番外編 触れられる夜①
婚礼の夜だというのに、レオニスはなかなか妻の元へ戻れずにいた。
宴はとうに終わり、祝杯の名残を含んだ空気は甘く、燭台の炎は少し低くなった。
レオニスはユリウスに連れられ、彼の私室で酒を注がれていた。
皇太子自ら注いだ酒を、いくら本日の主役とはいえ断れるはずもない。
「レオニス」
皇太子殿下は珍しく酒の色を頬にのぼらせていた。普段ならば決して見せない、少しだけ崩れた表情だった。
「今夜くらいは兄として、言ってもいいだろうか」
レオニスは姿勢を正して次の言葉を待った。
ユリウスは盃をゆっくりと回しながら、しばらく言葉を探すように黙っていた。
その沈黙の長さが、これから言われる言葉の重さを物語っている。
遠くからはまだ風に乗り祝いの音が聞こえていた。
街の音楽は、今宵ばかりは朝方まで鳴り響くのだろう。
「あの時、お前がいなくなった後……あの子は、ただ息をしているだけだった」
酒に口をつけ、ユリウスは一息にそう言った。それから、ようやく見つけた言葉をぽつりぽつりと紡いでいく。
「泣くことも出来ず、眠ることも出来ず、心すら失っていた」
レオニスは、再会した時のセラフィナを思い出した。
たった数日。
そう言ってしまえば、それだけの時間だった。
けれどその数日は、セラフィナからあまりにも多くのものを奪っていた。
瞳の光も、声の温度も、泣く力さえも。
レオニスは、静かに頷いた。
「あの子はな、レオニス。お前を失ったことを、すぐには理解できなかったのだと思う」
自分の身を削りながら、それでもレオニスの消失を受け入れられず、セラフィナは手紙を残していた。
震える手で書かれたそれを、今もレオニスは大切にしまっている。
あなたが、まだどこかにおられるのなら──
その一文を思い出すたび、胸の奥が切り裂かれるようだった。
生きていると信じたかったのではない。
死んだと認められなかったのだ。
その違いが、今なら痛いほどわかる。
「あの子は泣かなかった。いや、泣けなかったのだろうな」
ユリウスは盃の中を見つめたまま、低く言った。
「泣いてしまえば、お前がもう戻らないことを、認めてしまう気がしたのだろう」
レオニスは何も言えなかった。
ただ、黙って頷くことしかできなかった。
「だから、レオニス」
ユリウスは、笑おうとして失敗したような顔でこちらを見た。
「あの子が今、お前の妻として生きていることを、当たり前だと思うな」
当たり前だと思ったことなど、一度もない。
けれど、そう答えることさえできなかった。
当たり前ではないのだと、誰より知っているつもりでいた。
それでも、改めて言われるその言葉が、レオニスの胸の中に重く差し込む。
「……すまない。婚礼の夜に、言うことではなかったな」
ユリウスは盃を置き、苦く笑った。
「だが、今夜でなければ言えなかった」
ユリウスの部屋を辞したあと、レオニスは一度、自らに用意された控えの間へ戻った。
祝杯の香りが残ったまま、セラフィナの前に立ちたくはなかった。
湯を使い、宴の熱と酒の匂いを洗い流す。
婚礼衣装を解き、夜のための簡素な衣へと着替える頃には、城の中はすっかり静まり返っていた。
けれど、胸の奥だけは静まらなかった。
あの子が今、お前の妻として生きていることを、当たり前だと思うな。
ユリウスの声が、まだ耳の奥に残っている。
彼女を守ることなら、何度も誓った。
彼女を助けるためなら、命を捨てることも迷いはなかった。
ただ生きていてほしいと願っていた。
あの塔から出て、空の下を歩き、花を見て、本を読み、誰かに触れられても怯えずに笑ってほしいと思っていた。
ただ、自分が守るべき主が幸せであれば良いと思っていた。その気持ちがいつから恋慕に育ったのか、それがいつから始まったのかレオニスは覚えていなかった。
けれど、彼女の隣に立つ未来だけは、思い描いたことがなかった。
望まなかったのではない。
それは、望むことさえ許されない夢だった。
彼女は王女で、神子姫で、この国の誰もが手を伸ばすことすら躊躇う存在だった。
自分はただ、その身を守るために剣を預かった騎士にすぎない。
だから、爵位を賜ることも、彼女の夫として名を並べることも、かつてのレオニスには想像すらできなかった。
レオニスは燭台の明かりが落とされた廊下を進み、婚礼の夜のために整えられた部屋の前で足を止めた。
その彼女が今、扉の向こうで自分を待っている。
触れることのできる身体で。
自分の妻として。
その言葉は、まだ胸の内でうまく形にならなかった。
幸福という言葉で片付けられるほど軽くもなく、奇跡という言葉にまとめられるほど簡単ではない。
レオニスは、扉の前で一度だけ息を整えた。
それから静かに扉を叩いた。
「……レオニス?」
耳をくすぐる柔らかな声だった。
この声で名を呼ばれるたび、レオニスの胸には、どうしようもなく優しいものが満ちる。
「はい」
短く返すと、セラフィナの居室の扉が内側から開かれた。
すでに灯りを落とされた室内は、甘く華やかな香りで満たされている。
寝台は美しく飾り立てられ、傍らには水差しと酒、それから小さな皿に盛られたチョコレートまで用意されていた。
ふたりきりで今夜を過ごすための支度であることがあまりにもあからさまなお膳立てに、レオニスは正直少し怯んだ。
初夜。
その言葉が、脳裏に静かに浮かび上がる。
「あ、あのね、結婚すると、みんなこういう夜着を着るんですって。姉様がね、たくさんくださったの」
セラフィナはそう言うと、少し恥ずかしそうに、その場でくるりと回ってみせた。
本人は、その布がどれほど心許ないものか、まるでわかっていないのだろう。
薄い白の布は、灯りを受けるたびに淡く透け、彼女の肌の白さを隠すどころか、かえって柔らかく浮かび上がらせていた。
伏せた長い睫毛の落とす影は色濃く、セラフィナを大人びて見せる。
恥じらいに赤く染まった頬。
細い喉元。
かすかに上下する胸元。
それらをひとつずつ目にしてしまうたび、レオニスは、自分の中にある感情が決して清らかなものだけではないことを思い知らされた。
レオニスは一度、静かに目を伏せた。
義理の姉を、少しだけ恨む。
可愛い。
美しい。
愛しい。
守りたい。
そして、触れたい。
そう思った瞬間、レオニスは静かに息を止めた。
痩せ細っていた身体は、この一年半ほどで少しずつ健やかさを取り戻している。
かつて触れれば壊れてしまいそうだった細い肩にも、今は生きている人の柔らかな温度が宿っている。
そのことが嬉しくて、眩しくて。
そして、どうしようもなく危うかった。
レオニスは、深く息を吸った。
「似合いませんか……?」
不安そうに尋ねられ、レオニスは目を伏せたまま答えた。
「いえ」
「では、変でしょうか?」
「変では、ありません」
「本当に?」
「……よく、似合ってます」
それ以上の言葉は、口にしてはいけない気がした。
けれどセラフィナは嬉しそうに微笑んだ。
その笑みがまた、レオニスの理性をぐずぐずに溶かすようだ。
かつてはその肌を見ることさえ罪のようだった。
触れれば死ぬと信じられていた肌。
それが今、妻のものとして、目の前にある。
しかもセラフィナは、自分がレオニスの理性をどれほど追い詰めているのか、少しもわかっていないらしい。
レオニスは、己がひどく試されていることを知った。
「これも、姉様が用意してくださったのです」
セラフィナは小さな皿を手に取った。
そこには、花の形をしたチョコレートがいくつか並んでいる。
「夜に甘いものを食べるのは、少し悪いことをしているみたいね」
そう言って、彼女は嬉しそうに笑った。
レオニスは、その笑みに少しだけ救われる。
寝台も、薄い夜着も、甘く華やかな香りも、今夜のために整えられたすべてが、彼の理性を静かに追い詰めていた。




