終章 ともに歩く④
それからセラフィナは塔にいた時間を取り戻すようにあちこちへ出かけた。
それがお前の公務だと、ユリウスに言われたからだ。
王妃と城下へ出た。季節ごとに咲く花を愛でながら家族でお茶を飲んだ。
エレノアに連れられて仕立屋を覗いた。
ユリウスの視察に同行し、瘴気の跡が残る村で、立て直しに汗を流す人々を見た。
教会の孤児院に慰問にも行き、子供たちに本を読み聞かせた。
何度か夜会にも出た。笑い、話し、時に不躾な視線にさらされながらも、自分が以前とは違う立場で立っているのだと知った。
様々なお茶会にも出て、女性たちの社交はここで行われているのだと身をもって知った。
そうして少しずつ世界に触れるたび、不思議なことに、レオニスへの気持ちは薄れるどころか、輪郭を増していった。
彼がそばにいたから一緒にいたいのではない。
彼しか知らないから選ぶのでもない。
いろいろなものを見ても、なお、あの実直なひとりの男の人へ心が向くのだ。
その事実に気づいた時、セラフィナはようやく、自分が本当に答えを持ったのだと知った。
夏の盛りを越えるころ、レオニスは王都へ戻った。
以前と同じように静かな顔をしていたが、僅かに日焼けした肌と少しだけ疲労を帯びた目が、この数か月を物語っていた。
王城の回廊で再会した時、セラフィナは迷わなかった。
窓の外では、傾いた陽が石畳を橙に染めている。
吹き込む風は少しぬるく、遠くから人々の声が聞こえた。
「レオニス」
呼ぶと、彼はすぐに振り向く。
「はい」
「いまなら、お答えできます」
レオニスは一瞬だけ目を見開く。
けれど今度は、首を横には振らなかった。
セラフィナは一歩近づく。
「わたしは、塔の外を見ました。町も、人も、傷ついた土地も、立ち上がろうとする人たちも」
「……はい」
「それでも、やはり思うのです」
「何を」
「あなた以上に、わたしに寄り添ってくれる人は、いませんでした」
レオニスの瞳が、静かに揺れた。
「わたしが何も持たなかったころも、呪い姫と呼ばれていたころも、あなたはそばにいてくださいました」
「……」
「今のわたしだけでなく、あの頃のわたしを知ったうえで、それでもここにいてくださる人は、あなた以外におりません」
セラフィナはそこで少しだけ笑った。
「ですから、今度こそお断りは聞きません」
しばらく、風の音しかしなかった。
やがてレオニスは、深く息を吸う。
そして今度は、自分から一歩進み出て、片膝をついた。
セラフィナは息を呑む。
「私は、あなたの強さに惹かれました」
その声は低く、けれど少しも揺らがなかった。
「壊れそうに細く見えて、けれど誰よりもよく耐えておられたところに」
「……」
「誰にも見せぬまま痛みを抱え、それでも人を案じるやさしさに」
「……」
「そして、ようやくご自身の望みを口にしてくださるようになった、そのまっすぐさに」
レオニスはセラフィナだけを見上げる。
「私は、あなたと共に生きたい」
「……」
「守るだけではなく、あなたが笑う日も、迷う日も、怒る日も、泣く日も、隣で見ていたいのです」
「……」
「どうか、私と生きてください」
セラフィナの胸が、きつく締まる。一気に顔に熱が集まり、視界が潤む。レオニスの像が揺らぎ、慌てて瞬きをすると、堪えていた雫が頬を一筋伝った。
こんなふうに真っ直ぐ言葉を向けられる日が来るなんて、昔の自分は知らなかった。
塔の中で怯えていた姫は、誰かと共に生きたいと願われる未来など、想像さえできなかった。
だからこそ、今はっきりと答えられる。
「はい」
たったひと言だった。
けれどそれだけで、レオニスの表情がわずかにほどけた。大きく笑うことはしない。
ただ、その静かな顔に、今まで見たどの時よりも深い安堵が浮かんでいた。
婚約の式は、エレノアが隣国に出立する前にとの強い希望もあり、冬の初めに行われた。
瘴気に傷ついた国で、華美な祝宴はふさわしくない。王も王妃も、ユリウスもエレノアも、それには迷いがなかった。だから式は派手にはしなかった。過剰な装飾も、無駄な金も使わない。けれど慎ましいからこそ、そこにはごまかしのないあたたかさがあった。
白耀石の眩さではなく、朝の光のような式だった。
王都近くの小さな神殿跡を整えた場所で、王家と諸侯、復興に尽力した者たち、そして招かれた市井の代表たちが見守る中、二人は並んで立った。
セラフィナの髪には、レオニスから贈られた真珠がひと粒だけ光っていた。
華やかではない。けれど、静かに深みのあるその輝きは、セラフィナによく似合っていた。
人々は、式が始まる前から深く頭を下げていた。
このパレードも、一種の民たちへのアピールの一環だった。
同じ象徴として石と共に、あの日、この城から出立した時とは全く違う。
瘴気に傷つき、石を失い、どう立ち上がればよいのかわからなかった世界の中で、それでも二人が並んで立ち、未来を誓うことが、ひとつの救いになるように。
石ではなく、人が立ち上がる国。
呪いではなく、生きて歩いていく二人。
それを見届けるように、人々は静かに頭を垂れていた。
国王による婚約の宣誓の言葉のあと、レオニスがセラフィナを見た。
その眼差しは、海の神殿で見上げていた時とも、夜の海で初めて手を触れた時とも少し違っていた。長く求めて、長く待って、ようやくここまでたどり着いた人の目だった。
セラフィナはその視線に、もうためらわず微笑み返す。
式が終わり、人々の前を歩き出す時、レオニスは何も言わずに手を差し出した。
セラフィナは、ごく自然にその手を取る。
手袋はしていなかった。
レオニスも、していない。
もうそれは奇跡を証明するための触れ合いではない。
恐れを振り払うための勇気でもない。
ただ、あたりまえのように共に歩いていくための手だった。
あたたかい。
そのぬくもりが、今ではもう胸を刺すものではなく、静かにぬくもりと共に満ちるものになっている。
「……レオニス」
「はい」
「歩きやすいです」
「それはよかった」
そんなことを言い合いながら、二人は並んで進む。
王妃が泣きながら笑い、エレノアは「ちゃんと手を離さないのよ」と半ば呆れたように言い、ユリウスは苦笑を隠しきれずに目を逸らした。王は遠くから、静かに頷いていた。
頭を下げる人々の間を、二人はゆっくりと歩いていく。
かつて、誰にも触れられないことが運命だと思っていた。
塔の中でひとり閉ざされ、石のそばで息を潜めるしかないのだと信じていた。
けれど今、セラフィナの手の中には、確かな体温がある。
もう苦しむ魚はいない。
それでも胸の奥には、深い海のぬくもりが残っている。
あれはきっと、失われたものではなく、これから先を生きるために静かに残された光なのだろう。
石に守られる国の時代は終わった。
白耀の塔に閉じ込められていた姫も、もういない。
けれど、海の色を宿したひとりの娘はここにいる。
隣を歩く実直な騎士とともに、泣いて、笑って、触れられて、それでもなお生きていくために。
つないだ手は、最後まで自然には離れなかった。
そのとき、空の高いところで、ひとすじの光が跳ねたように見えた。
深碧に銀を滲ませた、小さな魚が、祝福するように空を泳いだ──そんな気がした。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
この後少しだけオマケで番外編が続きます。
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