残るはずだ!」
「それをこれから、私たちで調べるのよ」
香代子が力強く顔を上げ、友之を真っ直ぐに見据えた。
「岩瀬くんのアパート周辺を調べて、会社の人たちから話を聞く。第一発見者だったっていう女性の部下にも、絶対に接触する必要があるわね」
「だが、俺たちは赤の他人だぞ? どうやって事件の調査なんて……」
「岩瀬くんの『親戚』ってことにすればいいわ。急死した岩瀬くんの遺品整理や、生前お世話になった方へのご挨拶回りって名目なら、誰も不審に思わないはずよ」
香代子の提案は理にかなっていた。しかし、一般人が殺人事件の証拠を探し出すという危険すぎる行為に、友之は躊躇いを隠せなかった。自分を殺したかもしれない見えない殺人鬼が、すぐそばを歩いているかもしれないのだ。
「おじさん」
良亮が、友之の服の裾をキュッと引っ張った。
「僕も手伝うよ。おじさんを殺した悪い人を捕まえないと、おじさんはずっと迷子のままで、天国に行けないんでしょ? それじゃあ、ママも戻ってこられない。だから、絶対に諦めちゃダメだ」
八歳の少年の、揺るぎない決意の瞳。その真っ直ぐな光に射抜かれ、友之は己の不甲斐なさを恥じた。子供にここまで言わせておいて、大人の自分が尻込みしてどうするのだ。
「……ああ、そうだな。俺の命を奪った犯人を、絶対にこの手で見つけ出してやる」
友之は深く頷き、力強く拳を握りしめた。
その日の夕食は、旅館が用意した豪華な部屋食の懐石料理だった。
色とりどりの小鉢や、新鮮な海の幸のお造り、そしてメインの和牛の陶板焼き。普段なら歓声を上げて飛びつくところだが、重い真実を知った直後の彼らにとっては、砂を噛むような味気ないものだった。
友之は、綺麗に盛り付けられたお造りを口に運びながら、ふと奇妙な感覚に襲われた。
(俺は今、他人の舌を通してこの味を感じている。もし俺が本当に死んでいるのなら、俺の肉体が食事をすることは二度とない。……なんだか、ひどく虚しいな)
死という圧倒的な断絶を前にして、友之の心には徐々に暗い影が落ち始めていた。
夕食後、良亮と竜子が部屋の隅で、旅館の売店で買ったトランプで遊び始めた。竜子は「ババ抜きなどという平民の遊戯、わたくしには簡単すぎますわ!」と豪語していたが、顔に全て感情が出るため、良亮に惨敗を喫して悔しがっている。
その微笑ましい光景を背に、友之と香代子は少し頭を冷やすために、旅館の中庭へと続く縁側に出た。
箱根の夜風はひんやりと冷たく、硫黄の微かな匂いが混ざっていた。庭の茂みからは鈴虫の鳴き声が心地よく響き、すぐ下を流れる早川のせせらぎが、日中の熱気と混乱を少しだけ洗い流してくれるようだった。
浴衣姿に着替えた友之(もちろん、香代子の厳重な監視下で洗面所で着替えた)は、縁側に腰を下ろし、夜空に浮かぶ白い月を見上げた。女性物の浴衣は帯の結び方が胸の下にあり、どうしても息苦しくて落ち着かない。
「……なんだか、現実感がねえな」
友之がぽつりとこぼすと、隣に座ってうちわを扇いでいた香代子が、小さく息を吐いた。
「そうね。まさか自分の初恋の相手が、お姉ちゃんの体に入って目の前に現れるなんて、夢にも思わなかったわ」
「……初恋?」
友之が驚いて振り返ると、香代子はハッとしたように口元を押さえ、少しだけ頬を朱に染めた。そして、誤魔化すようにツンとそっぽを向いた。
「な、何よ、悪い? 小学校三年生の時、私は岩瀬くんのことが好きだったのよ! いっつもちょっかい出して、意地悪ばっかりしてたけど……あれは、子供特有の愛情の裏返しってやつよ。気を引きたくて、わざと理科室のビーカーを割ったりして、岩瀬くんに庇ってもらおうとしたのに、あんたは真っ先に先生に言いつけに行くし!」
香代子の怒ったような、それでいてどこか甘酸っぱい響きを含んだ告白に、友之は思わず吹き出した。
「はははっ! なんだよそれ。あんた、俺のこと嫌いなんだとばっかり思ってたぜ。ドッジボールじゃいつも顔面狙ってくるし、掃除の時間はホウキで叩きにくるし。俺にとっては恐怖の大魔王だったんだぞ」
「失礼ね! 不器用だっただけよ!」
香代子はむくれたが、すぐにその表情は柔らかく、そして少しだけ寂しそうなものへと変わった。
「……でもね。親の転勤で河崎に引っ越す日、岩瀬くんが駅まで見送りに来てくれたこと、すっごく嬉しかった。あの時、発車のベルが鳴る直前に岩瀬くんがくれた青いガラス玉、私、今でも宝石箱に入れて大事に持ってるんだから」
その言葉に、友之の胸の奥がキュンと甘く鳴った。それは涼子の肉体的な反応ではなく、岩瀬友之自身の魂が震えた証しだった。
「……奇遇だな」
友之は夜空の月から視線を外し、香代子の横顔を真っ直ぐに見つめた。
「俺も、あんたのことが初恋だったんだよ」
「えっ?」
香代子が驚いて目を見開く。
「嘘ばっかり。あんた、いつも綺麗なお姉ちゃんのことばっかり見てたじゃない。私が『美人なお姉ちゃんの後ろをついて歩くおまけ』みたいに扱われてるって、いっつも嫉妬してたんだからね」
「馬鹿だな。俺が涼子さんを見てたのは、あんたのお姉さんだからだ。俺の目で追ってたのは、いつも泥だらけになって校庭を走り回ってる、お転婆なあんたの方だったんだよ。ガラス玉を渡したのも、遠くに行っちゃって寂しかったからだ」
その真っ直ぐな言葉に、香代子の顔がみるみるうちに真っ赤に染まっていった。
三十四歳の美しい姉の顔をした男から、二十年以上越しの初恋の告白を受けている。状況としてはあまりにもカオスで滑稽だが、二人の間に流れている空気は間違いなく純粋で、温かいものだった。
「……バカ。今更そんなこと言われたって、ちっとも嬉しくないわよ」
香代子は涙ぐみながら、そっと友之の肩に頭をもたせかけた。
友之も、ぎこちない手つきで香代子の肩に手を回した。
「ごめんな。こんな姿で、しかも死んでるかもしれない状態で再会するなんて。……でも、絶対に諦めない。俺を殺した犯人を見つけて、あんたのお姉さんを良亮の元に返す。そして俺は、ちゃんと俺の体で、もう一度あんたに会いに行くよ」
「約束よ。もし破ったら、またホウキで叩きのめすんだから」
二人の心の距離が、静かな箱根の夜の闇の中で、確かに縮まった瞬間だった。
その光景を天井付近から見守っていた涼子の魂は、まるで恋愛ドラマの決定的なシーンでも見ているかのように、両手で頬を押さえて身悶えしていた。
(キャーッ! 香代子ったら、そんな可愛い過去があったなんてお姉ちゃん全然知らなかったわ! 岩瀬くんも男らしいじゃないの! ……って、外見は私なんだけどね。なんだかすごく複雑な気分だわ!)
妹の恋路を心から応援したい気持ちと、自分の体がいちゃついていることへの強烈な違和感に引き裂かれそうになりながらも、涼子は二人の絆が深まったことに深く安堵していた。
明日は、友之の実家への訪問と、アパートの調査が待っている。
警察が「病死」と断定した密室事件の裏側に潜む、見えない殺人鬼の影。彼らはまだ、その毒牙の恐ろしさを本当の意味で理解してはいなかった。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




