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第3章 数カ月に一度の茶会②

 

 侍女が最後に軽く甘い花の香りのするコロンを吹き付け、深く頭を下げる。


「ご用意、整いました」

「ありがとう」


 立ち上がろうとして、セラフィナは軽く息を呑んだ。

 ただ椅子から立ち上がっただけなのに、視界が一瞬だけ白くなる。よくあることだった。

 食が細いせいか、眠りが浅いせいか、それとももっと別の理由なのか。自分でもわからない。


 大丈夫、と言う前に、レオニスが一歩近づく。


「セラフィナ様」


 その声が近い。


 次の瞬間にはもう、黒い手袋に包まれた手が、セラフィナの肘の少し上を支えていた。

 ためらいがなかった。

 セラフィナは目を見開く。


 手袋越し。

 問題はない。

 頭ではわかっている。けれど、“支えられる”ということ自体に、まだ身体の方が慣れていなかった。


「……ごめんなさい」

「謝ることではありません」

「でも」

「立ちくらみですか」

「少しだけ」

「少しには見えません」


 ぶっきらぼうなのに、手は放さない。

 セラフィナはわずかに視線を伏せた。

 黒い手袋越しの重みは、驚くほど安定している。熱は伝わらないはずなのに、不思議と落ち着いた。


「歩けます」


 セラフィナが主張しても、しっかりと支えられた腕は少しも緩まない。一歩、一歩と少しずつ歩を進めるが、その手は一向にセラフィナの腕を離さない。


「ゆっくりお進みください」

「信用がないのね」


 けれど、少しだけ体重を預ければ動くのも幾分楽なのは本当だった。


「厨房にもっと肉を増やすように伝えてくれ」


 レオニスの言葉に侍女が頭を下げて承諾する。


「今の食事で大丈夫よ」

「足りていないから倒れるのです」


 みんなに余計な手間を増やさせてしまうのを恐れ、そんなことはないと言い返したくなったけれど、セラフィナはやめた。

 彼が自分の歩調に合わせてくれているのがわかったからだ。


 白耀の塔を出て王城へ向かう回廊は、晴れた日ほど白く眩しい。

 高窓から差す光が石床に長く落ち、その上を歩くと、自分までどこか薄く透けてしまいそうな気がする。


 セラフィナはレオニスに支えられたまま、普段よりゆっくり歩いていた。


「……こういうのも、護衛の務めなの?」

「何がですか」

「私を支えたり、歩く速さを合わせたり」


 レオニスは少しだけ考えるようにしてから答えた。


「必要なら」

「必要ない姫君もいるでしょう」

「私の主には必要です」


 あまりに真っ直ぐ言われて、セラフィナは少しだけむっとした。


「そんなこと……」

「事実です」


 そんなことないと言い切る前に、淡々と答えられてしまう。前を向いて歩くレオニスの表情は変化に乏しく、その心の内は全く見えない。いつの間にかそんなレオニスに自然と気持ちを伝えられるようになったのは大きな変化かもしれない。


 これなら、きっと、家族の前でも……


 セラフィナの体を支配する緊張に気づかないふりをする。


「今日のレオニスは、事実ばかりね」

 セラフィナは息があがるのを誤魔化すように小さく呟く。


「嘘が要る場面ではありません」

「少しくらい、やわらかく言ってくれても」

「……気をつけます」


 その答えがあまりにもぎこちなくて、セラフィナは思わず笑ってしまった。さっきと同じように、レオニスは一瞬だけこちらを見る。


 やはり彼は、セラフィナが笑うことにまだ慣れていないのかもしれない。


 回廊の途中で、セラフィナはふと窓の外を見た。

 遠く、白耀の塔の先端が見える。塔のさらに上には、白耀石がある。あの巨大な石のすぐ下で、自分は暮らしている。


「ねえ」

「はい」

「耳鳴り、もしかして今もしているの?」


 問いかけると、レオニスの指先がわずかに強ばった。


「……少し」

「じゃあ本当に高いところが原因ではないってことね?」


 聞きながら、自分がなぜこんなに確かめたいのかわからなかった。高いところのせいであってほしい、とどこかで思っている。そうでなければ、答えは自分に近づいてくる。


 そこで初めて、レオニスが足を止めた。

 セラフィナもつられて立ち止まる。

 彼は一度だけ背後を振り返った。白耀の塔の方へ。

 それから、またセラフィナを見る。

 灰色の瞳の奥に、考え込むような影が落ちていた。


「塔の中だけだと思っていました」

「大丈夫?」


 瞳を覗き込むが、レオニスの瞳は不安も何も浮かべていない。だからこそ、その瞳はまるで鏡のようにセラフィナの不安を映し出すようだ。


「もしかして、わたしが……」


 レオニスはたぶん、その言葉だけで先を読んだのだろう。


「決めつけないでください」

「でも、わたしと一緒に外へ出てからも続いているのでしょう」

「そうです」


 否定してくれるかと思ったのに、そこは素直に肯定するから困る。


 セラフィナは少しだけ唇を結ぶ。


「やっぱり、わたしが何か……」

 セラフィナは呪い姫だ。触れたら人が死ぬ。そんな人知を超えた存在なのだから、一緒にいる人が耳鳴りを起こしてもおかしくはない。


「私だけです、聞こえているのは」


 いつもと違いその言葉は少し強く聞こえた。

 確かにレオニスのいう通り、今までやめていった侍女や騎士達からそんな話を聞いたことはない。


「勝手に悪い方へ決めるべきではない」


 それはたしなめるようでもあり、言い聞かせるようでもあった。肘を支える手にわずかに力がこもり、その言葉が本心なのだと伝わってくる気がした。

 セラフィナは黙る。

 そんなふうに言ってくれる人は、これまでいなかった。


 やがて二人は再び歩き出した。


 小広間の前へ着くころには、セラフィナの足元はまた少し心許なくなっていた。緊張のせいだろう。喉が渇き、指先が冷たくなる。


 それでも、レオニスの支えがあるだけで倒れずにいられる気がした。

 扉が開く。


「お待たせして申し訳ございません」


 最初に固まったのは兄だった。

 兄、ユリウスの目が、セラフィナではなく、その肘を支えるレオニスの手に向く。

 姉の扇がぴたりと止まり、母がほんのわずかに息を呑む。

 父だけは表情を変えなかったが、その視線はいつもより鋭かった。

 その沈黙の理由を、セラフィナはすぐには理解できなかった。

 ただ、自分の身体に触れているレオニスを、皆が見ている。


 四人の色はよく似ていた。

 父に似た姉は、明るい金の巻き髪まで華やかで、そこにいるだけで場を照らすようだ。

 母に似た兄は、淡い金の髪のせいか、ただでさえ硬い表情がいっそう冷たく見える。

 その中で、自分だけが白銀の髪をしている。

 並んでいても、誰も同じ家の者とは思わないだろう。


 セラフィナがゆっくりとテーブルに近づくと、レオニスは少しも動じた様子を見せず、いつもの調子で一礼した。


「姫君、少し足元が不安定でしたので」


 父が短く頷く。


「そうか」


 たったそれだけなのに、部屋の空気は妙に張りつめていた。


 レオニスはそこでようやく手を離す。

 離れた途端に、肘のあたりが少しだけ心細くなる。そんな感覚に、自分で少し驚いた。


「お招きありがとうございます、お父さま、お母さま。お兄さま、お姉さま」


 挨拶をすると、父が座るよう促した。

 卓を囲むには微妙に遠い席。

 いつもの席だ。

 セラフィナが腰を下ろすのを見届けてから、レオニスは扉のそばへ控える。完全に下がるわけではなく、今日は室内に残るらしい。

 茶会の場に侍女ではなく護衛が残るのは珍しい気もしたが、誰も何も言わなかった。


 茶が注がれ、菓子が並べられていく。

 その所作の一つひとつは慎重で、無駄がなく、そしてどこか冷たかった。

 この場にいる者は皆、長手袋をはめている。

 セラフィナに不用意に触れぬため――それが、このお茶会における礼儀であり、正装でもあるかのようだった。

 目に映るものはどれも美しい。けれど、その美しさには温度がなかった。


「顔色が悪いな」


 最初に口を開いたのは兄だった。セラフィナと十ほど歳の離れた兄は、健康的で逞しい体躯をしており、この兄から見れば頬紅で誤魔化してもセラフィナの肌の白さは病的にうつるのだろう。

 毎度のことだがやっぱりその言葉から始まるのだ、とセラフィナは思う。


「平気です」

「平気そうには見えない」

「……少し、立ちくらみがしただけです」


 そう言ってしまってから、しまったと思った。

 兄の視線が一層鋭くなる。


「食べていないのか」

「いいえ、きちんと食べております」

「では何だ。侍女の管理が悪いのか」

「違います」


 思わず強く否定すると、兄はわずかに息を呑んだ。


 責められたと感じたのかもしれない。けれどセラフィナだって、侍女たちを庇いたかった。今残ってくれている侍女たちはみんな頑張ってくれている。最近ようやく、少し長く塔にいてくれるようになったのだから。


「侍女たちは、ちゃんとしています」

「ならばおまえの問題だ」


 その言い方はやはり冷たい。

 けれど兄の指先が、カップの持ち手を強く握っているのが見えた。


「近く評議会もある。余計な憶測を呼ぶような姿を見せるな」


 憶測。

 その言葉だけで、胸の奥に薄い刃が滑る。


 呪い姫。瘴気を呼ぶ娘。

 セラフィナの二つ名として広まった悪評はそれだけで皇太子の兄には不名誉なことだろう。


 セラフィナは視線を落とした。


「……申し訳ありません」


「謝れば済むことではないでしょう」


 今度は姉が口を開いた。

 四つ年上のエレノアは、その場にいるだけで目を引く華やかさを持っている。もうすぐ隣国へ嫁ぐことも決まっていた。そんな美しい姉は、今日もどこか苛立っているように見えた。


「あなたがどう見られるかは、あなただけの問題ではないの。もう少し自覚を持ちなさいな」

「エレノア」


 王妃が静かに名を呼ぶ。


「だって本当のことでしょう、お母さま」


 姉は扇を閉じた。


「このままでは、ますます妙な噂が広がるわ。お父さまもお兄さまも、どれほど気を揉んでいるか」


 その言葉は、まるで自分が迷惑の種であることを改めて教えるようだった。


 セラフィナは唇を噛みそうになるのを堪える。


「塔の窓辺は冷えるでしょう」


 ふいに王妃が言った。淡々と感情を読み取れない言葉に、セラフィナは顔を上げる。


「夜は塔の火を絶やさぬよう、伝えてあります」


 母が口にしたのはそれだけだった。


 それだけなのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろう。


「ありがとうございます、お母さま」


 本当は違うことを言ってほしい。

 寒くないかではなく、苦しくないかと。

 よく来たと。

 会えてうれしいと。

 けれど王妃は静かに微笑むだけで、それ以上は何も言わない。


 父が書類を卓の脇へ置いた。


「旧都の状況がさらに悪化している」


 その一言で、部屋の空気が変わる。

 兄の肩が強張り、姉も視線を伏せる。

 王妃だけが笑みを張り付けた表情を崩さない。


「教会からも、白耀石の運用について進言があった。近く正式に評議する」


 白耀石。

 塔の上にある、あの大きな石。セラフィナが見上げるように塔に目線を送る。


「おまえが気にすることではない」


 父はセラフィナに向かってそう言う。

 けれど自分に関わらぬことなら、なぜこの場でわざわざ告げるのだろう。


「……はい」


 喉の奥が冷える。


 そのときだった。

 王妃の手が、ほんの少しだけ動いたのは。

 卓上の菓子へ伸びた指先が、途中で迷うように止まる。

 ほんの一瞬、こちらへ向けられた気がした。


 近くに座っていたなら、頬にでも触れようとしたのかと思う。そんな仕草だった。

 けれど、その手は次の瞬間には静かに引かれていた。


 やっぱり、と思う。思ったのに、胸の奥がひどく静かに痛んだ。やっぱり、と思えることには慣れているはずなのに、今日だけはうまく飲み込めなかった。

 母ですら、自分に触れるのをためらう。布越しでも触れてくることはない。


 先ほどレオニスが迷いなく支えてくれた感触が、かえって鮮やかによみがえってしまって、胸が痛んだ。


「顔色が悪い。もう下がらせた方がいいでしょう」

 兄が言う。

「無理をさせる意味はありません」


 “意味”。

 その言葉が、ひどく冷たく聞こえる。


「そうね」

 姉も続ける。

「塔で休んでいなさい、セラフィナ。今日はそれが一番よ」


 塔で。

 静かに。

 ここではない場所へ。


「本日は、お招きありがとうございました」


 立ち上がり、一礼する。

 誰も引き留めなかった。

 ただ王妃だけが何か言いかけ、結局は声にならないまま目を伏せた。

 その沈黙が、いちばんつらい。


 椅子から立ち上がると、急に呼吸が浅くなった。

 レオニスに話すように、普通に話せるようになったような気がしていたのに、無理だった。言葉は胸で詰まって音にならない。

 扉の脇で待っていたレオニスが、すぐに近づく。行きと同じように自然とレオニスはセラフィナを支え、二人はそのまま小広間を退出した。


「セラフィナ様」


 泣きたいわけではない。

 それでも喉の奥が痛く、目の奥が熱い。


「……なんでもないわ」

「そうは見えません」

「ずいぶん、はっきり言うのね」


 泣きたいわけではないのに、声が震えそうになる。それを悟られたくなくて、少し語気が強くなった。


「言わない方がいいですか」

「少しは遠慮してくれても」

「難しいです」


 その返事が妙に真面目で、セラフィナはかすかに笑いそうになり、でもうまく笑えなかった。


 数歩歩いたところで立ち止まる。


 窓の外には、白耀の塔が見える。自分のいるはずの場所。


「家族は……」


 そこまで言って、言葉が止まる。


「わたしのことが、お嫌いなのよね」


 返事はすぐには来なかった。

 沈黙はときどき、肯定より残酷だ。けれど、答えてほしかったのか、答えてほしくなかったのか、自分でもよくわからなかった。

 セラフィナは小さく笑う。


「困らせたわね。忘れて」

「困ってはいません」


 低い声だった。

 顔を上げると、レオニスは何か言いかけたように見えた。

 けれど次の瞬間、ふいに表情が変わる。

 足が止まる。

 右手が、無意識のように手首の石へ触れる。

 視線が、遠くではなく、近くの何かを探すように揺れる。


「……また?」

 セラフィナが問うと、レオニスは小さく息をついた。


「ええ」


 頻度が多すぎないだろうか。

 今、自分たちは塔の中ではない。

 王城の回廊だ。白耀石の真下でもない。


 レオニスは一度だけ背後の塔を振り返った。

 それからもう一度、セラフィナを見た。

 その視線が痛い。

 まるでセラフィナの中に答えを探しているようで。


「塔の中だけだと思っていました」


 静かな声だった。

 セラフィナの胸がすうっと冷える。あぁ、この人もこうして、塔から、わたしから離れていくのだ。


「……それじゃあ、やっぱり」

 わたしが。


 そう言いかけたのを、レオニスが遮る。


「まだわかりません」

「でも……」

「決めつけないでください」


 今度はさっきより、はっきり強かった。

 セラフィナは驚いて口を閉じる。

 レオニスは少しだけ言葉を探すように黙ってから、いつもより低い声で続けた。


「わからないことまで、あなたのせいにする必要はない」


 その言い方は不器用で、慰めとしてはあまり上手ではない。

 けれど、だからこそ作り物にも聞こえなかった。

 セラフィナは目を伏せる。


「……そうね」

「はい」

「でも、あなたには迷惑ばかりかけているわ」

「それが役目です」

「便利な言葉」


 今度こそ、セラフィナは少しだけ笑った。

 ほんの少しだけ。泣きそうな気配の残る笑みだったけれど、それでもさっきよりはましだった。


「やめてもいいのよ?」


 思っていたよりその言葉はセラフィナの胸を抉る。


「やめませんよ」


 レオニスは自身の外套を、そっとセラフィナの肩へかける。


「冷えます」

「あなたが寒いわ」

「あなたの外套をお持ちしなかったので、これで我慢してください」

「……ありがとう」


 少しだけ間があった。

 セラフィナはやめないと言ってくれたことに感謝を述べた。

 ただレオニスのぬくもりを残した外套の重みを肩に受けながら、胸の奥の冷えがほんの少しやわらぐのを感じる。


「戻りましょう」

「ええ」


 歩き出すと、レオニスはさっきより少し近い位置にいた。

 庇うように。離れすぎないように。

 そのことが、どうしようもなくありがたかった。人の体温にこれほど慰められるなんて思ってもいなかった。


 白耀の塔へ戻る道すがら、セラフィナは今日の茶会を思い返す。

 兄の厳しい声。

 姉の冷たい忠告。

 父の規則のような言葉。

 母の、無にも近い貼り付けられた笑み。

 やはり自分は遠ざけられているのだと思う。

 そう思うのに、どうしてみんなの目だけは、あんなふうに苦しそうに見えてしまうのだろう。


 そしてもう一つ。

 隣を歩くレオニスの顔をそっと見上げて盗み見る。

 塔の中だけで起きると言っていたレオニスの“耳鳴り”が、なぜ塔を出たあとも続いているのか。

 その理由をセラフィナは知りたいと思った。自分がやはりよくないものなのではないかという不安を抱えて、白耀の塔へ戻る足取りは、行きよりもずっと重かった。

 戻るしかないのだと、石床の冷たさが教えてくる。

 隣を歩くレオニスの沈黙も、いつもの静けさとは少し違っていた。

 彼もまた何かを考えているのだと、セラフィナにもわかる。


 ただ、見えない何かが今日、塔の外までついてきたのだということだけが、薄い影のように二人のあいだへ落ちていた。


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