番外編 完璧すぎるデート③
「そろそろ参りましょうか」
まだ日は高く、ランタンが灯るにはまだ先が長そうだ。
長時間歩くことに慣れていないせいで足先は少し痛くなってきている。
それでもレオニスに導かれるまま歩いて行くと、やがて立派な劇場の前に出た。
「午後は陽が強くなりますから、劇場で少し涼みましょう」
そんなふうに言われて、セラフィナはその気遣いが嬉しいのに、少しだけ苦しくなる。
完璧すぎる。
まるで、何度も誰かを連れて歩いたことがあるみたいに。
しかも相変わらず道行く女性たちが、レオニスを見ている。
黒髪に灰色の瞳。整った横顔。近づきがたいほど端正な佇まい。
セラフィナの位置から見上げれば、すっと通った鼻梁と、影を落とす長い睫毛、端正な顎の線が、まるで彫像のように整って見えた。振り返る人の気持ちが、痛いほどわかってしまう。
セラフィナは、少しだけ唇を引き結ぶ。
見られることには、慣れているつもりだった。
呪い姫として、遠巻きに眺められることなら、いくらでもあった。
けれど、レオニスの隣に立つ者として見られることには、少しも慣れていない。
まして、その視線が彼に向けられているのだと気づくたび、胸の奥が細く痛んだ。
「それ程長い演目ではないと聞いているので、ランタンが灯る頃には終わります」
レオニスは改めて手を差し出し、その肘の内側に手をかける。
エスコートされながら階段を上ると、その場にいる人たちの視線が自分たちに向いていることに改めて気付いた。
受付の係が二人を認め、恭しく頭を下げた。
「アルディス伯でいらっしゃいますね。お連れの方は……」
その言葉に、周囲の視線がわずかに集まる。
レオニスは少しも迷わず、セラフィナの手を取ったまま答えた。
「私の婚約者です」
低く静かな声だった。
けれど、その場にいた誰の耳にも届くほど、はっきりとしていた。
セラフィナは思わず顔を上げる。
レオニスの横顔はいつも通り涼しいのに、手を添える仕草だけが、ほんの少しだけ強い。
まるで、誰に問われても同じように答えるのだと示すみたいに。
階段の途中で、足先にまた小さな痛みが走った。
ほんのわずかに歩調が乱れただけだったのに、レオニスはすぐに気づいたらしい。
「失礼します」
短く告げると、彼の手がセラフィナの背に添えられた。
支えるための、礼儀を越えない手つき。
けれど、その距離は先ほどよりずっと近い。
周囲の視線が、ふっと逸れていくのがわかった。
この優しい手が触れる相手が、わたしだけであればいいのに。
不意に胸の奥へ浮かんだその願いに、セラフィナは戸惑った。
これは、なんという感情なのだろう。
胸に沸き起こるそれに、セラフィナはまだ名前をつけられなかった。
劇場内は開幕前の興奮にも似た空気が満ちている。人気の演目のようだ。客席は既に埋まり、低く交わされる囁き声や衣擦れの音が、緞帳の前で波のように揺れている。
セラフィナとレオニスの席は二階中央の貴賓席だった。
開始を告げる鐘が鳴る。それと同時に、深紅の緞帳がゆっくりと上がった。
舞台の奥には白い塔がそびえていた。
硝子細工のような月が吊られ、銀糸の幕が風を表すように揺れている。
その塔の窓辺に、白い衣をまとった姫が立っていた。
長い銀髪。
青緑の瞳。
胸元には、白い花の刺繍。
セラフィナは、思わず瞬きをした。
……わたし?
けれど舞台の姫は、セラフィナよりずっと儚げで、今にも消えてしまいそうな声で歌い出した。
『わたくしは、呪いの塔に閉じ込められた姫……』
慌ててこの歌劇の演目表を見ると、『白い塔の茨姫』と書かれている。
そこへ、黒衣の騎士が現れた。
客席から、かすかなため息が漏れる。
長身で、黒髪で、銀灰色の瞳。
腰には剣。
胸には、薔薇の紋章。
騎士は塔を見上げ、片膝をついた。
『たとえ世界があなたを呪いと呼ぼうとも、私はあなたの手を取るために参りました』
セラフィナは、息を止めた。
隣のレオニスが、わずかに動きを止めたのがわかったからだ。
話が進むうちに、だんだん、これは偶然ではないのだとわかってきた。
白い塔。
銀髪の姫。
黒衣の騎士。
呪い。
触れられない手。
すべてが、少しずつ形を変えながらも、自分たちが経験してきた過去に似ている。
似ている、というより。
ほとんど、そうだった。
セラフィナは膝の上で手を握りしめた。
どうして。
どうして、王都の劇場で、こんなものが上演されているの。
あまりの恥ずかしさに頬が一気に熱くなり、めまいがしそうだった。
そっと視線を向けると、隣のレオニスはまっすぐ舞台を見ている。
いつも通り、静かな横顔。
けれど、その耳の先が、ほんの少し赤い。
セラフィナはそれを見つけて、かえって胸が跳ねた。
『姫よ、たとえその身が千のいばらに閉ざされようとも、私の剣はあなたへ至る道を切り開く』
『騎士様、いけません。わたくしに触れれば、あなたは命を落としてしまいます』
『あなたに触れずに生きるくらいなら、命など少しも惜しくはない』
セラフィナの動揺とは裏腹に、舞台の上ではセラフィナとレオニスを模した二人が演技を続けている。
実際のレオニスは絶対こんな言い方をしない。
もっと実直で、静かな物言いをする人だ。
それに、レオニス役を演じる舞台俳優ほど、華やかな顔立ちではない。
本物のレオニスは、もっと静かに整った、近づきがたいほど綺麗な顔をしている。
けれど、黒衣の衣装や、客席から見る距離のせいで、実際に舞台の上で動く姿がレオニスに被る。
『あなたは呪いなどではない。私の夜に咲いた、ただ一輪の白薔薇だ』
それからセラフィナは出来るだけ何も考えないように努めた。
恥ずかしすぎて、ここに座っていることがまるで拷問の様だ。
早く終われと心の中で念じているが、舞台の上の二人の展開は実際の二人よりもはるかに色濃い恋物語になっている。
舞台の上で、ついに黒衣の騎士が姫の手を取った。
『もう、あなたを閉じ込めるものは何もない』
『けれど、騎士様。わたくしの呪いは……』
『呪いではない』
騎士はそう言って、姫の手を自分の胸元へ引き寄せた。
『あなたは、私が生きて帰る理由だった』
その言葉と同時に、客席の空気がふっと変わる。
小さく息を呑む音が聞こえた。
誰もが、この先に何が起きるのかを知っているみたいだった。
知らないのは、セラフィナだけだ。
セラフィナは、なぜか自分まで息を止めていた。
舞台の姫が、ゆっくりと顔を上げる。
黒衣の騎士が、その頬に手を添える。
次の瞬間、二人の影が重なった。
客席のあちこちから、ため息のような歓声が漏れる。
セラフィナは、膝の上でスカートを握りしめる。皺になってしまうなんて気にする余裕もなかった。
くちづけ。
舞台の上の姫と騎士は、まるでそれが当然の結末であるかのように、長く、深く、角度を変えて互いを確かめ合っている。
セラフィナは熱が顔に集まるのを止められなかった。掌はじっとりと汗をかいて、心臓は早鐘のように打ち続けている。
隣を見ることができない。
けれど、見なくてもわかる。
レオニスが、微動だにしていないことが。
いつもならわずかな衣擦れにも気づく人が、今は呼吸さえ忘れたように静かだった。
セラフィナは、ますます顔を伏せた。
舞台の上では、まだ拍手が鳴っている。
実際には、そんなことは一度もなかったのに。
レオニスは、あの日も、その次の日も、今でさえ、セラフィナに触れることにひどく慎重だった。
まして、あんなふうに人目のある場所で口づけるなど、あるはずもない。
なのに。
どうして、知らないはずのものを見ているだけで、こんなにも胸が騒ぐのだろう。
劇場を出るころには、外の光は少しやわらいでいた。
ランタンに火が入り始めている。
通りは昼間よりもずっと華やかで、どこか夢の中のようだった。
けれどセラフィナは、さっきの舞台の続きを頭から追い払えない。
隣を歩くレオニスも、いつもより少しだけ口数が少なかった。




