終章 ともに歩く②
「これを」
開くと、そこにはひと粒の真珠が収まっていた。
白というより、うっすらと青を含んだ、静かな光だった。柔らかなのに深みがあり、夜の海を小さく閉じ込めたようにも見える。
「ローゼンフェルト領で採れたものです」
そう言う声音はいつも通りで、どんな感情がこの真珠に込められているのかはわかりにくい。
「あなたにお渡ししたくて」
海の底に沈んでいた神殿。深碧の流れ。あの地に根づく静かな美しさ。
そのすべてを、ひと粒にして手渡されているようだった。
「……きれい」
「派手なものではありませんが」
「なにより、嬉しい……」
掌にのせたその小さな輝きに自然と笑みが零れる。あの日の些細な会話を覚えていてくれた。それだけで胸がじんわりと温かくなる。レオニスはほんの少しだけ目を和らげた。
セラフィナはそれを見てふと思った。
──もう、答えられるかもしれない。
「レオニス」
呼ぶと、彼はセラフィナを見つめてくれる。以前は石のように感じた灰色の瞳には優しく夕日の色が灯り、その瞳にうつるセラフィナの頬は赤く染まっている。
「はい」
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろんです」
その返事があまりにいつも通りで、セラフィナは余計に緊張した。
それでも逃げるつもりはなかった。
「この前のお話ですが」
「……はい」
「もう、お答えできると思います」
レオニスの表情が、わずかに固くなる。
それを見て、セラフィナの胸も小さく鳴った。けれど次の瞬間、彼は静かに目を伏せた。
「まだです」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
レオニスはまっすぐにセラフィナを見る。
その目は真面目で、逃げる気配がまったくない。
「まだ、いただけません」
「なぜですか」
「あなたはようやく塔の外へ出たばかりです」
セラフィナは一瞬、言葉を失った。
レオニスは、わずかも揺るがない声で続ける。
「もっと多くを見て、人と会って、さまざまなものに触れてください」
「……」
「そのうえで、それでもなお私を選ぶとおっしゃるなら、その時にいただきたい」
「今はだめだとおっしゃるのですか」
「いま答えをいただくのは、公平ではありません」
公平。
その言葉に、胸のどこかがかちりと鳴った。
セラフィナはしばらく黙っていた。
黙っていたが、だんだんと、腹が立ってきた。
「どうして」
気づけば、声が少しだけ強くなっていた。
レオニスが目を瞬かせる。
「セラフィナ様」
「もっと世界を見ろとおっしゃるけれど」
自分でも驚くほど、言葉が止まらなかった。
「呪い姫と呼ばれていた頃のわたしのそばにいてくれたのは、あなただけでした」
「……」
「塔の中でも、旧都でも、海の神殿でも、ずっと」
「それは」
「あなた以上に、わたしに寄り添ってくれる人が、この先どこかにいると本気で思っているのですか」
レオニスが、完全に言葉を失っている。
その顔を見て、セラフィナはさらに少しだけむっとした。
「それとも……」
「……」
「あの日から、気持ちが変わってしまったのですか?」
それは自分でも、ずるい問いだとわかっていた。
けれど聞かずにはいられなかった。
レオニスはしばらく何も言わなかった。
やがて、ごく低く息を吐く。
「そうではありません」
その答えに、セラフィナは腕の力を抜いた。
抜いたのに、まだ少し腹が立っている。
「なら、どうして」
「あなたが、いま知っている世界のほとんどに私がいるからです」
「……」
「だからこそです」
彼は視線を逸らさなかった。
「いまのあなたが私を選ぶとしても、それは塔の外へ出た最初の手を私が取ったからかもしれない」
「違います」
「ええ。違うのでしょう」
「なら」
「それでも、確かめてほしいのです」
その声はどこまでも真面目で、誠実で、融通が利かなかった。
「私は、あなたが何も知らないまま、ただ私のそばだけを世界の全てだと思って来られるのは嫌です」
「……」
「もっと見てください。人に触れてください。王都の外にも、海の向こうにも、いろいろなものがあります。そのうえで、それでもなお私がよいとおっしゃるなら」
そこで初めて、レオニスの声がほんの少しだけ揺れた。
「その時は、もう二度とお断りしません」
セラフィナは、しばらく黙って彼を見ていた。
怒っている。
でも、その怒りの奥にあるものは、ちゃんとわかる。
この人は、本当にそう思っているのだ。
自分に近づいた者だからこそ、自分の狭い世界の延長として選ばれることを望んでいない。セラフィナ自身が、自分の足で世界を知り、その上で選ぶことを願っている。
それが、悔しいくらいに彼らしかった。
「……頑固なのね」
「はい」
「融通がありません」
「はい」
「もし、わたしが他の方の方が良いとなったら?」
セラフィナは少しでも困らせたくてそう言うと、レオニスは唇を細く引き上げて笑う。
「その時は正々堂々と奪い返します」
その返事に、セラフィナはとうとう笑ってしまった。
笑いながら、少しだけ泣きたくなった。
「では、待っていてください」
「はい」
その数日後、王から正式に新領地の件が下りた。
レオニスはアルディス領と伯爵位を賜り、これからはアルディス伯と呼ばれるのだという。
そのために、しばらく王都を離れることになるらしかった。
新領地の話がまとまりかけたある日、王妃は露骨に不機嫌だった。
「レオニスの新しい領地、あまり遠くにはやりたくないわ」
「母上」
と、ユリウスが呆れたように言う。
「褒賞は感情で決めるものではありません」
「わかっています」
「わかっていない顔です」
「でも近い方がいいでしょう」
王妃は言い切って、それから少しだけ声を弱めた。
「ようやく……ようやく、普通に会いに行けるのに」
その一言に、セラフィナは目を瞬いた。
王妃は気まずそうに視線を逸らす。
きっと、本音をそのまま口にするつもりはなかったのだろう。
「母上」
「だってそうでしょう。これまでどれだけ遠かったと思っているの」
「距離の話では」
「わかっているわ。でも、今度は距離まで遠くなったら嫌なの」
その横で、エレノアがため息をついた。
「わたくしだって、そろそろ隣国へ行かなければいけないのに」
「ええ」
「セラフィナまで遠くへ行ったら嫌よ」
「お姉さま」
「嫌なものは嫌」
子どものような言い方だった。
けれど、そのわがままがあまりにまっすぐで、セラフィナは返す言葉をなくす。
遠くへ行ったら嫌だと、そんなふうに言われる日が来るとは思わなかった。
塔の中にいた頃は、近づくことすらためらわれていたのに。
「……わたし、そんなふうに言っていただけるのですね」
思わずこぼすと、王妃とエレノアが同時にこちらを見た。
次の瞬間、王妃は泣きそうな顔になり、エレノアは眉を寄せる。
「当たり前でしょう」
「そうよ」
「やっとこうして共にいられるのに、セラフィナは遠くに行きたいの?」
そう言われて、セラフィナは少しだけ笑った。
笑ったのに、胸の奥はじんと熱かった。
王は結局、レオニスに与える新しい領地を王都に比較的近い場所へ定めた。
功績に見合う広さと豊かさを持ちながら、王都との往来もしやすい土地だった。表向きには復興と王家の要衝としての意味が説明されたが、そこに王妃とエレノアの感情が少しも混じっていないとは、誰も思わなかった。
出立の日、セラフィナは城門のところまで見送りに出た。




