番外編 触れられる夜③
セラフィナは少し恥ずかしそうに身動ぎをした。
「レオニス」
頬だけでなく、耳や胸元まで赤く染めている。
その姿にレオニスの鼓動は大きく高鳴った。
「もう一度、口づけをしていただけますか」
潤んだ瞳で愛しい人にねだられる。そんなことがこれほど高揚させるとは知らなかった。
レオニスは一度動きを止めたあと、寝台に乗り上げるとセラフィナの隣に片膝をついた。
閨を前にして緊張しているのだろうと思っていた。
けれどセラフィナは身構えるどころか、幸せそうに瞳を閉じている。
触れるだけの、優しい口づけだった。
夢見心地に瞳を閉じていたセラフィナは、ゆっくりと瞳を開くと、ほぅっと甘いため息を吐いた。
「これで、もう良いのですよね」
「……何が、でしょう」
「夫婦の夜です」
セラフィナは綺麗に飾り付けられた寝台の上掛けをめくると、そのまま白いシーツの上に背を沈めた。
長い銀の髪が、シーツの上にふわりと広がる。
レースの夜着が少し乱れ、白い肌と、その下に隠されているはずのものが無防備に覗いた。
けれど本人は気付いていないのか、隣の空間をぽすぽすと手で叩いて、レオニスをそこに導こうとする。
レオニスは一瞬言葉を失った。
真意を測りかねてセラフィナの顔を見つめると、彼女は小さく欠伸を漏らした。
「今日は、とても疲れました。式も素敵でしたし、皆様へのご挨拶も、すごく緊張しましたし」
「セラフィナ……」
「本当に、幸せです」
そう言うとセラフィナの手が優しくレオニスを引き寄せる。
寝台に並んで入ると、セラフィナは当然のようにこちらへ身を寄せてきた。
「わたし、あなたに抱きしめられるの、好き……」
まるでもう眠る直前のように、むにゃむにゃとした声でそう囁く。
腕の中のセラフィナは、もう意識を手放そうとしている。いつもより少し高い体温が、レオニスの胸元にじんわりと染みてくる。
髪から漂う甘い香り。肌の柔らかさ。上等なレースの繊細な手触り。
胸元はゆっくりと上下し、すぐに始まった規則正しい寝息はレオニスの首元を優しくくすぐった。
レオニスは、暗がりの中で目を開けたまま、身動ぎひとつ出来なかった。
腕の中には、今日妻になった愛しい女性がいる。
抱きしめても、口づけても、もう奪われることのない、大切な人。
――だが。
「セラフィナ様」
咄嗟に出た小さな呼びかけに、返事はない。
「もしや、閨の作法は……」
そこで言葉を切り、レオニスはゆっくりと、深く息を吐いた。
夜は、まだまだ長かった。
翌朝。
いつもと同じ時間に目を覚ましたセラフィナは、隣にいるレオニスの顔を見て幸せそうに「おはようございます」とはにかんだ。
「よく眠れたようですね」
レオニスがそういうと、セラフィナは嬉しそうに頷いた。
「はい、レオニスは眠れましたか?」
「……ええ」
嘘ではない。
ほんの少しは、眠ったはずだ。
だが、ぐっすりと眠って幸せそうなセラフィナと対照的に、レオニスの意識は夜明けまでほとんど冴えていた。
夜の長さをこれ程実感したことはない。
野営で火を守っていた時の方が、余程精神的には楽だった。
それでも、腕の中で安らかに眠るセラフィナを起こすことなどできなかった。
ましてや、何をどこまで知っているのかを、本人に問いただすことも。
だからレオニスは、朝の支度を終えると、ひとつだけ決めた。
まずは、エレノアに確認しよう、と。
その判断が、後に王妃と姉君を揃って青ざめさせることになるとは、その時のレオニスはまだ知らなかった。
朝食のために食卓へ向かおうとするセラフィナに、レオニスは先に行っていてほしいと耳打ちした。
セラフィナは少し不思議そうに首を傾げたものの、素直に頷いて小食堂へ向かっていく。
その背を見送ってから、レオニスは自室から小食堂へ向かう途中のエレノアに声をかけた。
「あら、あなたたちの食事なら部屋に届けさせたのに。それに、まだ早すぎじゃなくて?」
エレノアは朝の挨拶もそこそこに、当然のようにそう続けてきた。
レオニスはすぐに返答出来なかった。
一歩近付き、そして声をひそめる。
「セラフィナ様は……閨について、どの程度ご存じなのでしょうか」
エレノアは、レオニスの言葉に固まり、手にしていた扇を落としかけた。
「……あなた、今、何と言ったの?」
「閨について、です」
「待って」
エレノアの美しい笑みが凍り付き、その表情からすっと血の気が引いていく。
「まさか……」
縋るようなその視線に、レオニスは首を左右に振った。
「その、まさかである可能性が、高いかと……」
そこへ王妃も姿を見せた。
「どうしたのです」
「お母様」
エレノアは、青ざめた顔で振り返った。
「セラフィナに、教えていません」
王妃の顔色が、わずかに変わる。
「……何を」
「閨の作法です」
沈黙が落ちた。
廊下の空気が、ひやりと冷える。
王妃は何かを言おうとして、口を開き、けれど言葉にならなかった。
エレノアもまた、扇を握りしめたまま動かない。
その沈黙だけで、レオニスには答えがわかった。
セラフィナは長く塔の中にいた。
誰かに触れることそのものが、死に直結していた。
ならば、婚姻の準備として普通の令嬢であれば教えられるはずのことを、教えられていなくても不思議ではない。
塔の中にあった本は古く、教会から与えられたものや、教師が選んだものばかりだった。
若い令嬢たちが密かに回し読むような恋物語など、彼女の手に渡るはずもない。
彼女の知る物語はきっと、清らかな口づけで終わっていたのだろう。
姫君は救われ、騎士と想いを通わせ、誓いの口づけを交わして幸せになる。
その先に続く夜を、誰も彼女に教えなかった。
触れられるようになった。
抱きしめられるようになった。
生きて、誰かの隣に立てるようになった。
その奇跡だけで、皆、胸がいっぱいだったのだ。
その先にある夜のことまで、誰も考えが及ばなかったほどに。
王妃の顔色が、はっきりと青ざめた。
「……わたくしとしたことが」
「お母様、わたくしもです。衣装と式次第と挨拶の練習で、すべて済んだ気になっていました」
「あの子に何も知らせず、初夜を迎えさせたのですか」
「……はい」
二人の視線が、そろってレオニスへ向いた。
絶望に濡れた瞳を向けられ、レオニスは静かに背筋を伸ばした。
長い眠れぬ夜を過ごした身としては、その視線を真正面から受け止めるだけでも、居た堪れぬ心地だった。
「ご安心ください。何も」
深い息とともに真実を告げる。
「何も?」
「はい。誓って、何も」
その短い返答に、エレノアはかえってすべてを察したようだった。
扇で口元を隠し、ゆっくりと肩から力を抜く。
「……レオニス」
「はい」
「よく耐えましたね」
「恐れ入ります」
「まずは、わたくしから話しましょう」
王妃はそう言いかけて、しかしすぐに眉を寄せた。
「……いえ。いきなりすべてを話せば、あの子は倒れるかもしれませんね」
「お母様、それは十分にあり得ます」
「では、段階を踏みましょう」
「段階を」
レオニスは、思わず復唱していた。
「ええ、まずは、夫婦とは何かから……」
「そこからですか」
「そこからです」
エレノアの声には、有無を言わせぬ響きがあった。
レオニスは黙って頷いた。僅かに痛む頭は、寝不足のせいだと思い込むことにした。
その夜も、セラフィナは姉から貰ったという繊細な夜着を身に纏い、幸せそうにくっついてくる。
「レオニス」
「はい」
「今日お母様から、夫婦とは何かというお話を聞きました」
少し眠くなってきたのか、瞳が僅かに潤んでいる。
王妃殿下の教育が始まったことに少し安心する。
「お母様のおっしゃるような夫婦になれるように、わたしもがんばります」
その言葉に、閨教育の進捗はまだ始まったばかりなのだと理解した。
「今日も、抱きしめて眠ってください」
「……はい」
そして腕の中で穏やかな眠りに落ちるのを見守った。
しばらくしてから、レオニスはそっと身を屈め、セラフィナの額に口づけた。
眠る彼女は、少しだけくすぐったそうに身じろぎをして、それからまた安心しきったようにレオニスの胸元へ頬を寄せる。
その仕草だけで、胸の奥がどうしようもなく満たされた。
その細い背が軋むほど抱きしめてしまいたい衝動を、肌をあわせてもっと深く触れ合いたい激情を、レオニスは呼吸に集中することでシーツの隙間に逃した。
レオニスは暗闇を見つめる。
騎士として、命じられた待機には慣れている。
ただし、これほど困難な待機は初めてだった。
触れられなかった日々は、たしかに終わった。
だが、触れられるようになった日々が、これほど過酷なものだとは思わなかった。
けれど、触れられなかった日々を思えば、幾夜迎えたとしても、彼女に触れられるまま待つ夜など、レオニスにとっては幸福な試練にすぎなかった。




