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王国の中で

 

 馬車は、まるで巨大な獣の胃袋に飲み込まれていくかのように揺れていた。


 ナハトヴァルトへ続く道に、美しい景色など欠片も存在しない。あるのは灰色の地平線、ねじ曲がった樹々、そして嵐か葬式かを見極めかねているようなどんよりとした空だけだ。


 ライサンダーは、窓の外をぼんやりと眺めていた。

 御者台に乗る二人の護衛騎士は、まるでここに「何もない」かのように、努めて彼の方を見ようとしない。


 ……まあ、いいか。


「外交使節としての派遣」なんて、大層な肩書きを与えられたけれど、実際は「厄介払い」だ。馬車の扉が閉められた時のあの音は、どう聞いても「動く監獄へようこそ」という響きだった。


 ライサンダーは座席に頭をもたれかけ、深く息を吐いた。


「せめて、もうちょっとマシなクッションを積んでくれればよかったのに……腰が砕けそうだ」


 誰もいない車内に、乾いた声がむなしく響く。これが王子様の待遇とは、笑えない冗談だ。


 ナハトヴァルトの領境を越えた瞬間、空気が一変した。


 比喩でも何でもない。物理的に気温が下がり、重苦しい圧力が肌を突き刺す。まるで、この土地自体が訪問者を拒絶しているかのようだった。


「……血塗られた公爵夫人の領地へようこそ」


 護衛の一人が、まるで死刑宣告でも読み上げるような平坦な口調で言った。


「ずいぶんと歓迎ムードが足りていないね」


 ライサンダーが軽口を叩くと、騎士は鼻で笑った。


「歓迎される場所じゃない。……忠告しておくが、ここでは呼吸の仕方一つ間違えただけで『挑発』とみなされる。余計な真似はするな」


「なるほど。じゃあ、外交的に正しい呼吸法を練習しなきゃいけないな」


 騎士が初めて彼の方を向き、その瞳に「憐れみ」の色を浮かべた。どうやら、この王子は本物の馬鹿か、あるいは死にたがりのどちらかだと思われたらしい。


 ナハトヴァルトの首都は――異常だった。


 噂に聞くような混沌などどこにもなく、逆に「完璧」すぎた。掃除の行き届いた街並み。過剰なまでの対称性。


 歩く市民たちは皆、一様に俯き、音を立てずに移動している。子供ですら、声を出さずに遊んでいるのだ。


「……想像していたより、よっぽど居心地が悪いな」


 ライサンダーが独りごちると、横にいた衛兵がギロリと睨んできた。


「何か言ったか?」


「いえ、なんて素晴らしい景観だ、と感動していただけです」


「……そうか」


 なるほど。この国では、冗談や皮肉は「命取りになる言葉」らしい。


 公爵邸は、街の中心で冷たい刃のように空を切り裂いていた。


 到着しても、出迎えなど存在しない。ただ扉が勝手に開き、「降りろ」という短い命令だけが飛んでくる。

「……挨拶もなしですか。泣いていいのか、笑えばいいのか」


 呟きながら馬車を降りたその時だった。


「状況次第ね。泣く権利があるかどうかは、私が決めることだけど」


 背後から、凛とした声が響いた。


 ライサンダーが振り返ると、そこに彼女がいた。

 セラフィナ・フォン・ナハトヴァルト。


 噂に聞く「怪物」の面影は、不思議と薄かった。軍人のように整えられた黒髪、研ぎ澄まされた刃のような冷徹な瞳。彼女がそこに立っているだけで、周囲の空気が張り詰める。


 しかし、彼女は彼を「蔑む対象」ではなく、まるで解けないパズルでも見るかのような、奇妙な興味を浮かべて見下ろしていた。


「無能の噂通り、おしゃべりね。王子」


「お初にお目にかかります。……他人の領地で、ずいぶんと威勢のいい挨拶ですね」


「ここは私の国よ。あなたの礼儀作法など通用しない」


「技術的には、僕はまだルテニアの人間ですが」


 セラフィナは首をわずかに傾げた。その仕草一つで、側近の衛兵が息を呑むのが分かった。


「技術的には、あなたが今こうして息をしていられるのは、私がそれを許可しているからよ」


 沈黙。


 ライサンダーは顎をさすりながら、困ったように笑った。


「ははっ、随分と好戦的な歓迎だな」


「……怯えないのね」


「怯えるべき理由が?」


 彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。そして――その表情が、ほんのわずかに、氷解した。


 あろうことか、彼女の口元が微かに弧を描いたのだ。


「……面白いわ」


 その日の夜。ライサンダーは、監獄よりは豪華だが、王城よりは遥かに殺風景な部屋に放り込まれた。


「ここで待機しろ。余計な動きはするな」


 案内役の召使いは、そう言い捨てて立ち去った。

 ……食事の案内も、挨拶もなしか。


 夜。耐えきれずに廊下へ出たライサンダーは、角を曲がったところで――何かにぶつかった。


「うわっ……!」


 バサバサと、大量の書類が床に散らばる。

 散らばった書類の隙間から、冷たい視線が突き刺さった。


「…………」


 またしても、セラフィナだった。しかも、今日は明らかに機嫌が悪そうに眉を寄せている。


「君、ね」


「いや、その……説明させてください」


「私の城の廊下で、私と正面衝突するとはいい度胸ね」


「技術的には、角から突然現れた公爵閣下が悪いんですが」


 沈黙が支配する。殺される。そう確信した次の瞬間。


「……拾いなさい」


「はい?」


「散らかったわ。拾って。今すぐ」


 ライサンダーは溜息をつき、膝をついた。軍事機密らしき印章の押された書類や、どこかの予算報告書が散らばっている。


「……内容を読んでしまっても、いいんですか?」


「秘密なら、廊下には落とさないわ」


 彼女は冷たく言い放ちながらも、去ろうとはしなかった。


 書類を拾い集め、彼女に差し出す。その時、ほんの一瞬だけ、二人の指先が触れ合った。


 互いに反射的に手を引く。――その時、二人とも気づいたのだ。


 彼女の手が、見た目よりもずっと震えていたことに。


「……もう行け。夜の廊下は危険よ」


「では、ここが危険な場所だと認めるんですね」


「あなたが一番の危険因子よ」


 ライサンダーは、ふっと笑った。


「……分かりました。ところで、お手洗いはどちらですか?」


 セラフィナは一瞬だけ呆れたように目を丸くし、それから短く吐き捨てた。


「……左の廊下よ」


 彼女は踵を返し、その場から立ち去った。


 残されたライサンダーは、空っぽの廊下で一人、呆然と立ち尽くす。


「……あの『血塗られた公爵夫人』が、わざわざ場所を教えてくれたのか?」


 彼は自分の頭を掻いた。


 どうやら、この生活は想像していたよりも、遥かに面倒で、そして少しだけ面白いものになりそうだ。


「……悪くないな」


 月の光に照らされ、彼は初めて、心からの笑みを浮かべた。


うーん…ロボトミー手術って本当に怖いよね。

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