早川のせせらぎと冷たい真実 ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
箱根湯本駅に降り立った一行を待ち受けていたのは、河崎の油臭い熱風とは打って変わった、緑の匂いをたっぷりと含んだ涼やかな風だった。
駅前を流れる早川のせせらぎが、耳に心地よい。お土産屋が立ち並ぶ活気ある駅前商店街を抜け、少し坂道を登った先にあるのが、今回彼らが拠点として選んだ老舗旅館「早川亭」であった。
木造二階建ての趣ある純和風の建物は、打ち水がされた石畳の玄関からして、すでに非日常の静寂を漂わせている。
中居に案内され、通されたのは二階の角部屋、十畳の和室だった。窓を開ければ眼下に早川の清流を見下ろすことができ、対岸の深い緑が目に痛いほど鮮やかだった。遠くでひぐらしがカナカナと物悲しい鳴き声を響かせている。
「ごゆっくりおくつろぎくださいませ、奥様」
中居が丁寧に三つ指をついて挨拶をし、部屋を後にした。
その「奥様」という言葉に、涼子の顔をした友之は顔を引き攣らせ、襖が閉まった瞬間に畳の上へ大の字になって倒れ込んだ。
「あー、疲れた……。道行く連中も旅館の人間も、俺のことを完全に『子連れの母親』として扱ってきやがる。当たり前なんだけどよ、やっぱり居心地が悪くて仕方ねえ」
友之がぼやくと、荷物を解いていた香代子が冷ややかな視線を投げかけた。
「当たり前でしょ。誰が見たってお姉ちゃんは立派な大人の女性なんだから。ほら、お茶が入ったわよ。起き上がってきちんとお座りなさい。お姉ちゃんの体で畳に寝転がらないの!」
「へいへい、分かってますよっと」
友之はのそりのそりと起き上がり、ちゃぶ台の前に座って湯呑みを手に取った。良亮と竜子も、ちゃぶ台を囲むようにしてちょこんと座っている。竜子は出された温泉饅頭を、「まあ、お上品な甘さですこと」と嬉しそうに頬張っていた。
温泉旅館という特異な空間は、ただでさえ非日常的な彼らの状況をさらに際立たせていた。
特に深刻な問題となったのは「入浴」である。
「いいこと、岩瀬くん。この旅館には立派な大浴場があるけれど、あなたは絶対に行っちゃダメよ! 男の精神で女湯に入るなんて、犯罪以外の何物でもないんだからね!」
「分かってるって! 俺だって女の裸なんか見たら、パニックになって鼻血出して倒れる自信がある。部屋についてるユニットバスで我慢するから安心しろ!」
「……おじさん、鼻血出したらママの体が貧血になっちゃうよ」
良亮の冷静なツッコミに、友之は言葉を詰まらせた。
天井付近に浮かぶ涼子の魂も、香代子の徹底的な防衛線に心から感謝していた。
(ありがとう香代子! 岩瀬くんが少しでも変な気を起こさないように、しっかり見張っててね!)
一通りの荷解きと休憩を終えると、部屋の空気は次第に真剣なものへと変わっていった。
夏休みの旅行客としてここに来たわけではない。目的は一つ、岩瀬友之の「現在の状況」と「死の真相」を探ることである。
「さてと……」
友之は湯呑みを置き、香代子と良亮を真っ直ぐに見据えた。
「まずは、俺が本当に死んでいるのかどうか、それをはっきりさせないことには始まらねえ。もしかしたら、俺はまだ自分のアパートのベッドで、高熱にうなされて生きてるかもしれないからな」
「そうね。でも、岩瀬くんが自分のお母さんに電話して確認するわけにはいかないでしょ? お姉ちゃんの声で『俺だけど』なんて言ったら、ただのイタズラ電話か新手の詐欺だと思われちゃうわ」
「分かってる。だから、あんたに頼みたいんだ。内海、俺の勤めてる製薬会社の箱根支店に電話をかけて、俺の様子を聞き出してくれないか」
友之の提案に、香代子は少しだけ躊躇するような表情を見せたが、すぐに覚悟を決めて頷いた。
「分かったわ。私が、小学校の同窓会の幹事か何かを装って、会社に問い合わせてみる。岩瀬くんの部署と、電話番号を教えて」
友之は記憶を頼りに、自分の所属していた営業部の直通番号を香代子に伝えた。香代子はハンドバッグからスマートフォンを取り出し、深呼吸を一つしてからその番号をプッシュした。
部屋の中に、ピンと張り詰めた緊張感が漂う。良亮も竜子も、息を殺して香代子の横顔を見つめていた。
『はい、〇〇製薬・箱根支店営業部でございます』
電話の向こうから、若い女性事務員と思われる声が微かに漏れ聞こえてきた。
香代子は、普段の勝ち気な口調を少しだけよそ行きに整え、愛想の良い声で話し始めた。
「お忙しいところ申し訳ありません。私、内海と申しまして、そちらに勤務されている岩瀬友之さんの小学校時代の同級生なのですが。実は今度、同窓会を企画しておりまして、岩瀬さんにぜひご連絡を取りたいと思い、お電話させていただきました。岩瀬さんはいらっしゃいますでしょうか?」
完璧な偽装だった。これなら、相手も警戒することなく情報を出してくれるはずだ。
しかし、香代子の言葉に対する電話口の反応は、予想外に重く、沈痛なものだった。
『あ……内海様、ですね。その……大変申し上げにくいのですが……』
事務員の声が詰まり、背後で誰かに電話を代わるような衣擦れの音がした。やがて、少し年配の男性の声が電話口から響いてきた。
『お電話代わりました。営業部長の佐藤と申します。岩瀬の同級生の方ということですが……誠に残念なお知らせをしなければなりません』
香代子の顔から、サッと血の気が引いていくのが分かった。友之も、良亮も、固唾を飲んでその次の言葉を待った。
『岩瀬は……先月の二十日、自宅のアパートで急逝いたしました』
急逝。
その二文字が、狭い和室の空間に重く、冷たく落ちた。
香代子は震える手でスマートフォンを握りしめ、言葉を失った。
「急逝、ですか……? そ、そんな……。岩瀬くんは、まだ三十代の前半のはずじゃ……」
『ええ。我々も信じられない思いでいっぱいです。とても優秀な社員で、これからの営業部を背負って立つ人材でしたから……。警察の検死の結果、死因は急性心不全とのことでした。ご親族による密葬がすでに執り行われまして、会社からも数名が参列させていただきました』
心不全。
その言葉を聞いた瞬間、友之はまるでハンマーで頭を殴られたような衝撃を受け、その場に崩れ落ちそうになった。
「……そうですか。急なことで、大変驚いております。あの、岩瀬くんは、ご病気か何かを抱えていらしたのでしょうか?」
『いえ、会社の健康診断でも特に異常はありませんでした。ただ、亡くなる数日前から風邪をこじらせて高熱を出しており、会社を二日ほど休んでおりまして。一人暮らしでしたので、発見が遅れてしまったようです。第一発見者は、たまたま様子を見に行ったうちの部下の女性社員だったのですが……彼女も大変ショックを受けておりまして』
佐藤と名乗る部長は、そこまで語ると「お力落としのことと存じますが……」と定型のお悔やみの言葉を述べ、電話を切った。
ツーツーという電子音が、香代子の手元から空しく響いている。
香代子はスマートフォンをゆっくりと畳の上に置き、まるで幽霊でも見るかのような目で友之を見つめた。
「……聞いたわね、岩瀬くん」
「ああ……」
友之の口から漏れた声は、ひどく掠れていた。女性の柔らかな声帯から発せられているにもかかわらず、その響きには深い絶望と喪失感が入り混じっていた。
「死んだ。俺は、本当に死んじまったのか……。しかも、先月の二十日って……」
「お姉ちゃんがアパートで倒れて、救急車で運ばれた日よ」
香代子が重々しく告げた。
時間軸が完全に一致している。岩瀬友之が箱根のアパートで孤独に息を引き取ったその日、その時刻に、河崎のアパートで越智涼子が謎の昏倒をしたのだ。そして、友之の魂は肉体を失い、空っぽになった涼子の肉体へと引き寄せられるようにして入り込んだ。
これが、ボディスワップの不可思議な現象の引き金だったのだ。
「心不全……。急性心不全だと? 冗談じゃねえ!」
友之が突然、ちゃぶ台をバンと強く叩いた。湯呑みが跳ね、お茶が畳に少しこぼれる。
「俺はただの風邪だったんだ! 確かに熱は高かったし、体中が痛かった。でも、心臓発作なんか起こすような状態じゃなかった! 苦しんだ記憶だってない。ただ、ベッドで寝てたら、気づいたら病院の天井を見上げてたんだ。そんな静かな心不全があるかよ!」
友之の激しい怒りと混乱は、誰の目にも明らかだった。
三十二歳という若さ。順調だった仕事。これからの人生。それらが「風邪からの心不全」というあまりにも呆気ない理由で唐突に終わってしまったという事実を、彼の精神が全力で拒絶していた。
良亮は、荒れる友之の背中を、悲しそうな、それでいて深い同情を込めた瞳で見つめていた。
自分の父親も、七年前に突然姿を消し、今日に至るまで理由は分からないまま「法的な死」を迎えさせられた。突然人生を絶たれることの理不尽さを、良亮は子供ながらに痛いほど理解していたのだ。
「おじさん……」
良亮が小さな手を伸ばし、友之の震える背中にそっと触れた。
「おじさんは、病気で死んだんじゃないってこと?」
「当たり前だ! 俺は健康そのものだったんだ。……誰かが、俺の知らない間に何かをしたんだ。俺の死には、絶対に裏がある!」
友之が血を吐くような声で叫んだその時。
ずっと黙ってお茶を飲んでいた竜子が、ゆっくりと立ち上がり、赤い扇子をパチンと広げた。
「おーほっほっほっ! ようやく、物語の歯車が噛み合い始めましたわね」
竜子の澄んだ瞳が、友之を真っ直ぐに射抜いた。
「岩瀬様。あなたの魂の波長には、病死のような自然な翳りは見受けられませんわ。もっと鋭く、そして暗い……『悪意』によって断ち切られた糸の痕跡が、あなたの魂の端にべっとりとこびりついておりますの」
その言葉に、部屋の空気が一気に冷え込んだ。
香代子が息を呑む。
「悪意って……竜子ちゃん、それってつまり……」
「ええ。この殿方は、急性心不全などという病気で亡くなったのではございませんわ。何者かの手によって、その命を奪われたのです。……そう、他殺ですわ!」
竜子の宣告は、旅館の静寂を切り裂くように響き渡った。
岩瀬友之は殺された。
その衝撃的な事実が、彼らの「死の謎を追う」という夏休みの自由研究を、本格的な殺人事件の捜査へと変貌させた瞬間だった。
天井付近に浮かぶ涼子の魂も、恐怖に身を震わせながら、息子の身に危険が及ばないことを必死に祈り始めていた。箱根の美しい景色とは裏腹に、彼らは底知れぬ闇の中へと足を踏み入れようとしていたのである。
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