終章 ともに歩く①
神殿の一件からひと月ほどが過ぎたころ、王都にはようやく、壊れたものを壊れたまま見つめるだけではない空気が戻りつつあった。
瘴気に裂かれた石畳はまだあちこちで補修の途中で、崩れた壁も、閉ざされたままの通りも残っている。白耀石を失った都は、以前より少しだけ暗く、不便で、頼りなく見えた。けれど、それでも人は歩いていた。店を開ける者がいる。割れた窓を直す者がいる。行き交う声も、泣き声ばかりではなくなった。
石に守られる時代は終わったのだと、誰もが知っていた。
だが、それは国の終わりではなかった。
王家は神殿と旧記録の見直しを命じ、教会のあり方も改められた。白耀石と祈りだけで国を支えられると信じていた時代は、もはや過去のものとなった。教会の権威は大きく揺らいだが、すべてを断ち切ることはしなかった。祈りを必要とする者は、今もいる。だからこそ、残すべきものと捨てるべきものを見極めるように、王家主導でゆっくりと再編が進められていた。
シリルはその中で、最後まで静かだった。
糾弾の場でも声を荒らげず、自らの言葉を翻すこともなかった。ただ、神殿での奇跡を前にしてなお、あれは姫が役目を果たした尊い証だと、穏やかな顔で語った。人はその穏やかさに、かえって言葉を失った。
セラフィナが最後に彼と向き合ったのは、神殿の件が正式に記録へ移される前、王城の回廊だった。
白い陽の落ちる静かな廊下で、シリルは相変わらず柔らかく微笑んでいた。
「お加減はいかがですか、姫殿下」
その声音は、以前と変わらなかった。
変わらないからこそ、セラフィナはもう惑わされない。
「元気です」
「それはなによりです。神は、あなたをお守りくださった」
「……そうかもしれません」
セラフィナは一度言葉を切った。
窓の向こうに広がる空は、塔の高窓から見ていたものよりずっと近い。
「でも、わたしはもう、役目だけで生きているわけではありません」
「姫殿下」
「あなたは最後まで、わたしをそういうものとして見ておられた」
責めるつもりはなかった。
ただ、もう知ってしまったのだ。役目のために生きるのと、生きた先に役目があったのとでは、何もかもが違うのだと。
シリルはほんのわずかに目を伏せる。
それは敗北の顔ではなく、理解の届かないものを前にした沈黙のようだった。
「それでも私は、姫殿下の御身に意味があったことを疑いません」
「ええ。わたしも、意味がなかったとは思いません」
「ならば」
「でも、その意味は、あなたの言うものとは少し違うのだと思います」
シリルはそれ以上何も言わなかった。
穏やかなまま一礼し、そのまま去っていく。その背は、最後まで静かなままだった。理解し合わないまま、交わらないまま、それでも同じ国の中に立つしかない者の背だった。
そのことを、セラフィナは不思議ともう怖いとは思わなかった。
怖いものばかりだった世界に、今は少しずつ、違うものが増えている。
たとえば朝の中庭で、侍女たちが洗い立ての布を干している光景。
たとえば塔の外を普通に歩く人々の靴音。
たとえば城下へ視察に出る兄の背を、姉が窓辺から呆れたように見送る顔。
セラフィナは塔の外の世界を少しずつ知っていった。
王城の庭を歩いた。
城下を見た。
王都近くの修復の進む村へも出た。人々が恐縮しながらも、やがて恐る恐る笑ってくれるようになるのを見た。子どもが遠くから手を振り、母親に慌てて引き戻されそうになったあと、王妃が「大丈夫よ」と言ってその子を安心させる場面もあった。
そんなひとつひとつが、セラフィナには新しかった。
そして、健康を取り戻した身体は、ゆっくりとだが確かに変わっていった。
以前のように、風に吹かれればそのまま消えてしまいそうな細さではなくなった。頬にはうっすらと柔らかさが戻り、首筋や肩の線にも、ようやく人らしい温度が宿る。白銀の髪は以前より艶を増し、深い青緑の瞳は伏せているだけでも光を含んで見えた。
侍女が髪を整えながら、何度も目を潤ませるのを、セラフィナは少し困ったように見つめた。
「どうして泣くのですか」
「姫様が、お綺麗で」
「前からでしょう」
と、後ろでエレノアが言う。
「やっと、みんながそれを見る余裕を持っただけよ」
その年の夏の終わり、王城で慎ましい夜会が開かれた。
復興の節目を祝うにはまだ質素な規模だったが、それでも王家の末姫が正式に人前へ出るには十分な場だった。
「今さらデビュタントも何もないが」
と、ユリウスは半ば呆れたように言った。
「それでも世間はそういう形を好む。お前がここにいると、見せるにはちょうどいい」
鏡の前に立ったセラフィナは、少しだけ息を呑んだ。
昔の自分なら、こんなふうに立っていられなかった。
けれど今、鏡の中の自分は、弱々しいだけの姫ではなかった。静かで、淡く、それでいて目を離しがたい光があった。
「……別人みたいです」
と小さく呟くと、
「もとからだ」
とユリウスが短く返す。
「やっと、お前が痩せ衰えていないだけだ」
その言い方が兄らしくて、セラフィナは少しだけ笑った。
広間へ入った時、空気が一拍遅れて変わる。
ざわめきが、波のように広がった。
恐れでも好奇でもなく、純粋な驚嘆に近い視線だった。
白耀の塔に閉じ込められていた姫。呪い姫と囁かれていた王女。人々が勝手に思い描いていた像を、いま現れたセラフィナはあっさり裏切っていた。
夜会が始まってほどなく、高位貴族の息子たちが次々に寄ってきた。
公爵家の嫡男。侯爵家の次男。王家に近しい家柄の若者たち。
誰もが丁寧で、洗練されていて、いかにもよく教育された物腰をしていた。だがその丁寧さの奥にある計算も、セラフィナには見えた。
王家の末姫。
白耀石なき後もなお、象徴としての価値を持つ存在。
しかも、想像を超えて美しい。
「ぜひ、次のダンスを」
「庭園の薔薇が見事なのです、ご案内を」
「この秋にはわが領でも狩猟会を──」
差し出される言葉は整っていた。
けれど整いすぎていて、どこにも体温がなかった。
そのたびにユリウスの目が少しずつ冷えていくのがわかって、セラフィナは内心で困った。兄は兄で、あからさまに不機嫌になる寸前だった。
それでも、夜会を終えたころには、セラフィナの中ではっきりしたものがあった。
どれほど立派で、洗練されていて、家柄のよい人たちを前にしても、胸は少しも動かなかった。
むしろ、その華やかさの中で、自分の心がどこへ向いているのかが前よりずっとわかりやすくなった気がした。
夜会が終わったあと、ユリウスは廊下で露骨に眉を寄せた。
「やはり、ろくでもない」
「兄上」
「お前の顔を見た途端、急に目の色を変えるな」
「普通のことではないでしょうか」
「普通なら腹は立たん」
そのあまりの言い方に、セラフィナは思わず笑った。
「でも」
と、少し考えてから言う。
「おかげで、よくわかりました」
「何がだ」
「わたしは、ああいう方々には少しも惹かれないのだと」
ユリウスは一瞬だけ黙り、それからため息を吐いた。
「……知っていた」
それからほどなくして、レオニスは小さな箱を差し出した。
王城の庭の片隅、夕暮れの光が長く伸びるころだった。




