第3章 数カ月に一度の茶会①
レオニスが白耀の塔へ来てから、目に見えて何かが変わったわけではない。
塔は相変わらず静かで、白く、少し冷たい。
高い窓から入る光は薄く、外の季節はいつも遠い。
侍女たちも変わらず手袋をはめ、室内での行動は必要以上に慎重で、セラフィナの素肌へ近づくことをひどく恐れている。
それでも、たしかに前とは違っていた。
以前は、来たばかりの侍女が数日も経たぬうちに顔色を変え、配置替えを願い出たり、勤めを投げ出したり、泣きながら塔を去ったりすることも珍しくなかった。
セラフィナを見るだけで怯える者もいれば、ただ“呪い姫”という噂に耐えきれなくなる者もいた。
けれど最近は、少しだけ長く続くようになっている。
それは侍女たちが勇敢になったからではないと、セラフィナにもわかっていた。
ただ、塔の中にひとり、ひどく無駄のない人がいるだけだ。
レオニスは必要なことしか言わない。
だが、その短い指示には逆らいにくい静けさがあった。
器の受け渡しの仕方、手袋の替え時、室内で待機するべき時の立ち位置、扉の開閉。
侍女が怯えた目で立ち尽くしていれば、低い声で短く指示を出す。
噂話の気配があれば、それだけで空気を冷やす。
怒鳴るわけでもなく、ただ自分の務めを淡々と果たしているだけなのに、その静けさが塔の空気を変えるのに、そう時間はかからなかった。
そのせいか、最近は侍女がわずかに震えながらも髪を整えてくれるまでになっていた。
──それから、セラフィナ自身も。
「歩いてください」
ある日の午後、開け放たれた回廊でそう言われたとき、セラフィナは本気で聞き返した。
「今、なんて?」
「歩いてください」
まったく同じ声で繰り返される。
冗談を言っている顔ではなかった。
白耀の塔の上階へ続く螺旋階段の前に立たされ、セラフィナは思わず眉を寄せる。
「どうしてわたしが、こんなところを」
「一日に歩く距離が短すぎます」
「必要な時には歩いているわ」
「足りていません」
即答だった。
セラフィナは階段を見上げた。
白い石の段が、くるくると上へ伸びている。見ているだけで気が遠くなりそうだ。しかも居住区であるセラフィナの部屋より上は部屋もなく、高くなるにつれ螺旋に続く階段は細く急になっていっている。
「疲れるもの」
「そうでしょうね」
「だったら」
「だから歩くのです」
あまりにも当然のように言われてしまい、セラフィナは口をつぐんだ。同意してくれた、と思った瞬間に続きが来る。この人の「そうでしょうね」は慰めではない。事実の確認だ。それがわかってきたのはいつからだろう。
彼は昔からずっと塔にいた人間のような顔で言うけれど、ここへ来たのはほんの少し前のはずなのに。
「嫌です、と言ったら?」
「説得します」
「今すでにされている気がするわ」
「足りないようですので、続けます」
真顔でそう言われて、セラフィナは負けた気がした。
最初の数段で、もう息が上がる。
悔しくて黙ったまま進むけれど、裾は重いし、胸はすぐに苦しくなるし、何よりレオニスがすぐ後ろにいるのが落ち着かない。
「遅いです」
「ひどいわ」
「事実です」
「あなた本当に、やさしさというものがないのね」
「必要なら出します」
「今は必要でしょう」
「今は甘やかさない方が必要です」
そんなやり取りをしながら、それでも一段ずつ登っていく。
途中で何度も立ち止まりたくなった。実際に二度は立ち止まり、そのたびにレオニスは「あと少しです」とも「頑張ってください」とも言わず、ただ待った。
その待ち方が、かえってずるい。戻るとは言えなくなる。
ようやく上階の小さな見晴らし台へ辿り着いたときには、セラフィナはもう肩で息をしていた。
「だから、嫌だと、言ったのに……」
息が切れていて、うまく声が出なかった。それでも言わずにいられなかったのは、黙っていたら泣きそうだったからかもしれない。疲れているのか、それとも別の何かがこみあげているのか、自分でもわからなかった。
恨みがましく言うと、風が汗ばんだ額へ触れた。
思わず顔を上げる。
高い。
塔の突端の方は、下から見上げるのとは少し違っていた。
白耀石が鈍く光っている。
空が近い。風が強い。遠くの海の光がはっきりと見える。
王都の屋根も、人も、いつもより小さく見えた。
「……きれい」
セラフィナの長い髪が風に攫われる。零れるようにそう言ったあとで、自分が笑っていることに気づく。
頬は熱い。
胸もまだ苦しい。
それでも、息のあがった身体のまま風に吹かれているのが、少しだけ気持ちよかった。
振り返ると、レオニスが静かにこちらを見ていた。
相変わらず表情は薄い。
けれどその灰色の瞳の奥に、ほんのわずか、満足そうな色が灯った気がした。
「何、その顔」
「別に」
「今、少し機嫌がよかったでしょう」
「気のせいです」
「いいえ、たぶん違うわ」
そう言うと、レオニスは否定しなかった。
ただ、塔の外から吹き込む風の中で、セラフィナの乱れた呼吸が少し落ち着くのを待つように、黙ってそこに立っていた。
その日から、ときどき階段を上るようになった。
嫌だと思う日もあれば、今日は風が強いかしらと思う日もあった。
たぶん、そういう小さなことの積み重ねで、セラフィナは少しずつ、レオニスがいる塔の空気に慣れていったのだと思う。
「姫様、本日はこの髪飾りにいたしましょうか」
若い侍女が、箱の中から淡水色の細いリボンを持ち上げる。
セラフィナは鏡越しにそれを見て、小さく頷いた。
「きれいね。お願い」
「はい」
返事の声が、前よりいくぶん自然になった気がする。
大したことではない。
たぶん他の姫君なら、侍女が髪を結うことなど、気にも留めないほど当たり前のことなのだろう。
けれどセラフィナにとっては、それだけで胸のあたりが少しゆるむほどの変化だった。
長い白銀の髪を半分だけまとめられながら、セラフィナは鏡の中の自分を見る。
淡い色のドレス。細い首。ひどく白い頬。
今は鎖骨のあたりを泳いでいる魚の痣は、今日は襟の高いドレスに隠れて見えない。
数カ月に一度の茶会の日だった。
王族に、家族に会うための装い。
会いたいのか会いたくないのか、自分でももうよくわからない相手たちの前へ出るための服。
こういう日は、決まって昔の声を思い出す。
白耀の塔へ時折訪れていた若い神父、シリルの声を。
淡い色の長い髪が、塔の細い窓から差し込む光を受けてやわらかく揺れていた。整った顔立ちは年よりも若く見え、神々しいとさえ思えるほど美しかった。
他の者のように怯えた目をせず、ただ静かに座り、神話や古い聖人の話をした。
「選ばれた者には、孤独が与えられます。けれどその苦しみには、必ず意味がある」
誰も来ない夜の塔で、その言葉だけが灯りのように見えた。
怖がらずに来てくれる人が、いた。
それだけで、十分すぎるほどだった。
今もそう思う。
——思おうとしている、と言った方が正しいかもしれないけれど。
「少し、顔色がよく見えるようにいたしましょうか」
侍女がためらいがちに、薄く色づいた頬紅を見せる。
セラフィナは少しだけ笑ってうなずく。侍女は手早くブラシを使い、セラフィナの頬に色味を足した。
「変ではないかしら」
「その……と、っとてもお似合いです」
焦ったようなその言い方が可笑しくて、セラフィナは鏡越しに侍女を見た。
侍女は驚いたように肩を竦め、それからおそるおそる微笑んだ。
「ありがとう、とても良くなったわ」
ふっと息がゆるむ。
こうして他愛ないことを話せるようになったのも、たぶん最近のことだ。
以前は侍女たちの方が、セラフィナの前では必要最低限の言葉しか口にしなかった。
まるで会話を交わすことまで禁じられているかのように。
ノックと共に扉の向こうでレオニスが声をかけてくる。
「時間です」
相変わらずの短い声。
けれど今のセラフィナには、その声音が以前ほど硬く聞こえない。
「もうそんな時間?」
「はい」
「まだ、少し早い気がするのだけれど」
「気のせいです」
即答だった。セラフィナは思わず振り返る。茶会が近づくたびに胸の奥に溜まっていく重さを、この人はまったく気にしない顔で立っている。その無頓着さが、今日は少しだけありがたかった。
セラフィナは思わず振り返る。セラフィナを整え終わった侍女が扉を開けるところだった。
「たまには、少しくらい同意してくれてもいいでしょう」
「事実ではありませんので」
「レオニスは融通がきかないのね」
「よく言われます」
あまりにも真顔で返すものだから、セラフィナはくすりと笑ってしまった。
その瞬間、レオニスの表情がほんのわずかに止まる。
驚いたのかもしれない。
セラフィナも少しだけ驚いていた。笑うことすら忘れていたのに自然と生活に穏やかな気持ちまで戻ってきたようで。
けれど次の瞬間、レオニスがかすかに眉を寄せる。
右のこめかみに指先が触れたのを見て、セラフィナは首を傾げた。
「また?」
レオニスは手を下ろした。
「……ええ」
「その、耳鳴りみたいなもの?」
以前、一度だけ聞いたことがある。
塔へ来てからときどき妙な音がすると、彼はごく簡単にそう言った。
「そうです」
「痛むの?」
「いえ」
「音が大きいの?」
少し考えるような間があった。
「……近い、と言う方が正しいかもしれません」
近い。
その言葉が胸に引っかかった。
「塔に入ってから?」
「そう思っていました」
“思っていました”。
過去形めいた響きに、セラフィナはもう一度首を傾げる。
「今は違うの?」
レオニスはすぐには答えず、ただ静かにセラフィナを見た。
淡い灰色の瞳はいつも冷たく見えるのに、ときどき妙にまっすぐで、目を逸らしたくなる。
「まだ、わかりません」
「……そう」
その答え方が何を意味するのかわからないまま、セラフィナは窓の外へ目を逃がした。わからないことを、これ以上言葉にしたくなかった。頬紅を差してもらい、少しだけ浮き立っていた気持ちが、その一言で静まっていく。
なにかがここで起きているのかもしれない。そんな悪い予感がして、手袋の下で指先が冷えていくのを感じる。




