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第4章 石の教会①

 塔の外へ出ても、音は消えなかった。


 白耀の塔から王城へ渡る回廊でも、北棟の小広間の外でも、茶会のあと再び塔へ戻る石の廊下でも。

 雨だれに似たその音は、途切れずレオニスの耳の奥へ落ちてきた。


 ぽと。

 耳鳴りというには妙に質感がある。

 空耳にしては規則的すぎる。

 石の割れ目か、遠い軒先か、どこか見えない場所から本当に水が落ちているような、水面で小さな魚が跳ねたような音だった。


 最初は塔のせいだと思った。

 白耀石の真下という特殊な場所。

 高所特有の冷え。

 あるいは長旅の疲れ。

 だが、塔を離れても続くなら話は違う。


 レオニスは白耀の塔へ戻り、疲れ切っているセラフィナを侍女に任せると、一度自室へ下がった。

 護衛騎士に与えられたその部屋は質素で、余計なものがない。机と寝台、書架代わりの棚、燭台、衣装箱。必要最低限の整い方は嫌いではなかった。

 今は考えるのに都合がいい。


 手首の石へ指先を添える。

 ローゼンフェルト家に伝わる、汚れない石。二つとないと言われる白耀石にあまりに似ていて、王都に来た時は驚いたものだ。

 城に出仕するにあたり、肌身離さず持てと改めて言いつけられたその石は、まだ腕に馴染んでいない。


 家の言い伝えでは、境界を守る石、災いを祓う石、とだけ聞いている。曖昧で、役に立たない言い方だとずっと思っていた。

 その石が、白耀の塔へ来てから音を鳴らすようになった。まるで何かに呼応するように。


 ぽと。


 今も、耳の奥へ落ちる。

 レオニスは目を閉じた。


 思い返すのは今日のことだ。

 塔の中で鳴っていた音。

 回廊へ出ても続いた音。


 そして、あの姫が自分の腕に体重を預けたとき、やけに近く聞こえた一滴。

 石の真下にいるから鳴るのではない。

 塔にいるからでもない。

 ならば、何に反応しているのか。

 考えを巡らせても、今はまだ形にならない。


 ただ、今日は他にも気にかかるものがあった。


 北棟の小広間で見た王族たちの反応だ。

 レオニスがセラフィナを支えて入室したとき、皇太子の目ははっきりとその手へ向いた。

 姉姫は扇を止め、王妃は息を呑んだ。

 父王だけは顔色一つ変えなかったが、レオニスに向けられた視線は鋭かった。

 世間の噂通り、姫がただ“触れれば人を殺す危険な存在”であれば、あれは単なる恐れの反応で済む。

 だが今日、あの場にあったものは、恐れだけではなかった。


 あれは──驚きだ。

 もっと言えば、

 本来そうしてはならないことを、目の前で他人があっさりやってのけた時の驚きに近かった。


 一介の騎士である自分が死ぬかもしれないというだけで、あれほど露骨な動揺を見せるとも思えなかった。

 レオニスは目を開けた。

 あの姫を取り巻くものは、噂ほど単純ではない。


 少なくとも、王家は何か腹に一物を隠し持っている気がした。


 そして今夜、王城南翼では聖環教会の使者と、王宮側の一部貴族が集まると聞いていた。旧都の件で話し合いが続いているらしい。

 旧都と言えばこの王都が遷都される前に使われていた旧時代の都だ。今は瘴気に侵され見る影もないと聞いている。


 教会が何を考えているのかを知るには悪くない機会だ。何より白耀石について一番詳しいのは聖環教会の人間だろう。耳鳴りについて何か話を聞けるかもしれない。

 レオニスは立ち上がった。


 南翼の廊下は、白耀の塔とはまた別の冷たさを持っている。あまり普段こちらに来ることはないが、塔の冷たさが石そのものに沁み込んだ冬のようなものだとしたら、こちらは磨き上げられた器物の冷たさに思える。

 壁には織物が掛けられ、香が焚かれ、灯りは十分にある。だが整えられれば整えられるほど、そこに集う人間の腹の内まで見え透く気がして、レオニスはこの区画が好きではなかった。


 扉の向こうから声が聞こえる。

 教会の男の、抑揚の少ない声。

 王宮貴族の、鼻にかかったような声。

 書記の紙を繰る音。

 レオニスは柱の影に立ち、耳を澄ませた。


「旧都の封鎖は限界ですな」

「放置すれば、いずれ瘴気は王都へも及ぶ」

「瘴気溜まりはもはや溢れてもおかしくないというのに」

「だからこそ、白耀石の力を王都だけに留めておくべきではないと、かねてより申し上げているのです」


 男たちの声には、妙な確信があった。


「石を動かす、と?」

「動かすのではなく、巡らせるのです。恩恵を必要な地へ届ける。白耀石は王都を守るためだけのものではないでしょう?」


 別の男が、いかにも慎重そうに咳払いをする。


「だが、石だけを運んでこの王都の守りは問題ないのですか」


 少し間があった。


「姫も、です」


 ひどくさらりとした言い方だった。


 レオニスの眉がわずかに寄る。

 扉の向こうでは、その言葉に誰かが低く笑った。


「またその話ですか」

「当然でしょう。現に王都では、石と姫が同じ場所にあるからこそ均衡が保たれている」

「姫が瘴気を呼ぶから、石の近くに閉じておく必要がある──という理屈ですな」

「理屈ではなく事実です。あれが塔に籠められてから、王都周辺の流れは安定している」

「しかし民の噂は穏やかではありませんぞ」

「噂は噂です。むしろ、民が目に見える形を欲するなら好都合でしょう。石だけではなく、象徴も必要だ」


 象徴。

 レオニスはその言葉を頭の中で繰り返した。


 人間に向ける呼び方ではない。

 象徴。その一言が頭の中で繰り返され、うまく消えなかった。

 教会はセラフィナを王族の姫として見ていない。

 ただ、瘴気を引き寄せる異質な存在であり、白耀石のそばに置くことで王都の均衡が保たれている──その程度にしか考えていないのだ。


 セラフィナの震える細い肩を思い出し、胸の奥がひやりと冷たくなる。

 怒りは、そのあとから遅れてきた。

 遅れてきた怒りは、熱くなかった。むしろひどく冷静で、だからこそ始末が悪かった。

 危険物と、それを抑える石。

 あるいは、現象と制御装置。


 何を言っている。

 何を、そんな当然のように。


 ぞっとするほど、人として扱っていない。


「王家が首を縦に振りますかな」

「振らせるのです。旧都を見捨てるのか、と問えばよい。白耀石を王都にだけ抱え込む理由がどこにあるのか、と」

「姫は体が弱いと聞きますが」

「ならばなおさら石の近くへ。離しておく方が危うい」


 ぽと。


 怒りを通り越して感情が冷えた。胸の奥から背骨に沿って、静かに下りていく種類の冷えだ。レオニスは思わず手首を押さえた。ぐっと力の入った爪先が白む。

 雨だれのような音が鳴った。

 今の話題に反応したのか。

 それとも、自分の考えが何かに触れたのか。


 石はいつも通り冷たいだけだ。

 だが音だけは確かに、少し近くなっていた。

 扉の向こうではまだ会話が続いている。


「巡回浄化とでも名づければ民も納得しましょう」

「姫は人前に出せるのですかな」

「布で覆い、距離を保たせればよい。むしろ“石のそばにあるべきもの”として示せばよいのです」


 示せばよい。

 扱いが、荷や印と変わらない。

 レオニスはその場を離れた。

 これ以上聞いていても、不快さが募るばかりだった。


 廊下を戻りながら、聞いたことを頭の中で整理する。

 教会はこう考えている。

 セラフィナが瘴気を呼ぶ──少なくとも、周囲はそう信じている。

 実際、塔の外を見れば、黒蛇のような流れが塔へ向かっているのも事実だった。


 セラフィナを石の近くに置いておかねばならない。

 王都が保っているのは、白耀石と姫を塔に閉じ込め、管理しているからだと思い込んでいる。

 ならば危機にある地にも、その“組み合わせ”ごと持っていけばよい。

 それは信仰めいた言葉で装ってはいるが、中身はもっと即物的だ。

 厄介なものを、都合のよい場所で使う。道具として。


 それだけだ。


 だが教会のいう主張、すべてが間違っているとも言い切れない。

 そこが厄介だった。


 実際、レオニスの耳に鳴る音は、白耀石の近くだけで強まるわけではない。

 今日、塔を離れてなお続いた。

 まるでセラフィナとともに移動しているように。


 ならば、石と姫の間に何か関係があるという見立て自体は、まったくの見当違いでもないのかもしれない。

 ただし教会のように、 “瘴気を呼ぶ器”という単純な理解で良いとは思えない。

 何かが決定的に欠けている。


 直感でしかないが、あの姫がそんな不浄な存在には思えなかった。

 なぜそう思うのか、論拠を並べることができない。それでも確信だけがある。そういう種類の直感を、レオニスは信じることにしていた。辺境では、理屈より先に身体が知ることの方が多かったから。

 痩せているせいで年齢より幼く見えるのに、時折見せる笑顔は驚くほどやわらかい。脳裏に浮かぶ姫はどちらかというと清浄すぎて触れるのを躊躇われるような存在だ。


 高窓の前で足を止める。

 夜の王都が見えた。

 遠く、白耀の塔が闇の中でぼんやり浮いている。


 美しい塔だ。

 白く、清浄で、近寄りがたい。


 だがレオニスには、その美しさがむしろ不気味に見えた。

 あまりにも整っていて、あまりにも閉じている。


 王都の守りの象徴。

 白耀石の塔。

 呪い姫の住まう場所。


 誰もがそう言う。


 だが、本当にそれだけなら、家族はあんな風に接するだろうか。

 あの王妃があんな目をするだろうか。

 兄があんなふうに視線を強張らせるだろうか。

 姉が苛立ちの奥に焦りを滲ませるだろうか。


 違う。

 あれは、もっと別の何かを抱えている顔だった。


 ぽと。


 耳のすぐ近くで落ちたように聞こえ、レオニスは反射的に振り返った。

 もちろん誰もいない。

 音だけがある。音だけが、確かにそこにいる。

 音だけが近い。

 塔ではなく。

 石でもなく。

 もっと別のものに反応するように。

 レオニスはゆっくり息を吐いた。


 ──あの姫か。


 そう考えるのが、今のところいちばん自然だった。姫のいる塔へ足を踏み入れてから聞こえた雨だれ。いつも音が鳴るのは姫のことを考えていた時ではなかったか。

 だがそれだけで、軽々しく断じる気にはなれない。

 理由が足りない。

 証拠もない。

 ただ、音が姫に従うように動いたというだけだ。

 硬質な自身の足音が薄暗い廊下に響く。その音に苛立ちが混ざっているのを感じて、そんな自分の心境に少し驚く。

 レオニスはぐっと握りしめていた拳からゆっくりと力を抜いた。


 今日いくつかはっきりとしたことがある。

 まず、教会は姫を人として見ていない。瘴気を呼び寄せる不浄ななにかと決めつけている。

 王家は、なにか真実を隠している。

 そしてレオニスの持つ石は、それらにきっと反応している。

 ならば必要なのは推測ではなく記録だ。


 ぐちゃぐちゃと自分が考えていても結論には至らないだろう。

 きっとあるはずだ。


 白耀石に関する文書。

 王家が閲覧制限をかけている書類。

 教会側に残る洗礼や献納の記録。


 古いものほどいい。白耀石が城に掲げられるようになった経緯まで遡れるもの。それからセラフィナ誕生前後の、塔に住まわせられることになった理由を。

 正規に見られるものには限りがあるだろう。丁度ここは王城だ。書物庫で調べるのはそれほど難しい話ではない。まずは見られる範囲から探るしかない。

 護衛騎士という立場は、思いのほか便利だ。

 王城の中を歩く理由があり、目立ちすぎもしない。


 ぽと。


 音は止まない。

 急かすようでもあり、導くようでもある。

 それが気に食わなくて、レオニスはわずかに眉を寄せた。


「……何なんだ、おまえは」


 石に向けた問いか。

 音そのものに向けたものか。

 それとも、白耀の塔に閉じ込められたあの姫へ向けたものか。

 自分でもよくわからない。


 ただ、今日の茶会で見たセラフィナの顔が妙に離れなかった。

 頬紅を差され、少しだけ晴れやかに見えた横顔。

 母の指先を見て、ほんの一瞬だけ息を呑んだ顔。

 あの一瞬の息を呑み方が、頭から離れない。驚いたのでも傷ついたのでもなく、期待しかけて自分で止めた、あの顔。

 家族の言葉を受けて、何でもないように座っていた顔。

 そして、回廊で“わたしのせいかもしれない”と口にしかけたときの、あの諦めたような目。

 あの姫は、自分が嫌われていると思っている。

 そう思い込み、そうであれば筋が通ると、自分を悪い方へ当てはめて耐えている。


 辺境では何度も見た顔だった。責められる前から頭を下げる者、失う前から諦める者、泣くことを覚えたまま涙を止めた者。

 ああいう顔をした人間は、ある日ふいに壊れる。


 レオニスは視線を塔へ戻した。

 何も知らないまま、あの姫を教会に任せる気にはなれなかった。

 王命を受けた護衛騎士として、それが本分を外れる行為だとしてもだ。

 むしろ何も調べずに従う方が、不誠実だ。


 レオニスは踵を返した。

 今夜のうちに書物庫と記録庫の位置を確認する。

 古い台帳の保管先も、王宮書記の動きも見ておくべきだろう。

 教会が石と姫を動かそうとしているなら、悠長に構えている暇はない。評議は近いのだ。


 夜の回廊は冷えている。

 窓の外には、王都の灯がまだ散っていた。


 ぽと。


 雨だれの音だけが、彼を先へと追い立てる。

 それは警鐘のようでもあり、どこかへ導く糸のようでもあった。

 レオニスはまだ、その行き先を知らない。

 ただ、もう立ち止まってはいられないことだけは、はっきりしていた。


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