プロローグ
ルテニア王国の玉座の間。そこはいつも、古びた蝋燭と磨き上げられた黄金、そして「覆すことのできない決定」の匂いが染みついていた。
第三王子、ライサンダー・アルヴェルは知っていた。この場所で下される決定に、議論など必要ない。必要なのは、ただ冷徹なまでの「確定」だけだ。
そして今日、その確定事項は彼自身だった。
「第三王子ライサンダーを、外交上の担保としてナハトヴァルト王国へ転送する」
宰相の声は、感情を完全に削ぎ落としていた。まるで、壊れた調度品を倉庫へ片付けるかのような無機質な響き。ナハトヴァルトが条件を呑んだという事実は、彼らにとってこの国の「ゴミ」が処理されるという喜びに他ならなかった。
ライサンダーは玉座の間の中心に立っていた。純白の円柱が並ぶその空間で、周囲の貴族たちは一様に彼を避けるように視線を逸らす。それは畏怖ではない。もっと酷いもの「無関心」という名の重力だ。
父である国王アルドリックは、一度も彼の方を見ようとしない。
王の眼差しは常に先を見ている。未来という名の繁栄へ。そして、その未来図の中に、ライサンダーという色のない線は最初から含まれていなかったのだ。
「ナハト……ワルトだと?」
誰かが低く呟いた。驚きではない。忌避だ。
その言葉が零れた瞬間、周囲の空気が凍りついた。ナハトヴァルト王国。文明と絶望の境界線に位置し、一人の女性によって支配される、この大陸で最も禁忌とされる領土。
セラフィナ・フォン・ナハトヴァルト。
人々は彼女をこう呼ぶ「血塗られた公爵夫人」と。
交渉など存在しない。ただ彼女が決めるだけ。
信じられる者は皆無。
そして、彼女のもとへ送られた政治的な駒たちは、誰もが例外なく――心まで壊されて帰ってくるか、あるいは二度と姿を見せなくなる。
「決まったことだ」
王の短い宣告。
ライサンダーは、かすかに息を吐いた。抵抗など意味がないことを、彼は幼い頃に学んでいた。抵抗は権力者の退屈を癒やすための道化芝居に過ぎない。
「……出発はいつですか」
雨の予報を聞くかのような平坦な声。
宰相は満足げに目を細めた。彼らにとって、ライサンダーが抵抗を見せず、大人しく「廃棄」されることが唯一の美徳なのだ。
「三日後だ。ナハトヴァルトの首都へ直接送る」
「送る」という言葉が、ライサンダーの中で反響する。
彼は王子ではない。最初から、自分の意思など持たぬ盤上の駒に過ぎなかったのだ。
玉座から、王の刺すような冷たい声が響く。
「……せいぜい、遅まきながら『役に立つ』ことだな」
その言葉に、貴族たちから微かな嗤いが漏れた。嘲り、憐れみ、そして排除の笑い。
ライサンダーは、ただ静かに一礼した。
「承知いたしました」
それ以上、何も言わなかった。
乞いもせず、恨みもせず。ただ無機質な機械のように。
その無反応さが、この場に奇妙な決着をもたらした。
その夜、城の廊下はいつもより長く感じられた。
まるで、自分が少しずつこの世界から消し去られているかのように。
警護もつかない孤独な散歩。誰も彼を止める者はいない。逃げ出すような価値すら、彼にはないのだから。
窓辺に立ち、ライサンダーは外を眺めた。
城の光は、彼を排除することでより一層明るく輝いているように見えた。
「……無能な王子、か」
その言葉は、もはや他者からの罵倒ではない。彼の中で静かに根を下ろした、冷徹な自己認識だった。
だが、その認識の底には、泥のような諦めではない、別の何かが渦巻いている。
三日。
たった三日あれば、誰にも気づかれずに消えることもできる。
あるいは……誰も予測できない「何か」を始めることも。
一方、ルテニアの国境を遥か超えた先。
冷たい石造りの部屋で、一人の女性が地図にペンを走らせていた。
蝋燭の火が、彼女の冷厳な瞳を揺らす。
「……ルテニアの王子、ですか」
セラフィナの声は、氷を打つように澄んでいた。
周囲の士官たちは、彼女の気配に息を殺す。誰も、その言葉の真意を問うことなどできない。
彼女は、届いたばかりの封書を指先でなぞった。
その瞬間。
本当に一瞬だけ、誰にも見られなかったはずの影で、彼女の目元がわずかに、熱を帯びたように和らいだ。
「……『無能』、ね」
それは、まるでテストをするような響き。
彼女は書類を閉じ、立ち上がった。
「門を開けなさい」
その声は、命令ではなく、宣告だった。
「その『無能』が、どれほど私の期待を裏切ってくれるのか……この目で直接、確かめたい」
揺らめく炎が、彼女の背後に長い影を落とす。
王子の運命は、すでに紙の上の文字ではなくなっていた。
今、静かに、二つの異なる絶望が交わろうとしている。
その先にあるのが破滅か、あるいは救済かを知る者は、まだ誰もいない。
「薬屋のひとりごと」のライトノベルを集め始めようかな…。




