空白の最期と夏休みの誓い ㈠
青き龍の少年と赤き龍の巫女。贖罪を越え、二人は都市の呪縛を書き換える!
蝉の鳴き声が、まるで耳元でメガホンを当てられているかのような暴力的な音量で響き渡る。アスファルトから立ち昇る陽炎が、河崎の古い街並みをぐにゃぐにゃと歪ませていた。
七月も下旬に差し掛かり、昭和小学校は本格的な夏休みへと突入していた。
本来であれば、良亮は毎朝ラジオ体操に通い、昼間は友達と近くの公園で虫捕りをしたり、市民プールへ通ったりと、小学生らしい活発な日々を送るはずだった。涼子もまた、息子のために朝早くからお弁当を作り、夏休み特有の慌ただしくも充実した時間を過ごしているはずだったのだ。
しかし、コーポ昭和の二〇一号室の風景は、通常の夏休みとはかけ離れた、異様で奇妙な空気に包まれていた。
「……あー、暑え。なんで女の服って、こんなに風通しが悪いんだよ。ブラウスが肌に張り付いて気持ち悪りぃ」
扇風機の首振り機能に文句を言いながら、居間のちゃぶ台の前で氷入りの麦茶をあおっているのは、越智涼子の肉体を借りた岩瀬友之である。彼はすっかりこのアパートでの軟禁生活に慣れつつあったが、女性特有の衣服の締め付けや、夏の不快な汗の感覚にはどうしても順応できずにいた。
そんな友之の向かい側では、仕事が休みで家にいる香代子が、良亮の夏休みの宿題であるドリルを丸付けしながら、冷ややかな視線を送っていた。
「ちょっと岩瀬くん。お姉ちゃんの体で股を開いて座らないでって何度も言ってるでしょ。それと、胸のボタンを開けすぎ! だらしないおじさん全開じゃないの」
香代子の容赦ない指摘に、友之はチッと舌打ちをして渋々姿勢を正した。
「うるせえな、俺だって好きでこの体に入ってるわけじゃないんだ。自分の体に戻れるなら、今すぐにも戻りたいぜ。毎日毎日、あんたに監視されて窮屈で仕方ねえ」
そのやり取りを、良亮は麦茶の入ったコップを両手で持ちながら、静かに見つめていた。良亮は夏休みに入ってからというもの、友達と遊びに行くこともなく、ずっとこのアパートで母親の体を見守るように過ごしている。竜子という不思議な転校生が時折訪ねてきては、赤い扇子を振るって部屋の霊的な空気を浄化してくれるおかげで、良亮の心は以前よりはずっと落ち着きを取り戻していた。
しかし、根本的な問題は何一つ解決していない。
天井付近に浮かぶ涼子の魂も、首を激しく縦に振って友之の言葉に同意していた。
(その通りよ! 私だって今すぐにでも自分の体に戻りたいわ! 良亮と一緒に、夏休みの思い出を作りたいのに!)
涼子は空中で地団駄を踏んだが、その悲痛な思いもやはり誰にも届かない。
香代子は丸付け用の赤いペンを置き、真剣な表情で友之に向き直った。
「……ねえ、岩瀬くん。あなた、いつまでお姉ちゃんの体に居座るつもりなの? 退院してからもう何日も経つわ。このままじゃ、お姉ちゃんの仕事もクビになっちゃうし、良亮くんの生活にも限界が来る。どうやったら元の体に戻れるのか、そろそろ本気で考えなきゃダメよ」
友之は頭を掻きむしり、大きなため息をついた。
「俺に聞かれても分かるわけねえだろ! 俺だって、なんで自分が河崎の病院で、しかもあんたの姉貴の体の中で目を覚ましたのか、さっぱり見当もつかないんだからな」
「何かきっかけがあるはずよ。岩瀬くんが最後に覚えてる記憶は何? なんで自分が死んだのか、あるいはどうやって意識を失ったのか、全く覚えてないの?」
香代子の問いかけに、友之は眉間に深い皺を寄せて黙り込んだ。
退院した日から、友之は何度も自分の記憶の糸を手繰り寄せていた。しかし、ある一定のラインから先は、まるで分厚い黒い壁に阻まれたかのように、完全に記憶が途絶えてしまっているのだ。
「……それが、本当に覚えてないんだよ」
友之は慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。
「俺の記憶の最後は、箱根の自分のアパートだ。その日、俺はひどい風邪を引いてて、高熱を出してベッドで寝込んでたんだ。全身の関節が痛くて、意識も朦朧としてて……。ただ、製薬会社の仕事で、俺はもうすぐ係長か課長に昇進するって話が出ててさ。こんなところで休んでられないって、必死に熱を下げようとしてたことだけは覚えてる。でも、それ以降の記憶がプツンと途切れてるんだ」
「高熱を出して寝込んでた? じゃあ、そのまま病気で亡くなったってこと?」
香代子が身を乗り出して尋ねたが、友之は首を横に振った。
「分からない。ただの風邪で死ぬか? 俺は三十二歳だぞ。持病もなかったし、健康診断でも異常はなかった。いくら高熱が出たからって、急死するなんてちょっと考えにくい。それに、もし俺が病死か何かで死んだのなら、俺の体は今頃どうなってるんだ? 誰かが見つけて、葬式でも出されてるのか?」
その言葉に、部屋の空気が一段と重くなった。
もし友之がすでに死亡し、火葬されてしまっているのだとしたら、彼が帰るべき「元の肉体」はこの世界に存在しないことになる。それはすなわち、彼が永遠に涼子の体を乗っ取り続けるという、最悪の結末を意味していた。
(そんな……嫌よ! 私の体がずっとおじさんのままなんて、絶対に認めない!)
天井の涼子は絶望のあまり、見えない両手で頭を抱え込んだ。
その時、ずっと黙って二人の会話を聞いていた良亮が、静かな、しかし確信に満ちた声で口を開いた。
「おじさん。おじさんは、自分が死んだ理由が分からないから、迷子になってるんじゃないかな」
友之と香代子は、同時に良亮の方を見た。
「迷子?」
「うん。テレビの怖い番組でやってたよ。幽霊っていうのは、この世界に強い未練があったり、自分が死んだことを受け入れられないと、天国に行けないでずっと彷徨い続けるんだって。おじさんは、自分がいつ、どうやって死んだのか分からないから、成仏できなくて、たまたま空っぽだったママの体に入り込んじゃったんだと思う」
八歳の少年とは思えない、論理的でオカルト的な考察。しかし、その場にいる誰一人として、それを「子供のくだらない妄想」と笑い飛ばすことはできなかった。なぜなら、実際に肉体の乗っ取りという最大のオカルト現象が目の前で起きているからだ。
香代子がポンと手を打った。
「良亮くんの言う通りかもしれない! 岩瀬くんが成仏するための条件は、『自分の死の真相を知ること』なのよ! 自分がどうして死んだのかを理解して、未練を断ち切れば、岩瀬くんの魂は天国へ行って、お姉ちゃんの魂が戻ってくる!」
その突飛な理論に、友之は面食らった。
「俺が天国に? ちょっと待てよ、じゃあ俺は本当に死んでる前提なのかよ! 生きてるかもしれないだろ!」
「生きてたら、魂が抜け出して他人の体に入るわけないでしょ! 現実を見なさい!」
香代子に一蹴され、友之はぐうの音も出なかった。確かに、魂だけが飛び出して他人の体を長期間占拠するなど、肉体が無事である状態では考えにくい。
「……俺の、死の真相」
友之は自分の両手――涼子の細く白い手――を見つめた。
自分がなぜ死んだのか。心臓発作か、別の病気か。あるいは、誰かに命を奪われたのか。
その記憶がすっぽりと抜け落ちていることに、友之自身も強い恐怖と焦燥感を感じていた。自分の人生の終わり方が分からないという状態は、暗闇の中で足場のない宙に浮いているような、絶望的な不安定さだったのだ。
良亮が、友之の前に身を乗り出した。その瞳には、強い決意の光が宿っている。
「おじさん。僕、夏休みの自由研究決めたよ」
「……自由研究? なんだよ、急に」
「おじさんの死の謎を解くことだよ。僕と、香代子おばちゃんと、おじさんの三人で、箱根に行くんだ。おじさんが住んでたアパートや、働いてた会社を調べて、おじさんがどうなったのかを探すの。おじさんが成仏してくれないと、ママが戻ってこないから!」
良亮の力強い宣言に、友之は圧倒された。
自分の母親を取り戻すために、母親の体を乗っ取っている幽霊の死因を自ら探しに行こうというのだ。その健気さと強さに、友之の胸の奥で何かが熱く反応した。
「……箱根、か」
友之は天井を見上げた。そこには涼子の魂が浮かび、涙ぐみながら良亮の姿を見下ろしていることなど知る由もないが、友之は誰かに誓うように強く頷いた。
「分かった。坊主の言う通りだ。俺も、自分の死に様を知らないままじゃ、死んでも死にきれねえ。内海、あんたも協力してくれるか?」
香代子は力強く頷き、立ち上がった。
「当たり前よ。お姉ちゃんを取り戻すためなら、地獄の果てまでだって行ってやるわ!
それに、岩瀬くんとは昔のよしみもあるしね。乗り掛かった船よ!」
こうして、奇妙な三人組による、前代未聞の「自分自身の死の真相を追う」夏休みの捜査計画が立ち上がった。
その時である。玄関のインターホンが、無機質な電子音を響かせた。
「はーい、今出ます」
香代子が玄関のドアを開けると、そこには真っ赤なランドセルを背負い、赤い扇子を片手に持った門前竜子が、涼しげな顔をして立っていた。
「おーほっほっほっ! 皆様、ごきげんよう。わたくしも、その魅惑的な謎解きの旅に同行させていただきますわ!」
突然の乱入者の宣言に、友之と香代子は目を丸くし、良亮はぱっと顔を輝かせた。河崎の蒸し暑いアパートの一室で結ばれた誓いは、彼らを箱根の山々に隠された恐るべき真実へと導いていくことになるのである。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




