番外編 触れられる夜②
けれどセラフィナだけは、いつものセラフィナだった。
少しはにかみ、少し緊張し、それでも幸福そうに、自分の隣を当然のように空けている。
「レオニスも、食べませんか?」
差し出された皿を断る理由は、なかった。
レオニスがひとつ摘まむと、セラフィナも嬉しそうに小さなチョコレートを口に運んだ。
それから、すぐ隣へ腰を下ろす。
衣擦れの音が、近い。
「今日は、本当に夢のようでした」
セラフィナが、ぽつりと言った。
「皆様に祝っていただいて。兄様も、姉様も、お父様もお母様も笑っていて。レオニスが、ずっと隣にいて……」
そう言って、彼女は何気ない仕草でレオニスの手に触れた。
指先が重なる。
ただそれだけのことに、レオニスの身体は一瞬、強張った。
セラフィナはもう、触れられることに慣れている。
手を繋ぐことも、腕に触れることも、抱きしめられることも。
それらを恐ろしいものではなく、安らかなものとして受け取れるようになっている。
それは、ずっとレオニスが望んでいた未来だった。
けれどレオニスの方は、まだ追いついていなかった。
長く、触れてはならないと己に刻み込んできた。
触れたくても触れられず、抱き寄せたくても距離を置き、守るために何度も手を引いた。
その戒めは、触れてもよくなったからといって、簡単に消えるものではない。
そして今は、もうひとつ別の意味で危うかった。
セラフィナは、重ねた指をそっと絡めた。
「……レオニス?」
「はい」
「手を繋ぐのは、心地良いですね」
その言葉に、レオニスは胸を突かれた。
「それならば良かったです」
低く答えると、セラフィナは安心したように微笑んだ。
そのまま、少しだけ肩を寄せてくる。
近い。
触れている。
触れられている。
その事実が、今夜はどうしようもなく熱を帯びていた。
窓の外から結婚式の余韻が風に乗って伝わってくる。祭りの夜の熱気は、秋の冷えを含んだ風に、少しずつほどけていた。
「甘いですね」
セラフィナはそう言って、もうひとつチョコレートを口に含んだ。
小さな花の形が、赤く色づいた唇の間に消える。
そのあと、彼女は何気なく舌先で唇に残った甘さを拭った。
本人には、なんの意図もなかったのだろう。
ただ甘いものを楽しんでいるだけの、無邪気な仕草にすぎない。
それなのに、レオニスは一瞬呼吸を忘れた。
蕾のように柔らかく色づいた唇。濡れた舌先。
そこに残る、チョコレートの甘い香り。
ただそれだけのことを、ただそれだけのこととして受け止められないのは、自分の方だった。
触れたい。
先ほど胸に浮かんだ言葉が、今度はもっとはっきりと形を持った。
「セラフィナ様」
「もう、あなたの妻なのですから」
呼ばれて、振り向いたセラフィナは不満げに唇を軽く尖らせた。
その無防備さに、胸が痛くなる。
「セラフィナ様」
「ほら、また様をつけました」
「失礼いたしました」
「失礼ではありません。でも……」
セラフィナは少し身を寄せ、ためらうように声を落とした。
「セラフィナと、呼んでください」
レオニスは言葉に詰まった。
気軽に呼べるはずがなかった。
それはレオニスにとって塔の中で守るべき姫君。
触れてはならない王家の末姫。
そのすべてを越えてただひとりの妻として呼ぶ名。
セラフィナ。
胸の内でさえ、その響きは熱を持った。
「……セラフィナ」
声にした瞬間、彼女の睫毛が小さく震えた。
「はい」
たったそれだけの短い返事だ。
けれど、レオニスには結婚式の宣誓の言葉よりも深く胸に残った。
「もう一度、呼んでください」
「セラフィナ」
名を呼びながら、そのまろい頬に指先で触れた。
セラフィナは逃げなかった。
それどころか、その手にそっと頬を寄せ、自分の掌を重ねてくる。
「はい」
くすぐったそうに微笑むその顔があまりに無防備で、レオニスは今夜何度目かもわからないほど深く息を吸った。
「口づけても、よろしいでしょうか」
レオニスの言葉に、セラフィナは一度目を丸くしてから瞬かせた。
そして、セラフィナの頬がゆっくりと赤く染まる。
「……はい」
レオニスは、そっと身を屈めた。
唇が触れる。
ほんの一瞬。
触れただけの口づけだった。
それなのに、その柔らかさに、どうしてか胸が詰まって泣きたくなった。
かつては、指先ひとつ触れられなかった人だった。
触れれば奪ってしまうと信じ、触れられれば失ってしまうと知った人だった。
その人の唇が、今、自分の唇の下でかすかに震えている。
レオニスは一度離れた。
セラフィナは逃げなかった。
むしろ、確かめるように、指先で彼の衣をきゅっと握っていた。
それだけで、胸の奥に押し込めていたものが、音もなくほどけていく。
もう一度、唇を重ねた。
今度は少しだけ長く。
それでも、より深く追いかける前に、レオニスは己を止めた。
このままでは、抱き上げるより先に、自分の理性が崩れ去ってしまう。
ここは寝台ではない。
甘いチョコレートと他愛ない会話の名残が残る、ただの長椅子の上だ。
今夜、彼女に触れるのなら。
初めて妻として腕の中に迎えるのなら。
勢いに任せてしまいたくはなかった。
レオニスは、浅く息を吐いた。
今夜は、まだ長い。
額を寄せたまま、レオニスはセラフィナの柔らかな喉元へ視線を落とした。
そこに今、魚の姿はない。
けれど、かつてその小さな命が、彼女の白い肌の上を泳いでいたことを覚えている。
守り、縛り、そして最後には彼女を返してくれたもの。
感謝している。
心から。
それでも。
「……羨ましいと思ったことがあります」
「え?」
セラフィナが、まだ少し潤んだ瞳で瞬きをした。
「あなたの肌を泳いでいた、あの魚が」
「魚……女神様のこと?」
そう言われて、レオニスはようやく、自分が少し不敬なことを言っているのだと気づいた。
けれど、もう遅い。
「はい、あなたに、ずっと触れていたので」
「女神様ですよ?」
「わかっています」
「わかっていて、羨ましいのですか」
「……はい」
セラフィナは困ったように、けれど恥ずかしそうに笑った。
「そんなことを言うのは、きっとレオニスだけです」
「でしょうね」
「それに……そんな恥ずかしいことを、そんなに真面目な顔で言わないでください」
「恥ずかしいことでしたか」
「とても」
セラフィナは赤くなった頬を隠すように、レオニスの胸元へ額を寄せた。
「でも……少しだけ、嬉しいです」
その小さな声に、レオニスはまた試されることになった。
レオニスは長椅子に並び座っていたセラフィナを引き寄せると、優しく両手で抱き上げた。
自然と、セラフィナの両腕が彼の首に回る。
まるで愛しいものに触れるように顔を寄せられて、レオニスはまた少しだけ息を詰めた。
そのまま寝台へ運びそっと下ろす。
今度こそ、妻として腕の中に迎えるために。




