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第9話 鏡湖の歌

鏡湖へ着いたのは夕方だった。

湖は大きかった。

まるで空をそのまま映したような水面。

だから鏡湖。

そう呼ばれていた。

だが。

「静かやな」

湖を見ながらリナが呟く。

本来なら聞こえるはずだった。

波の音。

鳥の声。

岸辺の風。

何もない。

気味が悪いほど静かだった。

エレナも顔を曇らせる。

「本当に音が消えてる」

ガロンは湖へ石を投げた。

ポチャン。

水面に波紋が広がる。

だが。

その音だけだった。

世界が息を止めているようだった。


その夜。

四人は湖畔で野営した。

焚き火が揺れる。

だが誰もあまり喋らない。

静けさが重い。

リナは火を見つめていた。

ふと、顔を上げる。

「どうしたの?」

エレナが尋ねる。

リナは湖の方を見ていた。

「……呼んどる」

「何が?」

エレナが眉をひそめる。

「分からん」

「でも、こっちや」

リナは立ち上がる。

エレナたちも後を追う。

四人は小舟に乗り込んだ。

静かな湖を進む。

水を漕ぐ音だけが響く。

やがて。

湖の中央へ辿り着く。

その時だった。

ゴォォォ……

水面が揺れた。

湖全体が震える。

ガロンが息を呑む。

「……何かおるな」

湖の底から。

形にならない“揺らぎ”が浮かび上がる。

魚でもない。

鳥でもない。

獣でもない。

ただ。

存在が薄くなった何か。

エレナが震える声で言う。

「これが……沈黙?」

それは言葉を返さない。

ただ。

長い長い時間を抱えたまま。

風のない悲しみのように揺れていた。

その瞬間。

リナは“音”を聞いてしまう。

この湖がかつて持っていた記憶。

歌う鳥の声。

漁師の笑い声。

子供たちのはしゃぐ声。

すべてが、薄れていく過程。

そして最後に残ったもの。

忘れられた静けさ。

リナの頬を涙が伝う。

「そうやったんか……」

エレナが振り返る。

「何が分かったの?」

リナはゆっくり答える。

「敵ちゃう」

「え?」

「ずっと、聞かれんかっただけや」

ガロンが戸惑う。

「でも放っといたら危ないんだろ?」

それは事実だった。

音は消える。

存在は薄れる。

世界にとっては危険だ。

それでも。

リナはオカリナを取り出した。

息を吹き込む。

小さな音。

戦うための音ではない。

ただ、そこに在る音。

それに応えるように。

エレナがバイオリンを構える。

ガロンが太鼓を叩く。

ミリアがハープを鳴らす。

音が重なる。

押し返すためではない。

思い出させるための音だった。

湖に音が広がる。

風が生まれる。

波が揺れる。

そして。

長い沈黙の中で。

かすかな旋律が返ってくる。

昔この湖にあった歌。

忘れられていた歌。

沈黙がゆっくりとほどけていく。

黒い揺らぎは崩れる。

消えるのではない。

ほどけるように。

音へ。

風へ。

波へ。

世界へ戻っていく。

最後に。

リナだけが聞いた。

『ありがとう』

静かな声だった。

でも、もう孤独ではなかった。

翌朝。

鏡湖には音が戻っていた。

鳥が鳴く。

風が吹く。

波が歌う。

そしてリナたちは知る。

沈黙は敵ではない。

倒すべきものでもない。

忘れられた音のなれの果て。

世界の欠けた部分そのものなのだと。

だが。

協会長から届いた次の報告には。

こう書かれていた。

「各地で同様の現象が同時に進行している」

鏡湖は一つに過ぎなかった。

もっと大きな“欠け”が。

世界のあちこちで広がっている。

そして旅は続く。

音を取り戻すための旅は。

まだ終わっていない。


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