番外編 完璧すぎるデート④
「……あの劇は、ずいぶん脚色が多かったですね」
レオニスが静かに言った。
「そう、ですね」
セラフィナは頷いたものの、その話を膨らませることができなかった。
正直、舞台の内容にも驚いた。
けれどそれ以上に、レオニスが恋物語の歌劇を選んだことに胸が軋んだ。
今日一日、レオニスは何も迷わなかった。
こうして誰かと城下を歩く時には、いつもこういう演目を選ぶのだろうか。
人気の菓子店を予約して、贈り物を選んで、最後に恋物語を観る。
そういう過ごし方を、彼は知っているのだろうか。
胸の奥に残っていた舞台の熱が、今度は少し違う痛みに変わっていく。
俯いていたセラフィナの髪を、風がさらう。
昼間はただ風に揺れていただけの硝子の灯りが、今はひとつ、またひとつと色を宿している。
赤、橙、淡い金色。
夕暮れの青に浮かぶそれらは、塔の上から眺めていた祭りの光よりもずっと近かった。
屋台からは、焼いた肉と香草の匂いが流れてくる。
甘い果実酒の匂いも、焼き菓子の香ばしい匂いも混じって、通り全体がひとつの大きな食卓のようだった。
「少し、温かいものを召し上がりますか」
レオニスがそう尋ねた。
昼のケーキをあまり食べられなかったことに、やはり気づいていたのだろう。
「レオニスは?」
問い返すと、レオニスは少しだけ瞬きをした。
「私は、あちらの串焼きを」
そう言って示した先では、香草をまぶした肉が炭火の上で焼かれている。
セラフィナが目を向けると、レオニスは続けた。
「セラフィナ様には、こちらの煮込みの方が召し上がりやすいかと」
結局、セラフィナは小さな杯に入った鶏肉と野菜の煮込みを、レオニスは串焼きを一本買った。ベンチに並んで腰を下ろし、おそるおそる木で出来たスプーンを口に運ぶ。
香草の香りがして、けれど辛すぎず、熱すぎもしない。初めて食べる味だった。
「美味しい」
「この煮込みは祭りの日によく出るものです」
「レオニスは、食べたことがあるの?」
「幼い頃に何度か。王都ではなく、領地の祭りで」
その答えに、セラフィナは少しだけほっとした。
誰かとではなく、幼い日の記憶。
そのことが嬉しいと思ってしまう自分が、また少し恥ずかしかった。
温かなものが胃に落ちていくと、昼から胸の奥に引っかかっていた棘が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
ランタンの灯りが、レオニスの横顔を淡く照らしている。
「レオニスは、どこか行きたいところはありませんか」
今日一日、自分のために用意された場所ばかりだった。
だから最後くらいは、彼の行きたい場所へ行きたいと思った。
レオニスは少しだけ黙った。
それから、静かに言った。
「塔へ、行きませんか?」
遠く、白く輝く城を見上げ、レオニスはまぶしそうに目を細める。
城下町の賑わいでも、華やかな灯りの下でもない。
レオニスが選んだのは、二人にとって始まりの場所に近いところだった。
城へ戻る道を歩くうちに、祭りの音は少しずつ遠ざかっていった。
けれど、完全に消えることはない。
笛の音も人々の笑い声もランタンの灯りも、背中の向こうでまだ揺れている。
かつては塔の上から眺めるだけだった光の中を、今日は自分の足で歩いている。
そのことが、今さらになってセラフィナの胸の奥に静かに満ちてくる。
今日は、何もかもが眩しかった。
初めてのカーニバル。人気のカフェも、お買い物も、恥ずかしかった観劇も、屋台での食事も。
そのどれも楽しかった。けれど、きっとどれを選ばなくても楽しかったのだと思う。
塔へ向かうのは、久しぶりだった。
今は居室も移され、塔はもう日々を過ごす場所ではない。
ただ見上げるだけのものになっていた。
レオニスが時折階段を上るセラフィナを気遣う。
楽しかった。
レオニスが隣にいたから、楽しかった。
なんだか目の奥がじんと熱くなってしまう。
これが最後ではないのに、なぜかこの時間が終わってしまうことがとても寂しかった。
塔の上へあがると、丁度夕日が空を色とりどりに染め上げていた。
白耀石のなくなった場所。
かつてセラフィナを閉じ込めていた塔。
今は、二人で座って夕日に染まる街を見下ろせる場所。
夏の空が黄金色になり、風は昼の暑さを忘れさせるように肌を撫でる。
「レオニスは、今日は楽しかったですか?」
問いかけると、レオニスは少しだけ意外そうにこちらを見た。
もし、レオニスが以前、誰かと同じ場所を歩いていたのだとしても。
もし、今日みたいに誰かを案内したことがあるのだとしても。
それでも今、隣にいるのが自分なら。
そして、いつか今日のことを思い出したとき、レオニスが「一番楽しかった」と思ってくれるなら。
それでいいのかもしれない。
「……今日が、あなたにとって一番楽しかったらいいなと思ったのです」
レオニスは、セラフィナの顔を覗き込むように身を屈めた。その距離が少し近くて、セラフィナは慌てて顔を伏せた。
「どうして、そう思われたのですか」
優しい声音で問われ、セラフィナはますます泣きたくなってしまう。
「だって……慣れていらしたから」
「慣れていた、とは」
「お店も、劇場も。おすすめのケーキまで、ご存じでしたし……」
セラフィナは自分で言いながら、恥ずかしくなってくる。
一緒に歩きながらぐちゃぐちゃになっていた感情が言葉にすることで形になっていく。
「だから、その……以前にも、誰かと、こういうふうに過ごしたことがあるのかと」
レオニスが少しだけ目を瞬かせる。
それからしばらく黙っていた。
怒らせてしまったのかと思い、セラフィナはますます俯く。
けれど次に聞こえた声は、困惑しているようで、少しだけ切実だった。
「……そのように見えましたか」
それから、かなり真面目な顔で言った。
「昨日、あなたの姉君に、叩き込まれました」
「……姉様に?」
俯いていた顔を上げると、レオニスは珍しく困ったように眉尻を下げ、長い指先で、風に乱れた前髪をかき上げていた。。
「はい。城下へ出るなら、この店。この時間なら劇場。夏ならこの通りは避けること。菓子はこの店のタルト。観劇の席は二階正面の貴賓席。どちらも予約は必須。買い物は先に雑貨街へ行き、最後に荷物をまとめて受け取ること」
レオニスは一つずつ指を立てて数えながら羅列した。
「この通りにすれば、まず間違いないと」
「でも、どなたかにお土産を買っていらしたわ」
ずっと胸に刺さって痛かった感情が、思いがけず口をついて出た。
レオニスが選んでくれた髪飾りは嬉しかった。
けれど、レオニスが選んだのはそれだけではないと、セラフィナは見て知っている。
言ってしまってから、胸が小さく跳ねた。
まるで責めているみたいだ。
そんなつもりではなかったのに。
けれど、一度形になってしまった言葉は、もう戻せない。
セラフィナは膝の上で指を握りしめた。
レオニスは一瞬、何のことかわからないというように瞬きをした。
「……ああ」
その声があまりに静かだったので、セラフィナの胸はまた痛んだ。
レオニスは懐から、小さな包みを取り出した。
「どなたかへの土産ではありません」
丁寧に包みを開く。
夕日の光を受けて、青と緑のあいだの色をした小さな硝子の兎が、手のひらの上できらりと光った。
露店で見た、あの兎だった。
セラフィナが息を呑むと、その隣にもうひとつ、見覚えのあるものがあることに気づく。
透明度の高い灰色のブローチ。
最初にセラフィナが手に取って、すぐに戻したものだった。
セラフィナは、息を止めた。
「これは……」
「兎は、私が持っていたくて買いました」
「レオニスが?」
「はい」
レオニスは少しだけ視線を伏せた。
「セラフィナ様に似ていたので」
「私に?」
「はい。小さくて、静かで、けれど目を離すとどこかへ行ってしまいそうで」
レオニスの指先が、青緑色の硝子の兎にそっと触れる。
「それに、この色はあなたの瞳の色です」
セラフィナは手のひらの上の小さな兎を見つめた。
「そして、こちらは、本当はお渡しするつもりでした」
レオニスの指先が、灰色のブローチへ触れる。
「でも、なぜ……」
「私の色なので」
「あなたの色?」
「ええ。ですが私の色は地味です。セラフィナ様には、もっと明るい色の方が似合うかと」
セラフィナは、思わず瞬きをした。
その拍子に、ずっとこらえていたものが、涙になって頬を伝った。
「地味ではありません」
声が、思ったよりはっきり出た。
「私は、その色が好きです」
レオニスが顔を上げる。
「あなたの瞳の色だから」
レオニスは、しばらく何も言わなかった。
ただ灰色の瞳が、夕日の中でわずかに揺れる。
いつも静かなその色が、今だけ少し熱を帯びて見えた。




