終章 ともに歩く③
「お気をつけて」
「はい」
「……ずいぶんあっさり行かれるのですね」
「領地整備ですので」
「そうですが」
「セラフィナ様」
レオニスはほんの少しだけ目を和らげた。
「世界をご覧になってください」
その言葉に、セラフィナはむっとした。
むっとしたまま、けれど頷く。
「見ます」
「はい」
「ちゃんと見て、それでも同じなら、今度こそ断らせません」
「承知しております」
そのまま彼は馬に乗り、王都を離れていった。
レオニスがいなくなってから、城の空気は少しだけ違って感じられた。
もともと静かな人だった。
いつも傍にいても、多くを語るわけではない。
それなのに、いなくなってみると、不思議なほどすぐにわかる。回廊の角、庭へ続く石段、夕方の窓辺。自分が視線を向ける先のあちこちに、無意識のうちにその姿を探してしまうのだ。
──これでは、少し癪です。
そう思いながら、セラフィナは手紙を閉じた。
届く文面は簡潔で、無駄がない。海沿いの道の補修、館の改修、復興民の受け入れ、王都との街道の整備。どれも必要なことばかりだった。
必要なことばかりだからこそ、寂しいなどと言うのは筋違いだとわかっている。
まして、もっと世界を見ろと言われたのは自分のためだ。
だからセラフィナは、与えられたこの時間を、きちんと使おうと思った。
ある昼下がり、エレノアの手引きで、セラフィナははじめて、年頃の貴族の娘たちのお茶会に招かれた。
行くのを躊躇っていたのだが、「普通の場に出るのよ」とエレノアは言った。
「視察ばかりが世界ではないでしょう」
それはその通りだと思って、セラフィナは頷いた。
会場は王都の侯爵家邸の庭だった。白い日除け布が空に揺れ、薔薇の香りが風に乗っている。テーブルの上には色とりどりの小菓子が並び、磁器のカップから湯気が立っていた。
招かれていたのは五、六人の娘たちで、年はセラフィナとそう変わらない。
公爵家、侯爵家、伯爵家──いずれも名のある家柄で、揃って笑顔が上手く、声がよく通り、お互いの距離感を知り尽くした身のこなしをしていた。
セラフィナはというと、座り方はわかる。お茶の飲み方も知っている。会話を途切れさせないための相槌も、礼儀も、教わってはいた。
──けれど、こういう場所には来たことがなかった。
以前、塔の中から見ていたものは、窓の向こうの遠い景色だった。今は自分がその中にいる。それだけのことなのに、菓子に手を伸ばすたびに少しだけ緊張する。
話題は目紛しいほどに軽やかに飛んだ。夜会の衣装のこと。秋の行楽のこと。自分の婚約者の話。どこそこの令息が最近よく馬術の練習をしているとか、誰それの婚約がまとまりそうだとか。
セラフィナはうまく笑いながら、心の中でその速さについていくのに一生懸命だった。
ひと息ついたところで、隣に座っていたロウリン伯爵家の娘──アリナという、くりくりとした目の快活な娘──が、とつぜんこちらへ顔を向けた。
「姫殿下は、ローゼンフェルトの騎士様とご一緒だったのでしょう? 旧都のご一件で」
場がほんのわずかに静まった。
隠すような話でもない。セラフィナは頷いた。
「はい、一緒でした」
「まあ」
向かいの席の娘が、思い切り声を上げる。栗色の巻き毛が揺れた。
「どんな方でしたか? 近くで見て」
セラフィナは少し考えた。
「……実直な方です。静かで、まっすぐで」
「やっぱり」
アリナがカップを置き、身を乗り出す。
「あの方、昨年の夜会に当主名代で来ていらしたのよ。覚えている? 背の高い、黒髪の」
「覚えてるわ」と栗色の巻き毛の令嬢、ライラが少し前のめりで即答した。
「会場に入っていらした瞬間、周りがちょっとざわめいたでしょう?」
アリナが深く頷く。
「あのお顔で、あの背丈で、あの立ち姿でしょう。どこのどなたですかって、みんな一度は目で追ったはずよ」
「わたくしの隣にいた子なんて、お名前を調べてきてって侍女に頼んでいたもの」
「でも踊らなかったでしょう、どなたとも」
「踊りどころか、どなたとも全然話さないの。ちゃんと場には出てらっしゃるのに、柱の陰みたいなところで葡萄酒を一杯だけ持って、ずっとそこにいる感じで」
「でも、そこが」
と別の娘がくすくす笑いながら口を挟む。
「かえって、じゃないですか」
「そうそう。ちゃんとしてる分だけ、かえって気になる」
「わたくしなんて、思い切って声をかけたことがあるの」
それはアリナだった。
セラフィナはカップを持ったまま、動きを止めた。
「話せた?」
とライラが目を丸くする。
「話せたには話せたのだけど」
アリナは苦笑した。
「あまりに真面目なお返事しか来ないのよ。今宵のお天気はよろしゅうございますね、と言ったら、ええ風が少し強いので帰りはお気をつけて、と」
「……」
「それで終わりなの。ほかに何も続かない。次は何を言えばいいのかわからなくなってしまって、わたくしが黙ったら、ではお気をつけて、って言って静かにどこかへ行かれてしまって」
笑いが広がった。
「お気をつけてって二回も」
「そうなの。全然悪い感じじゃないのよ、むしろとても丁寧で。でも、困るでしょう、あれは」
「まあ。難しいのね」
「難しいというか」
アリナは肩をすくめた。
「こちらが恋をするには向かないお相手なの、という感じがして。ちゃんとしていらっしゃるのはわかるのだけど、そこに入り込む隙が全然なくて」
そこで彼女はセラフィナの方へ目を向けた。
「姫殿下はそんな方と、あの件でずっとご一緒だったのでしょう。大変ではなかったですか、話しかけにくくて」
セラフィナは少しだけ考えた。
「……わたしは、そう感じたことがありませんでした」
言ってから、しまった、と思った。
場の空気が、一拍だけ変わる。アリナが目をぱちくりとさせ、ライラがにんまりとした笑みを浮かべた。
「まあ」
「あら」
「……その、長く行動を共にしていたので、慣れただけだと思います」
セラフィナはなるべく平静を保って言った。
「そうなのでしょうね」
とアリナは言い、うんうんとわかったように頷き、それからほんの少しだけ楽しそうに目を細める。
「護衛騎士ですものね」
「でも姫殿下がそう言われると、なんだか納得してしまうの、不思議ね」
それ以上は話題が続かず、誰かが菓子の話を始めた。
セラフィナもそちらへ相槌を打ちながら、手元のカップをひとくち飲んだ。
お茶が、少しだけ苦かった。
──お気をつけて、と言って静かにどこかへ行かれてしまった。
アリナの話が、妙に頭から離れなかった。
別に、おかしいことは何もない。
あの方はそういう人だ。どこへ行っても、きっと同じようにしている。
他の人に無愛想なのも、必要以外のことを話さないのも、知っている。
わかっている。
わかっているのに、夜会の柱の陰で、誰かに「お気をつけて」と言って立ち去るレオニスを、なぜか少しだけ想像してしまった。誰かと踊るレオニスの姿を。
──そしてその「誰か」が、自分ではない可愛らしいご令嬢だったら、という考えが頭をよぎった瞬間、セラフィナはそっとカップを置いた。
なんです、これは。
むず痒いような、胸の奥がざわつくような、うまく名前をつけられない知らない感覚だった。まるで魚がいた頃のように胸の奥がむずむずするようだ。
怒っているのではない。
悲しいのでもない。
ただ、なぜか。
──少しだけ、癪だった。
「姫殿下、このお菓子もお試しになって。林檎の砂糖漬けで、とても甘いのよ」
声をかけられて、セラフィナは顔を上げる。
「ありがとうございます」
微笑み返しながら差し出されたものを受け取り、ひとくち食べた。
確かに甘かった。
けれど、口の中に残っていたお茶の苦さは、まだほんの少しだけあった。
お茶会が終わり、令嬢達からまたの茶会もぜひにと次の約束をし、城へ戻る馬車の中でセラフィナは窓の外を見ていた。
お迎えに来てくれたエレノアが向かいに座り、お茶会の様子を尋ねてくる。
「どうだった? 楽しめた?」
「……はい。珍しいお菓子や、賑やかな方たちで」
「それはよかった」
エレノアはひとつ頷く。
「それで、何か面白い話は出た?」
「……レオニスの話が、少し」
素直にそう言ってしまってから、言葉を濁す。名前を口にしたらまた胸の奥がざわついた。
「少し、ね」
エレノアがどこかおかしそうな顔になる気配がして、セラフィナは視線を窓の外へ逃がした。
「何でもありません」
「そう」
「本当に、何でもありません」
「ええ、わかったわ」
その声の中の笑みを、セラフィナはきちんと聞き取っていたが、敢えて振り向かないことにした。
頬が自然と熱を帯びるのを感じて、余計に姉の方に顔を向けることが出来なかった。




